歴史の勉強

最上氏と関ヶ原

会津討伐へ


豊臣秀吉亡き後、五大老の筆頭として政務を預かっていた徳川家康が、関ヶ原の戦いの前段階である会津討伐を宣言したのは、慶長5年(1600年)5月3日のことであった。
前年に父祖の本拠地越後から会津に移封されたばかりの上杉景勝に対し、家康は五大老の重職にある景勝の上洛を何度も促したが、景勝はそれに従うどころか家康の神経を逆なでするような返事をし、上洛どころか国内で戦争準備を始めた。
上杉のこの行為は周辺諸大名の知るところとなり、景勝の跡に越後に入った堀秀治から上杉謀反の訴えが家康になされた。家康は堀秀治や最上義光ら会津の周辺諸大名に上杉家から眼を離さないように命じていた。とくに堀は上杉が残しておくべき年貢を全て持ち去ったり、上杉が越後で一揆を扇動したりで上杉とは仲が悪かった。
家康の方は半分挑発で景勝に上洛を促したのだから、戦争準備を始めればそれを口実に会津を攻めて上杉家の勢力を削ぐか滅亡させるだけ。そのための出陣であった。

ただ家康だけがのこのこ出て行っては単なる私戦だから、形式を踏まなければならない。家康は会津征伐を決めると6月6日大坂城西の丸に諸将を集め、作戦会議を開いた。
周囲を山に囲まれた盆地の会津にはいくつか入口がある。北側の米沢口には山形の最上義光と出羽の諸将、東側の信夫口には陸奥の伊達政宗、東南の仙道口には常陸の佐竹義宣、西側の津川口には前田利長と越後の諸将、南側の白河口には家康・秀忠父子の本隊、総数20万ともいわれる大軍で会津を攻めることした。
6月15日には豊臣秀頼から家康に軍費と軍糧が与えられ、これによって上杉討伐は公戦となった。家康は6月16日会津に向けて大坂を発った。

義光をはじめ佐竹義宣、伊達政宗の3人は家康に先立って帰国した。至急準備を整えなければならぬ。家康は途中わざと時間をかけて東下し、半月もかけて7月2日に江戸に入った。これはこの間の上方での動きを察知し、動きがあれば会津征伐を中止して反転することを考えていたためという。
江戸に入った家康は7月7日に軍議を行い、会津攻撃を同月21日と定めた。米沢口は義光が先陣となり、南部利直、安東実季、小野寺義通、戸沢政盛らが後詰めとなり、庄内への押さえとして由利十二頭の小介川孫次郎、仁賀保挙誠があたると決められた。
これにより山形には南部勢5千、安東勢2千6百、戸沢勢2千2百、小介川・由利勢千7百などが入った。評定により義光の嫡男義康が6千5百の兵を率いて、先陣として米沢口に向うことが決せられた。

このまま行けば会津の上杉は四方から敵を受け、いくら120万石の強兵をもってしても、ひとたまりもないはずであったがそうはならなかった。
周知の通り上方で石田三成が決起し、五大老の毛利輝元を担ぎ上げて家康に挑んだのだった。この報は急を以って家康のもとに知らせられた。家康がそれを知ったのは24日下野小山でのことだった。
実はこの少し前に家康を弾劾した一人であり、五奉行でもあった増田長盛から家康のもとに三成決起確実の密書が届けられた。長盛は裏切ったというより、家康が勝った場合の保険をかけたのであろう。
この長盛からの密書に接した家康は、直ちに義光に書状を送り会津進撃を中止させる。大坂に動きがあるから、しばらく様子を見る、それまでは動くなというものである。

会津討伐中止と奥羽の動き

小山で正式に三成決起の急報を受けた家康は、翌25日軍議を開く。前日黒田長政を通じて福島正則に言い含め、それを受けて正則は直ちに反転三成を征伐すべしると口火を切らせた。
もともと上方決起の際は反転西上、東西決戦に及ぶというのが家康の描いた戦略だから、家康は会津攻撃を中止し宇都宮に長子秀康を押えに残し西に急いだ。
家康はそれでよいが、他方面の将はそう簡単にはいかぬ。天下第一の精強を誇る上杉勢が無傷で残っているのだ。
伊達政宗は上杉と和睦しさっさと兵を退いた。もっとも家康は上杉と伊達に結ばれては適わないから、伊達政宗に伊達家の旧領48万石の加増を約束する書状を与えている。世に言う百万石のお墨付である。だが、関ヶ原後このお墨付は政宗に不審な行動ありとして反故にされる。
また、南部、小野寺、安東など山形に集まったの諸将たちには家康は帰国を許した。これによって南部ら諸将は早々に帰国してしまい、義光だけが上杉の前にさらされることになった。

当時の義光の所領は24万石、これは上杉の臣で米沢を治める直江兼続の所領30万石にも及ばない。直江は上杉家の臣であり軍師であったが、才能にあふれ秀吉から独立した大名として一本釣されかけた。
しかし、それを断り、その才を惜しんだ秀吉が景勝の会津移封の際に特に米沢30万石を与えたのだった。所領でも及ばないのに天下第一の才に攻め込まれてはたまらない。
義光は上杉家へ書状を送った。それは上杉家が会津に移封されてからのち上杉家には臣下同然に接してきた、今後も家臣同様に勤めるし、嫡子義康を人質に差し出す用意もあるから、最上を攻撃しないで欲しいというものだった。
ある意味降伏状のようにもとれるが、家がなくなるよりは降伏同然でも残るほうがましである。義光も必死であった。

一方家康は江戸に入り会津対策を指示した。すでに先発隊は美濃に向い、大垣城を攻撃奪取した。この報を伝えて義光と政宗に激励と上杉押さえ込みを命じた。
また、越後を守る堀秀治にはもし上杉が越後に出てきた場合は春日山城を守れ。背後から秀康以下関東衆を攻め込ませるというものであった。
それらの対策を終えると家康は東海道を西に向った。これを知った上杉家軍師直江兼続は最上攻撃を決意した。米沢から山形までは自然の障害が少なく、また義光の陣がもっとも手薄であったから、これは当然の判断であった。

9月8日、直江兼続は2万4千の兵をもって米沢を出陣し、最上領攻撃に向った。
米沢に入れた細作の報告で攻撃を察知していた義光の戦略は、無理に決戦をせずに持久戦に持ち込むという作戦であった。同時に嫡子義康を伊達政宗のところに派遣して援軍を要請、山形の南にある荒砥、長谷堂、上野山の各城に応援を入れて死守せよと命じた。
一方の直江兼続は軍を二分し、木村親盛、松本善右衛門、横田宗俊、篠井泰信、椎野弥七郎らに4千の兵を預けて上野山城に向わせ、自身は2万の主力を率い長谷堂城に向った。
さらに本庄繁長を大将にして、志駄義秀、下治右衛門らが兵3千をもって庄内から六十里越街道を東進させて寒河江、左沢、長崎方面を攻略させた。

上野山に向った直江軍の支隊は地形の関係もあって苦戦した。特に伏兵に背後から襲われたり、前進しようとすれば山上より巨石を落とされたりで、主将の木村親盛をはじめ椎野弥七郎らを失い、中山城に撤退しなければならないほどであった。
一方兼続は率いる主隊の方は狐越街道を進んで畑谷城を攻め落とした。畑谷城は小城ではあるが糧道確保のためには絶対に落としておきたい城であった。
畑谷城を守っていたのは江口道連で、道連は渓流を城外に引いて氾濫させて城の守りとした。上杉勢は最初これを攻め倦んだが、夜間に堤を破って水が引くのを待ち、翌日猛攻を加えて攻め落とした。
城将江口道連は力戦して自刃して果てた。これを聞いた義光は嘆き悲しんだという。
その翌日、兼続は富神山を迂回して長谷堂に向う。富神山を過ぎればはるか山形まで自然の障害物はほとんどない。したがって山形城も遠くに望めるはずであるが、この日は低く霞がかかって山形城を見ることはできなかった。山形城の別名を「霞ヶ城」ともいうが、それはこのとき生まれたともいう。

長谷堂城を巡る攻防

兼続が長谷堂城の攻撃にかかった9月15日は、遠く西方の関ヶ原で東西決戦が行なわれた日である。もちろん兼続、義光ともにそんなことは知らない。
兼続は長谷堂から1キロほど離れた菅沢山の北山崎に本陣を置いて長谷堂攻撃にかかった。長谷堂城の守将は志村伊豆守光安。長谷堂を落とされれば山形城の命運も風前であり、城兵の反撃も凄まじかった。
長谷堂城と菅沢山の間には一面の深田が広がっており、そのために戦いは城方に有利であった。上杉勢は深田にはまって思うように動けず、城方は充分に上杉勢を引きつけて一斉に銃火を浴びせた。上杉勢の攻撃ははかばかしい結果を生まなかった。

その夜、義光は兵8百をもって直江軍の背後から夜襲をかけたが、これは直江軍に察知されて失敗した。その翌日16日、さらに17日長谷堂では城兵が奮戦し城を守った。ここに至って直江兼続は長谷堂の攻略を断念。直接山形城の攻撃に取り掛かるべく作戦を練り直すことにした。
義光の方は必死であった。長谷堂は風前であり、六十里越街道を進んできた本庄軍は寒河江城や白岩城を奪取して山形に圧力をかけている。また、この状況を見て横手城主小野寺義道は西軍に寝返り最上領に侵攻し、雄勝郡の合川城を攻め落とした。
一方このころ義康の要請を受けた伊達政宗は最上への援軍を決定していた。政宗の参謀役片倉景綱は救援せずに直江を勝たせ、その後に直江を討てば一挙両得との案を出したが、政宗は、「長年、最上とは争ったが、一つには家康公のため、今ひとつには母上のため(政宗の母保春院は最上家にいた)」と言い、政宗の叔父の清水城主留守政景に騎馬5百余り、鉄砲隊7百余りを率いさせ救援に向かわせた。

政景は22日に国境の笹谷峠を越え、翌23日には山形城に入り義光と作戦を協議、24日に山形城と菅沢山の中間の沼木で直江勢と対峙した。
政景の山形入城を受け、政宗は自ら白石に出陣した。白石は伊達氏の旧領で、これはどさくさまぎれの旧領回復戦であった。
長谷堂では志村伊豆守光安の必死の防戦で膠着状態が続いていたが、伊達の援軍が到着したことで最上軍の士気は大いに上がった。
9月29日城方は突然城門を開き討って出た。上杉勢は不意を突かれて激戦となり、この激戦の中で上杉方の上泉泰綱が討ち死にしている。
泰綱は新陰流兵法を開いた上泉伊勢守の孫であり、祖父と同じくすぐれた武芸者として名が高かった。義光は泰綱の首を手厚く葬った。

最上義光、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続らが、相次いで関ヶ原本戦の結果を知ったのは、9月30日から10月1日にかけてのことであった。
報せを聞いた瞬間、皆一様に驚いたことだろう。当時の常識では、これだけの会戦がわずか半日足らずで決着がつくはずはなかった。これは彼らだけではなく、全国のほかの諸将も同じであった。
最上軍の士気は一気に高まり、一方直江兼続のもとには景勝から即時撤退の使者が向かう。兼続は撤退を始めたが最上・伊達勢の追撃を受けた。
兼続は殿軍に水原親憲と前田慶次を宛てた。前田慶次は天下に知られた文武の英傑で、追いすがる最上軍を大身の鑓で追い散らしたという。
兼続は10月3日に荒砥城撤退を終えたが、両軍の損害は最上方6百余、上杉方2千百余という。

また、義光は勢いに乗じて寒河江方面を回復した後、庄内に攻め込み尾浦城を攻め落とし、酒田城に圧力をかけた。仙北口からは雄勝郡に兵を入れて横手城を攻めた。
これを見て仙北の安東実季、戸沢政盛、六郷政乗、仁賀保挙誠らも最上勢に加勢して小野寺領を攻めている。
奥羽での関ヶ原と呼ばれる長谷堂城を巡る戦いは以上であるが、これらの結果最上義光は庄内・由利33万石加増され57万石の太守に、一方の上杉景勝は90万石を減封されて、直江兼続の所領であった米沢30万石に、伊達政宗は100万石のお墨付を反故にされわずか2万石の加増、小野寺義道は所領を没収され改易となった。

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