歴史の勉強

京極氏と関ヶ原

文禄4年(1595年)に6万石で大津城主となった京極高次は、翌慶長元年には従三位参議に昇任した。しかし慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去し、その後武功派と吏僚派の大名が対立し、さらに家康と石田三成の対立が激しくなると、高次の立場も微妙になってきた。
秀吉の側室であった妹龍子は、秀吉の死後に髪をおろして芳寿院と名乗り、大津城に移っていた。正室のお初は家康と対立する淀殿の妹であり、家康の子秀忠の正室お江与の姉であった。
その上、高次の子の忠高と秀忠の女初姫の婚約も整っていた。高次は豊臣、徳川両家ともに深い関係にあった。

慶長4年(1599年)3月に秀吉亡き後の重鎮前田利家が、秀吉の後を追うように病没すると、家康と三成はの対立は激しさを増した。
天下を狙う家康は次々と手を打ち、武功派の豊臣恩顧の大名たちを巧みに操って自派に取り込み、反三成派を形成した。
慶長5年(1600年)に入ると、家康は上杉景勝を討つために会津征伐を行なう。景勝が再三の上洛要請に応じないのは謀反の証として、秀頼の命で五大老筆頭の家康自ら、同じ五大老の一人景勝を征伐するというのが公式な形であった。
もちろん形はそうであるが、景勝征伐に名を借りて大坂を留守にして、その間に三成ら反家康派に挙兵させ、返り討ちにする戦略である。

家康は6月16日に主に畿内と東海地方の諸大名、それに家康自身の軍を率いて大坂城を発ち、伏見城に入る。伏見城は上方における家康の本拠で、ここで守将鳥居元忠と別杯を酌み交わした。
三成は兵を挙げるや伏見城を攻撃して血祭り挙げるのは間違いなく、守兵は全滅するのは確実であった。元忠は家康が今川義元のところに人質に出されていたときからの臣で、家康もこの老将の運命を思って涙したのである。
18日に家康は伏見城を発つ。その日、昼食のために大津城に入った家康は、そこで高次と密談した。これから起るであろう大坂での三成挙兵と、その際は高次が家康に与することを密約したとされる。
家康は高次との密談を終えると城の修繕費に白銀30貫を与え、芳寿院やお初とも面会したという。家康が大津城を発った時には高次の人質として老臣山田良利を伴っていた。
また、高次の弟で文禄2年(1593年)に信濃飯田で10万石を領していた高知は、最初から家康に与して会津討伐軍に参加していた。

大津城の築城は天正14年(1586年)ごろといわれ、琵琶湖の浮城と呼ばれた華麗な城であった。本丸が琵琶湖に突き出た水城で、五層四重の天守のある本丸を二の丸が囲み、二の丸を三の丸が囲み、本丸は内堀、中堀、外堀と三重の堀で囲まれていた。
初代城主は坂本城主だった浅野長吉で、その後増田長盛、新庄直頼が城主となったあと、高次が城主となったのである。
大津は琵琶湖の水上交通の要となり、東海道、東山道方面への通過点でもあり、京への入口でもある要衝で、三成ら西軍としては絶対に確保しておきたい拠点であった。だが高次は、このときすでに家康に与することを決断していた。

家康はその後、会津に向って軍を進めたが、その留守を狙い石田三成は反家康の挙兵に向けて動き出した。7月11日に会津征伐軍に加わるべく越前敦賀を発った大谷吉継を三成は佐和山城に迎えて家康打倒の密謀を打ち明ける。
吉継は最初諌めたが、三成の決心が固いと知ると三成に与し、増田長盛や安国寺恵瓊らを交えて会議を行い、家康討伐作戦を開始した。
三成らは、西軍の総大将に毛利輝元を担ぎ出すことに成功し、京や大坂の諸大名の妻子の帰国を禁じ、近江に関所を設けて東方への通行を遮断した。

大津城には三成の使者として朽木城主の朽木元綱が来て、高次に人質と西軍への出兵を求めた。高次は最初曖昧な返事をしていたが、催促が激しくなると、表向きは西軍に与して長子熊麿を人質として大坂に送る。
その直後に毛利輝元から越前に侵入した前田利長を攻撃せよとの命が届き、大津城の留守居に兵千を残し、残りの2千の兵をもって利長攻撃に向う。
これを見て三成は大津城に使者を送り、大津は味方の通路の地ゆえ開城せよと迫った。しかし留守居の重臣赤尾伊豆守らは君命を楯にこれを拒絶した。
その間、越前に入った高次は美濃に向えと変更命令を受けた。そこで高次は美濃に向うと見せて、方向を変え塩津に出て琵琶湖を船で渡り大津に戻ってしまう。

大津に入った高次は直ちに籠城の準備を進め、家康に密書を送って大津城で西軍を迎え撃つと告げた。これに驚いた西軍は使者を送り翻意を促す。
ついには大坂城の淀殿を動かして、侍女の孝蔵主と阿茶の局を大津へ遣わし、お初に対面させて高次の東軍加担を思い止まらせようとした。
高次は使者との面会を拒絶し、ここに至って西軍は毛利元康を大将に、毛利秀包、桑山一晴、伊藤祐兵、立花宗茂、宗義智ら1万5千の大軍をもって大津城を攻めた。

9月9日から三日三晩休みなく攻め立てたが、大津城の一郭すら攻め落とせず、逆に城兵の夜襲にあって多くの兵を失う始末。
攻囲軍は9月12日から長等山に大筒を据えて砲撃を開始し、さらにその後千挺もの鉄砲で攻め立てた。これにより二の丸、三の丸は甚大な被害を蒙り、さらに立花宗茂の猛攻撃によって城の一郭が破られ、以後は西軍の猛攻が続く。
13日には三の丸が落ち、二の丸も陥落寸前の状態となった。14日には降伏勧告の使者として高野山の木食上人が送られた。
高次は降伏を拒否したが、城内では兵糧弾薬も尽きかけていた。そこへ長等山からの砲弾が天守閣に命中し、芳寿院の侍女2名が戦死し、芳寿院も意識を失った。

ここに至り、ついに高次は降伏することに決し、西軍と人質を交換し城を開いた。翌15日早朝に高次は三井寺に入り剃髪し高野山に向ったが、この15日は関ヶ原において東西両軍主力の決戦が行われ、わずか半日で家康が天下を取った日であった。
戦後家康は、「もう1日城を持たせたら、高次は近江で40万石を得られたものを」と言ったと言う。しかし大津城攻撃に割かれた西軍1万5千は決戦には間に合わず、その兵力をわずか3千の城兵で釘付けにした功績は大きく、家康は高野山に使いを出して高次に山を降りるよう説得した。
高次は降伏を恥じてこれを断ったが、家康からの重ねての使者に山を降りた。家康は高次を労い、10月に若狭小浜で8万5千石を与え、翌慶長6年(1601年)にはさらに1万2千石を加増した。
また、高次の弟高知は、岐阜城攻撃や関ヶ原本戦で功を挙げ、それにより丹後宮津12万3千石に転封された。
豊臣、徳川両家と因縁の深い名門京極氏はこうして関ヶ原を乗り切り、江戸時代にも大名としてその命脈を繋いだのである。

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