歴史の勉強

書店の町といわれる東京神田神保町は、越中の戦国大名であった神保氏に由来するといわれる。神保氏は管領家であった畠山氏の家臣であり、越中守護代として力をつけ戦国大名となったが、能登畠山氏や越後長尾氏、加賀一向一揆などに囲まれて飛躍できずに滅んでしまう。庶流が家康に仕えて旗本となり、神田神保町の名はこの旗本屋敷があったからという。
神保氏の出自と畠山氏との関係 神保氏の越中入国 畠山氏の内訌 応仁の乱と神保長誠
神保慶宗 神保長職 神保氏の滅亡 神保氏略系図と当主 


神保氏の出自と畠山氏との関係
越中の戦国大名神保氏は、惟宗姓を本姓とする説が一般的であるが、平姓、橘姓とする説もある。平姓は千葉氏の一族である神保氏が、また橘姓は庶流であった神保氏張の系統が江戸期に旗本となって称えたもので、千葉氏一族の神保氏は別流であり、旗本となった神保氏自称であるとされる。
越中神保氏の名字発祥の地は上野国多胡郡辛科郷神保邑とされている。神保氏は畠山氏の家臣となって頭角を現したが、畠山氏に仕えるまでについては明らかになっていない。

明徳3年(1392年)8月28日、足利三代将軍義満が、開創した相国寺の落慶供養に臨んだ際、その模様を東坊城秀長が記録した「相国寺供養記」には、神保宗三郎国久、神保肥前守氏久、神保四郎右衛門尉国氏の名が見える。
この当時畠山基国は侍所頭人であり、義満警護の先頭にあって、その郎党の名を記した中に前記3名の神保氏の名が見えるのである。
ほかには斎藤氏が5名、遊佐氏が4名記されていて、神保氏は既にこの時点で畠山家中で重きをなしていたと思われる。

神保氏の越中入国
その後、神保氏が畠山家中でどのような地位を占め、越中と関わりを持つようになったのがいつごろであるかなどは、詳らかではないが、嘉吉3年(1443年)12月27日付の文書(越中守護畠山持国奉行人が越中宮河庄を徳大寺家雑掌に渡し、年貢は上杉治部少輔代に沙汰させるよう神保備中守に命じたもの)に名が見える備中守は、神保国宗であるとされる。
国宗は「相国寺供養記」に名が見える宗三郎国久の子あるいは孫にあたるとされ、おそらく神保氏はこの時点で越中守護代になっていたと考えられている。

畠山氏は細川氏、斯波氏と並ぶ管領家であり、畠山持国も管領を2度勤め、大和・山城・河内・紀伊・越中の5ヶ国の守護となった。
越中については康暦元年(1379年)に、畠山氏を幕府の管領家に押上げた功労者である畠山基国が守護に任ぜられて以来、畠山氏の世襲分国であった。
畠山氏は在京であり、越中には守護代を置いた。基国と次の満家のころは重臣の遊佐氏が守護代であったが、遊佐氏も在京であり、越中にはさらに遊佐氏の守護代を置いた。

その後、畠山持国と持永の間に家督を巡る争いがおき、持永が勝利したが嘉吉の変で持永が追われ、代わりに持国が家督を取った。持永派であった遊佐氏の当主国政は失脚し、、遊佐一族の地位は低下した。
これにより越中の守護代は遊佐氏の一国守護代から遊佐・椎名・神保の三守護代制に変わったという。
越中は四郡に分かれており、遊佐氏が砺波郡にあって蓮沼城(福岡)に、神保氏は射水・婦負の両郡にあって放生津(新湊)に、椎名氏は新川郡にあって松倉城(魚津)に住した。

畠山氏の内訌
畠山持国の実子であった義就は妾腹であったために、早くから石清水八幡で出家させられ、持国の跡目は末弟の持冨と決まっていた。ところが文安5年(1448年)に突如持国は方針を変更し、義就を還俗させて嫡子とした。
これにより畠山家では義就派と持冨派に家臣が分かれて、争うことになる。持冨派の神保氏・土肥氏・椎名氏らは義就の家督継承に反対し持富の子の弥三郎を家督に就けようとしていた。
このことを察知した義就派の遊佐国助らが享徳3年(1454年)4月、神保氏の京都の屋敷を襲撃し、神保越中守父子を殺害し、土肥・椎名氏をはじめ弥三郎も没落させた。これが、応仁の乱の大きな原因ともなる畠山氏の内訌の始まりであった。

一旦没落したはずの弥三郎には、持国のあとに管領となった細川勝元がバックについていた。勝元は畠山家の内訌を煽って、畠山家を弱体化させ没落させようとしていた。
弥三郎派の巻き返しに、病身でもあった持国は義就とともに逃亡し、弥三郎が家督継承者に直り、八代将軍足利義政の許可も取り付けた。
享徳3年11月になると持国も弥三郎の家督を認め、幕府に出仕した。しかし義就側も負けてはおらず、12月には河内から兵を率いて上洛し、弥三郎を追い落としてしまう。翌康安元年(1455年)2月義就が再び家督になり、3月に持国が没すると畠山家の当主となった。

幕府は義就に弥三郎追討を命じ、越中にも何らかの軍勢が派遣されたらしく、康安元年8月には放生津城が落城し、神保国宗は没落した。
放生津城は越中における神保氏の拠点であり、これによって神保氏も越中での影響力はなくなった。その後、弥三郎は将軍義政から赦免されるが病没し、弥三郎派はその弟の政長を新たに担ぐ。
管領細川勝元の策動もあって、長禄4年(1460年)に義就が失脚して京を追われ、代って政長が畠山家の家督を継いだ。これにより神保氏も復活し、国宗の子であると考えられる神保孫三郎長誠が登場する。

応仁の乱と神保長誠
畠山政長は寛正5年(1464年)細川勝元から管領を譲られるが、文正元年(1466年)になると、細川勝元に対抗した山名持豊がクーデターを起こし、義就を再び河内に入れ、将軍義政に迫って政長を更迭し、畠山の家督を義就に変えた。
これにより今度は政長が失脚した。政長は翌応仁元年(1467年)に洛内相国寺に近い御霊林で挙兵し、ここに10年にわたって続く応仁の乱の幕が切って落とされた。
応仁の乱は、俗に戦国時代の始まりともいわれるように、全国に影響を及ぼした。越中においては西部は神保氏、東部は椎名氏が抑えていたが、特に神保氏は武力を背景に次第に越中全国に勢力を伸ばし始めた。

文明4年(1472年)義就被官の遊佐国助が越中射水郡倉垣庄に代官として強引に入ると、神保氏の違乱が見つかっている。違乱の内容はわからないが、神保氏が応仁の乱をきっかけに、越中で勢力を伸ばし始めてた一つの証左であろう。
応仁の乱は約10年に渡り続き、文明9年(1477年)に一応の終息を見た。しかし畠山家は、政長、義就両派に分かれて河内を中心に争いを続けていた。
延徳2年(1490年)になると義就が死去し、その跡を基家が継ぐ。明応2年(1493年)になると政長は将軍義材に対し基家を斃すための河内出陣を要請し、義材も応仁の乱で地に落ちた将軍の権威を回復するために、河内に出陣した。
しかし、この出陣中に基家と通じた細川政元が京でクーデターを敢行、これにより政長は敗死し、その子尚順は紀伊に逃げた。将軍義材も失脚し幽閉され、畠山家の家督は基家が継ぎ河内・紀伊・越中の守護となった。

このころ神保長誠は半中風の状態になっていて、河内の畠山氏の抗争には参陣せずに越中に在国していた。そのために越中は政長の跡を継いだ尚順派の反抗基地となっていた。
細川政元に幽閉されていた将軍義材は明応2年6月29日に大雨に紛れて脱出に成功し、越中に落ち延びた。長誠はすでに30年近く実質的に越中を支配しており、その実力は畠山家中でも抜きん出ており、義材も長誠の力を頼ったものと考えられる。
越中に入った義材は、放生津の正光寺を御所とし、近習や奉公衆が集まり、能登畠山氏、加賀富樫氏、越前朝倉氏など周辺諸国の主だった大名から使いが来たという。

義材は放生津から諸大名に対して御内書を発して援助を求め、紀伊に逃れた尚順も紀伊をほぼ平定し、お互い連携を図りながら機を窺がっていた。
義材は越中公方と呼ばれ放生津は賑わいを見せたが、これに対し畠山基家・細川政元は明応2年に早くも攻撃をかけたが、長誠により撃退されている。
義材は義尹と改名し、明応7年(1498年)に放生津を発って上洛の途についたが、近江で六角氏の軍勢に敗れて丹波に逃れ、やがて西国の大内氏を頼った。義尹は、永正8年(1511年)大内氏によって念願の上洛を果たし、将軍に返り咲くことになる。
長誠の子慶宗は、義尹に供奉し、周防の大内氏のもとにまで同道していたと思われる。義尹が大内氏の本拠山口に入ったのは明応9年(1500年)のことであり、慶宗が大内氏のもとを辞して越中に帰国したのを迎えた長誠は、その後暫くして文亀元年(1501年)11月17日に病死している。

神保慶宗
長誠の跡を受けて家督を継いだのは慶宗であった。このころ京では義尹を敗走させた細川政元が権力を握っていた。政元は密接な関係にあった本願寺を利用して、北陸の反政元勢力に対し一向一揆をかけた。
反政元というより基家に敵対する尚順に与していた神保氏が、一揆の標的になったのは当然であり、その攻撃の前に越中は一時的に一揆勢の制圧下に置かれた。
越中を脱出した国人らは隣国越後の守護代長尾能景を頼り、永正3年(1506年)に能景は越中に侵攻して一揆勢と合戦に及んだが、砺波郡芹谷野で戦死してしまう。
能景の子で跡を継いだ為景は、能景戦死の原因を神保慶宗はじめ越中衆の非協力にあるとし、為景は神保氏を敵視した。

為景は越後に退き、越後国内の統一平定に奔走して目的を達すると、永正12年(1515年)に越中に侵入した。このときは慶宗はじめ越中衆の反撃にあって退却したが、永正16年(1519年)に再び越中に侵攻した。
為景は父の仇神保慶宗を討伐すると宣言し、能登畠山氏の当主義総やようやく和睦なった河内畠山氏と同盟して越中に入った。
為景は境川で神保軍を破り真見・富山に陣を張り、二上山麓まど進軍したが、能登口に不慮の事態が発生し、やむなく退却し為景は越後に戻った。
翌永正17年に為景は、また越中に侵攻した。このときも能登畠山、河内畠山氏と為景は同盟している。慶宗は観念したのか、かつての盟友畠山尚順に帰参を願ったが拒否される。慶宗は新庄城に陣を張る為景を攻撃したが、敗れて自害して果てた。

神保長職
神保慶宗自害後しばらく神保氏の動きは見られなくなる。次にその名が見られるのは、天文14年(1545年)11月に玉水寺宝寿に宛てた制札にある神保長職である。
長職は慶宗の実子とされ、慶宗自害からのその動きは明らかではないが、越中国内で勢力を養い、やがて富山に築城したと考えられている。
長職は椎名氏の支配地域であった新川郡にも勢力を伸張し、椎名氏との間に抗争が起きた。この間越後では長尾為景が死去し、嫡子晴景と景虎(のちの謙信)が家督を巡って争い、越中侵攻どころではなった。このことが神保氏の勢力回復に影響したのは間違いないであろう。

越後では景虎が家督争いに勝利し、永禄3年(1560年)に椎名氏を援けるために越中に入り、神保氏を攻撃している。戦いは景虎の勝利に終わり、長職は一時行方知れずになったといわれ、椎名氏の地位は保たれた。
しかし長職のダメージは小さく、同年中には極楽寺に禁制を下すなどの活動をしている。その後景虎は輝虎と改名し、永禄5年(1562年)にも越中に侵攻し、再び勝利している。
永禄11年(1568年)にそれまで親上杉であった椎名氏が、反上杉となり武田・本願寺勢力と手を結んだ。これによって越中・越後の情勢は一変する。

椎名氏と敵対していた長職は従来から反一揆であったが、さらに上杉との結びつきを模索することになる。元亀2年(1571年)に長職は上杉謙信に越中出馬を要請している。
しかし長職はその裏面で一揆勢力にも接近を図っていたようで、一向宗の瑞泉寺の要請で聞名寺に不入を申し付けている。
その後も上杉謙信は能登・越中に対して大きな関心を持ち続けるが、神保家中では対上杉氏との関係について意見が割れて、家中が分裂し始める。

神保氏の滅亡
長職は親上杉の立場に立ったが、子の長住は反上杉で、長職には重臣小島氏が長住には寺島氏がついて家中を二分しての争いとなった。
この内紛は神保氏を弱体化させ、反上杉の長住は追放されて織田信長を頼り、一方の長職も剃髪して二男長城に家督を譲ったが、実権は重臣の小島職鎮が握った。
しかし長職は、元亀2年(1571年)末ごろに再び立場を変えて、反上杉となり一揆と和睦する。これ以後長職の名は史料に見えず、程なく死去したとされる。

越中神保氏は長職の死をもって事実上滅亡した。神保氏の家臣は、その多くが上杉家臣団に組み込まれ、越中は上杉氏に支配下に置かれた。
やがて織田信長と上杉謙信が国境を接して直接に対立し、謙信が死去した後の天正6年(1578年)に神保長住が越中に派遣され、越中で神保旧臣を集めて上杉に対抗するが、上杉勢に逆襲され、拠っていた富山城に幽閉されてしまう。
長住は織田軍により救出されたが、信長の怒りに触れて追放され、以後の消息は知れない。

なお、庶流(神保国氏の孫)の神保氏張は長職から離れて上杉謙信に降伏してその家臣となったが、謙信没後に織田信長に接近してその家臣の佐々成政に仕えて功をあげた。
成政はその後失脚し、氏張の浪人となるが、天正17年(1589年)に徳川家康に仕え、下総国香取郡内で2千石を与えられた。この長張の子孫は江戸期には旗本として存続し、屋敷のあった位置から神保町の名が興ったとされる。

神保氏略系図
神保氏の系図については諸説あって一定せず、北陸の名族攻防史坂井誠一氏作成のものを抜粋して掲載



神保長誠 じんぼうながのぶ
?〜1501(?〜文亀元)

神保国宗の子。畠山家の家臣であったあった神保氏は、主家畠山家の内訌に絡んで国宗は失脚したが、その子の長誠の代になって復活した。これも畠山家の内訌の結果であった。
すなわち畠山政長派であった長誠は、畠山家の家督を継承していた義就が管領細川勝元の策動により失脚して京を追われ、代って政長が畠山家の家督を継ぐと復活を見た。
その後、長誠は越中に守護代として入り、寺社本所領であった倉垣庄を押領するなどして勢力を得て、やがて失脚した足利将軍義材が長誠を頼って越中に入ると、これを庇護するまでになる。
神保氏がこのように越中では抜きん出た勢力を持つまでになったのは、長誠の功績であったが、主家畠山家との争いなどが足枷になって、神保氏は越中の小大名以上には成長できなかった。
長誠も結局義材を一時的に庇護し、上洛を側面から支援をしたが、軍事的に援けることはできず、義材は上洛に失敗し、。義材は周防の大内氏を頼った。
その後暫くして長誠は死去するが、長誠の時代が神保氏の最盛期であった。

神保慶宗 じんぼうよしむね
?〜1521(?〜永正17)

長誠の子で幼名を道五郎、初め慶良と名乗る。文亀元年(1501年)の長誠の死去により家督を継ぐ。慶宗が家督を継いだころから加賀一向一揆が越中に侵攻しはじめ、慶宗はその攻撃の前に敗北してしまう。
慶宗は隣国越後の長尾能景に救援を頼み、なんとか一揆勢を撃退するが、その後の一揆勢との戦いでは長尾氏への協力を渋り、長尾能景を見殺しにしてしまう。これがきっかけで長尾氏の恨みを買い、以後両家は対立して、数度の合戦に及ぶ。
慶宗は畠山氏からの独立や一揆との接近など、独自の動きを見せたが、畠山氏や長尾氏の攻撃に晒されて、越中新城城の戦いで長尾氏に敗北して自害した。

神保長職 じんぼうながもと
?〜1572(?〜元亀3)

長職は慶宗の実子とされている。神保氏は慶宗自害からのちの動きは明らかではないが、子の長職を中心に越中国内で勢力を養い、やがて富山に築城したと考えられている。
慶宗の氏で一時的に勢力を失った神保氏であったが、長職の代には新川郡にも進出し椎名氏と対立し、さらに上杉(長尾)氏とも戦いを繰り広げて、勢力の維持拡張に務めた。
しかし上杉氏の勢力が越中に大きく影響を及ぼしだすと、神保家中では上杉氏へ対応を巡り、親上杉派と反上杉派が対立する。長職は親上杉であり、反上杉であった子の長住を追放するが、これらの内紛で神保氏は疲弊し、実権は重臣の小島職鎮に握られてしまう。
その後、長職は剃髪して宗昌と号し、家督を二男長城に譲る。その後、長職は反上杉に立場を転換するが、もはや影響力はほとんどなく、その後史料には名が見えず、元亀3年に死去したとされる。

参考文献:戦国大名系譜人名事典(新人物往来社)、北陸の名族攻防史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌
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