歴史の勉強

戦国時代に山口に本拠を置き、防長両国をはじめ周辺地域に覇を唱えた大内氏は、百済の聖明王の第三王子琳聖太子の後裔と称していた。
日本に渡った琳聖太子が、周防国多々良浜に着き、以来その子孫が大内村に住して、その地を名字としたとするが、これは室町時代になって大内氏の発展に伴って主張されたもので、裏付けや確証はない。したがって琳聖太子説は伝承にすぎず、その出自は不詳とせざるを得ない。
一方で平安時代末期に多々良氏は周防国の実力者となり、鎌倉時代には周防を実質的に支配した。やがて周防守護となり室町期には朝鮮との貿易を背景にして勢力を伸ばし、幕政にも参画するほどとなった。
その最盛期には6ヶ国の守護を兼ね、また山口を京に見立てて整備し、戦国時代には多くの文化人を庇護して伝統文化に拘った。
三十一代義隆は極端な貴族趣味に走り、ために文治派と武断派の対立を招き、謀臣陶隆房の叛逆にあって自刃し、、実質的に大内氏は滅亡した。

(一)伝説の時代から周防の一大勢力へ


(二)守護大名大内氏


(三)義弘と盛見の時代


(四)戦国大名として


(五)名族の滅亡


大内氏歴代当主


大内氏略系図(青字は大内氏歴代当主に記載、赤数字は大内氏が主張する代数)

参考文献:大内義隆のすべて(新人物往来社)、大内興亡(山口新聞社)、人物叢書・大内義隆(吉川弘文館)、失楽園の武者(講談社文庫)、戦国大名系譜人名事典西国編(新人物往来社)、中国の名族興亡史(新人物往来社)、室町幕府守護職家事典(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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