歴史の勉強

歌舞伎の勧進帳で有名な富樫氏は、藤原魚名6世にあたる鎮守府将軍藤原利仁のさらに5世の孫家国が、富樫介と号したのが始まりとされる名族である。もっとも、そう伝えられるというのが正しく、確証となるものはない。富樫介とは八介(秋田城介、千葉介、上総介、三浦介、狩野介、井伊介、富樫介、大内介)の一つで、「侍の面目とする官」と称えられる称号で、富樫家当主は代々富樫介を称する。

歴史の表舞台へ 加賀守護就任と離任 再び加賀守護に 富樫氏の内訌 応仁の乱と文明の一揆 長享の一揆と富樫氏滅亡
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歴史の表舞台へ
富樫氏が歴史に名をあらわすのは平安時代末期のことで、寿永2年(1183年)に反平家連合を結ぶ加賀の武士団の一員としてである。加賀の武士団は木曽義仲の行動に積極的に参加したが、最後まで義仲と行をともにせず帰国し、鎌倉時代を迎えた。
富樫氏の本拠である富樫郷に隣接する拝師(はやし)郷に拠る林氏は、富樫氏と同じく藤原利仁を祖とし、富樫氏とライバル関係にあったが、富樫氏を圧倒する勢力を有していた。
その名門林氏の家綱が承久の乱(1221年)によって没落し、それと入れ替わるように富樫氏の勢力が伸張する。鎌倉時代後期富樫泰家の名が、在京人である篝屋守護人(京都の辻ごとにある篝屋で警固にあたる、六波羅指揮下の在京御家人)としてあり、篝屋料所として近江の大原庄を領有していた。
泰家の子家春は、熊野の海賊討伐などに功があり、伊勢・遠江・伊豆・常陸・近江・加賀などに十数か所の所領を与えられた。さらにその子泰明は伊勢国で地頭職を与えられている。
一方、加賀においては泰明が白山宮に神拝したり、泰明の子で久安氏の祖となる家明が白山本宮と金剣宮と争いを仲介したりしており、実質的に守護と同等の力があったものと推定されている。

加賀守護就任と離任
元弘3年(1333年)に足利尊氏(当時は高氏)が反幕へ方向を転じると、鎌倉幕府の滅亡に先立って、六波羅はあっけなく滅んだ。六波羅探題の被官は探題北条仲時とともに近江で滅したが、在京人はいち早く足利尊氏のもとに参じた。泰明の子の富樫高家もその一人であった。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が誕生すると、高家は倒幕の功によって伊豆多留郷の地頭職を安堵された。
建武2年(1335年)に北条高時の子の時行が鎌倉で挙兵した中先代の乱が起きる。尊氏は鎌倉に赴き時行を攻めたが、この時に高家は尊氏と行をともにし目覚しい活躍をし、その恩賞として「加賀国守護職」を与えられる。
これは高家が所領を持つ伊豆国の守護が尊氏であり、そのために尊氏と早くから主従関係があったこと、尊氏は有力な武士を味方に引き入れる必要があったこと、富樫氏は富樫介を称する加賀の名門であったことなどが大きな理由であったろう。
高家は名実ともに守護として加賀に入ったのは、翌建武3年の暮れから4年の初めにかけてである。富樫氏を加賀守護に押し上げた高家は貞和元年(1345年)に没したとされる。

高家の没後家督を継いだのは子の氏春である。氏春は、貞和元年の富樫新庄を新たに得た。富樫新庄は富樫氏ゆかりの富樫庄の隣接地である。
足利尊氏と弟直義が争った観応の擾乱では終始一貫して尊氏方につき、その恩賞として観応3年(1352年)に加賀山城庄地頭職を文和3年(1354年)に越中野尻庄地頭職を与えられた。
氏春の没後、その子竹童丸への家督継承は、竹童丸が幼少のために幕閣から横槍が入り、簡単にはいかなかったようであるが、幕府執事細川清氏の尽力で竹童丸の家督が実現した。氏春の頃からの守護代であった一族額氏出身の富樫用家が、幼い竹童丸をよく補佐し危機を救ったとされる。
竹童丸は応安5年(1372年)に元服して昌家と名乗り、この年に上洛して幕府に出仕した。昌家は加賀の支配を守護代英田次郎四郎に任せて、将軍足利義満に近侍している。
嘉慶元年(1387年)4月昌家が没すると加賀守護職は斯波義将の弟義種に与えられた。これは幕府内の権力争いで細川頼之に勝利した斯波義将が、勢力拡大のために富樫氏から守護を取り上げたもので、以後加賀の守護は義種、義教、義種(再任)と3代に渡り斯波氏が就く。

富樫氏は守護を離れたが、高家・氏春・昌家と続く三代の間、守護所を野々市に置き、領国体制を固めようとした。そのために庶子を久安氏、押野氏、額氏などに分封し、一族的な立場から同族的な立場にして富樫宗家がそれを統制するという方法をとった。
しかし、松任・倉光・相河・狩野など加賀の有力な国人は足利将軍の奉公衆に列し、守護の統制外である上に、天竜寺・東福寺などの守護不入権を有する寺院領も多く、さらに御領所と呼ばれる幕府直轄領の存在があり、これらが富樫氏の領国体制固めの足かせになって、守護支配を難しくしていた。

再び加賀守護に
応永21年(1414年)6月加賀守護であった斯波義種が将軍義持の忌諱にふれて失脚し、再び富樫氏が加賀守護に返り咲いた。
しかし一国守護ではなく、北半国(河北郡・石川郡)が富樫満成に、南半国(能美郡・江沼郡)が富樫満春にそれぞれ与えられる半国守護であった。
満成は庶流の久安氏の出身で、将軍義持の母の西向殿に早くから近侍しており、西向殿の死後は義持に近侍して、その寵を得ていた。
一方の満春は昌家の弟満家の子で、将軍の寵臣である庶流の満成に守護職を奪われる恐れを感じた嫡流の満春が、二度にわたり義教を自邸に招くなどかなりの運動をした結果とも思える。
満春は、守護就任後も仙洞御所造営作事奉行などを勤め、奉仕をしている。

応永23年(1416年)に関東で起きた上杉禅秀の乱で、将軍義持の弟義嗣が禅秀に与し反乱に関与していたとされた。応永25年(1418年)正月、満成は義嗣を捕らえて乱への関与を自白させ、この結果土岐氏や山名氏などが失脚、公家の日野持光や山科教高は配流となった。
ところが、この義嗣の自白が満成の偽作とわかり、満成は批判にさらされて高野山に入り、のちに畠山満家に誅された。満成の領した半国は満春に与えられ、富樫氏の加賀守護復帰4年にして一国守護なった。
満春は北半国の守護代に山川筑後守家之、南半国の守護代に二宮信濃入道を置き領国を支配したが、応永34年(1427年)に没した。

富樫氏の内訌
満春の跡は嫡子持春が家督を継いだが、永享5年(1433年)閏7月に、守護職にあることわずか6年、21歳の若さで没している。
持春には子がなく、弟の教家が家督を継いだ。教家は家督を継ぐ前には奉公衆として将軍義教に近侍していたが、嘉吉元年(1441年)6月18日、義教の突然の怒りに触れて守護を解任される。
将軍専制を狙う義教の恐怖政治の犠牲となったもので、富樫の家督は醍醐寺三宝院の喝食となっていた教家の弟慶千代が還俗して継ぎ、泰高と名乗った。
教家解任の6日後に義教は赤松満祐に殺され(嘉吉の変)るが、この事態に幕府管領細川持之は人心の安定を図るために義教に追放された人々を復帰させる方策を採った。
これを受けて教家は守護職の返還を求め、幕府の有力者畠山持国がこれを加勢した。

持之は泰高の烏帽子親でもあったために教家の要求を拒否し、為に加賀では教家方と泰高方の間に争乱が起きた。
翌嘉吉2年(1442年)に持之が管領を辞し、後任に畠山持国が就任すると、持国は教家の子成春に加賀守護を与えた。これにより加賀での教家・成春方と泰高方の戦闘は本格化した。
この争いは京都にも波及し、泰高方の管領畠山持国邸への襲撃にまで(結局事前に計画が漏れ、調停され未遂に終る)発展する。
文安2年(1445年)管領に細川勝元が就任すると泰高方が有利となり、文安3年(1446年)9月に越前守護斯波持種の支援を得て、泰高方は成春方を越中に駆逐した。
しかし泰高方は完全に勝利したわけではなく、成春方も巻き返しを図る動きを見せた。文安4年(1447年)に至り、成春・泰高に対して幕府より、両者を半国守護とする和解案が提示される。
両者はこの案を受け入れ、成春は北半国の、泰高は南半国の守護となった。

北半国の守護となった成春であったが、長禄2年(1458年)になると管領細川勝元はこれを解任、北半国の守護職には赤松政則が任ぜられた。
赤松氏は嘉吉の変により没落をみたが、後南朝より神璽を奪い取ることに成功し、その功績を評価されて半国とはいえ守護職に復した。
この守護交替の裏には細川勝元がおり、畠山派の成春を更迭し自派の政則を後任とすることで、泰高の南加賀と併せ加賀一国を自派に取り込むことが目的であった。
成春は寛正3年(1462年)に死去、一方の泰高は寛正5年(1464年)に隠居し、成春の子政親に家督を譲った。これにより富樫氏は一本化されたが、これも勝元の意を受けてのことと推測されている。

応仁の乱と文明の一揆
政親が家督を継いで3年後の応仁元年(1467年)に、天下を二分して争われる応仁の乱が勃発した。諸大名は否応なく乱に巻き込まれ、細川勝元率いる東軍と山名持豊率いる西軍に属して戦った。
細川勝元の影響下にあった富樫氏は当然東軍に属し、また加賀北半国の守護赤松政則も細川方であり、加賀は一国全てが東軍に与した。
ちょうどこの頃に赤松政則は旧領であった備前・播磨の守護に返り咲き、このため加賀北半国は富樫政親に与えられ、富樫氏は加賀一国守護に復帰した。
加賀は東軍であったが、隣国の越前と能登は西軍に色分けされ、この影響もあって北加賀の反政則・政親派の勢力は、越前の朝倉氏と通じ政親の弟幸千代を擁して政親と対立した。

さらに越前と加賀の国境にある吉崎に文明3年より本願寺蓮如が坊舎を構え、北陸における本願寺の拠点とした。本願寺派は専修寺派(伊勢専修寺を本山とする教団で、親鸞の門弟で真仏を中心とする門徒を格に発展し、本願寺と対立した)を吸収する形で勢力を拡大したために、専修寺派と鋭く対立し、専修寺派は加賀での勢力確保の為に幸千代と結んだ。
吉崎の衆徒は専修寺派に対するために政親と結ぶよう蓮如に迫り、最初は慎重だった蓮如も本願寺門徒が専修寺派に攻撃されるに及んで、ついに政親と結び専修寺派に対抗した。
文明6年(1474年)7月に政親・本願寺方と幸千代・専修寺方の間に戦いが開始され、数度の及ぶ合戦の後10月14日幸千代方の蓮台寺城が陥落し、政親は勝利し幸千代は京都に敗走した。

幸千代が逃げるとたちまち政親と本願寺の関係がおかしくなった。そもそも政親と本願寺の利害がたまたま一致したために結んだ盟約で、共通の利害がなくなれば破綻する。
文明7年(1475年)3月に本願寺門徒を中心とする一向一揆が蜂起したが失敗、6月に再び門徒宗が蜂起するがこれも敗北し、8月には蓮如が吉崎を去り、蜂起は一旦治まった。
政親は一揆を押さえ込んだものの、領国内は不安定であり、その支配は思うに任せなかった。その間に一向宗徒は力を増し、相対的に政親の権威は低下した。

長享の一揆と富樫氏の滅亡
文明18年(1486年)政親は上洛して9代将軍義尚の右大将拝賀に供奉し、将軍の権威により事態を有利に導こうとした。さらに翌長享元年(1487年)義尚の命により南近江の六角高頼追討軍に参陣した。
すでに応仁の乱後の戦国時代に入っており、室町将軍の権威は低下し、六角氏追討も将軍が如何に命じても参陣するものなく、従うのは富樫氏のみであったという。
この間加賀では近江出陣により兵が減少し、その隙をついて一揆が勃発した。この報に政親は急ぎ帰国したが事態は好転せず、翌長享2年には一揆勢が政親の拠る高尾城を包囲した。
将軍義尚は事態を憂慮し隣国越前守護朝倉貞景に政親救援を命じたが、一揆勢は越前国境を封鎖し朝倉勢は入国できなかった。
政親は一揆勢に包囲された高尾城で長享2年6月自刃した。

一揆勢が守護を倒すという前代未聞の出来事は各地に衝撃を呼んだ。加賀では以降守護は名目であり、実態は一揆が支配し「百姓ノ持チタル国」といわれるようになった。
名目にしかすぎない守護には政親ののち隠居していた泰高が再び就いた。泰高の死去後は孫の稙泰が就く。稙泰の時に一向一揆が超勝寺・本覚寺派と賀州三ヶ寺派に分裂して対立した。
超勝寺・本覚寺派は越前より亡命してきたグループが中心で大一揆とよばれ、賀州三ヶ寺派は蓮如の三人の子の加賀国内三寺院を中心とするグループで小一揆と呼ばれた。
賀州三ヶ寺派は富樫氏との協調路線をとっていたが、戦いは超勝寺・本覚寺派の勝利に終り、その結果稙泰もその地位を追われた。

天文15年(1546年)になると加賀尾山の地に本願寺の別院ともいうべき金沢御堂が建立され、加賀は名実ともに「百姓ノ持チタル国」になる。
一方の富樫家では稙泰に替わり晴泰が家督を継いだ。晴泰は本願寺に対して書状を送ったりしており、かつての守護の権威など微塵もなくなっていた。
そのような中、尾張から出た織田信長の勢力が勢いを増してきた。信長の本願寺嫌いは有名であり、晴泰も一縷の望みを抱いたのだろう。元亀元年(1570年)に信長が浅井・朝倉軍と対峙している機を捉えて本願寺との強調方針を捨て、信長に呼応して兵を挙げる。
しかしたちまち一揆勢に囲まれて自害し、ここに名門富樫氏は滅び去った。

参考文献:室町幕府守護職家事典(新人物往来社)、北陸の名族興亡史(新人物往来社)、守護・戦国大名事典(東京堂出版)

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