歴史の勉強

朝鮮との関係

宗貞盛が少弐教頼を援けて筑前侵攻を画していたころ、朝鮮との間で紛争が起きた。李朝の太祖が貞盛に対して、「対馬はもともと慶尚道に属する朝鮮領土であり、宗氏は朝鮮に降るか日本に帰るどちらか選択せよ。対馬にとどまるならば兵を出して討つ」と威嚇してきたのだった。これが宗氏が九州侵攻にいまひとつ専念できない理由であった。
嘉吉3年(1443年)に朝鮮の威嚇に屈した貞盛は条約を結ぶ。対馬では嘉吉条約といい、朝鮮側では正統癸亥約条と呼ぶ。
この条約で対馬は朝鮮の属州とされ、貞盛には宗氏都都丸の印が与えられ、貞盛の証明書(書契)を有する者のみが通商を許されることとなった。

朝鮮が貞盛に与えた印は銅製のもので、これを通交許可証に押すことで正式な通交証となり、これを図書(ずしょ)と呼んだ。貞盛は受図書人ということになり、朝鮮の代官という貌を持つことになった。
朝鮮の意図は貞盛を受図書人とすることで倭寇の跳梁を抑え、統制貿易を行うにあったのだが、貞盛は特権を得たことで朝鮮貿易を独占でき、やがて特権を乱用した。
公式に認められた歳遣船は50艘であったが、事情によっては特送船が認められていたために、貞盛は特例を最大限に活用し実質的には無制限の貿易が行えた。貞盛は朝鮮に屈服したがごとくであったが、実利を取ったのであった。

朝鮮との貿易に成功した貞盛は、漁船の出漁権も独占的に握って対馬の完全支配に成功した。貞盛の跡を成職が継いだが成職には嗣子がなく、その跡を肥前春日山で戦死した貞盛弟盛国の子の貞国が継いだ。
貞国はそれまで島内で宗氏が本拠としていた佐賀から現在の厳原に居を移し、祖父貞盛の遺を継いで少弐教頼を援けて大内氏と戦い、教頼は八代将軍足利義政から赦されて大宰府に帰還する。
応仁の乱が勃発すると、西軍についた大内氏に対抗して教頼は東軍に与した。貞国は教頼に従い大内氏と筑前で戦うが、応仁2年(1468年)12月に大内・大友連合軍に敗れて、教頼は戦死してしまう。

教頼戦死後の少弐氏の家督を継いだのはその子の政資であった。貞国は引き続き政資を支援し、文明2年(1469年)7月大内政弘が中央での戦いに注力した虚をついて、筑前にあった大内軍を攻撃して敗走させ大宰府を回復した。
政資は大宰府の回復を背景にして、筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の五カ国の守護職を得ている。貞国は博多にとどまって政資を支援したが、政資が貞国の功績に対して充分に報いなかったことが原因で貞国と政資は不和となった。
政資は貞国から離れ、肥前で力をつけつつあった龍造寺氏と結んで勢力の拡大を目指した。

文明9年(1477年)政資は大内政弘攻撃にあたり貞国に出兵を要請したが、貞国はこれに応じず、その結果政資は大敗した。
大内政弘が九代将軍義尚を頼んで貞国に政資支援をやめさせたことが原因であった。これは貞国と政資の不和を知った政弘が幕府に働きかけて貞国を諭したためとされるが、貞国も大内に領内通行を認めて益を得た方が得策との判断があり、そのために少弐氏を離れ大内氏への接近を図ったものであろう。
いずれにしても、政資と貞国との仲はすでに修復不能なほどになっていたのである。政資は大宰府を追われ、文明14年(1482年)には龍造寺氏を頼って佐嘉郡与賀荘に移っている。

少弐氏との関係を絶った宗氏は、少弐氏が永禄2年(1559年)に冬尚の死によって事実上滅亡すると、九州から撤退せざるを得なくなった。
筑前進出は少弐氏を擁してこそ名分があったのであり、少弐氏亡き状態では大内氏の後を襲った毛利氏や大友氏、龍造寺氏などに対抗できる力は到底宗氏にはなかった。
宗氏には朝鮮貿易で生きる道しか残されていなかったのであった。しかし朝鮮にとっては後進国である日本との貿易は望むものではなく、断交したいというのが本音であった。

永正7年(1510年)に三浦の乱が起きる。そのころ朝鮮では富山浦(釜山)、塩浦(蔚山)、乃而浦(昌原郡能川面)の三浦を日本との交易港に指定しており、そこには多くの日本人が居住していた。
永正3年(1506年)に朝鮮の中宗は三浦や日本の貿易船に対する統制を強化し、これに対して三浦居住の日本人は不満を抱いていた。
さらに銅の交易を朝鮮側が拒否し、朝鮮の役人が日本人を殺害するに及んで不満が爆発、三浦の日本人は暴動を起こした。この背後には宗氏十二代の当主義盛がいたとされる。
暴動は朝鮮側によって鎮圧され、交易は断絶状態になった。2年後の永正9年(1512年)になって、ようやく壬申条約が結ばれて交易が再開されるが、歳遣船は25艘に半減され、三浦も閉ざされてしまった。

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