歴史の勉強

蘆名氏歴代当主

佐原義連 さわらよしつら
生没年不詳
三浦大介義明の七男とされ、佐原城を与えられて佐原十郎を名乗る。この義連の系統が会津蘆名氏となるので、義連を蘆名氏の祖とする。文治5年(1189年)7月の頼朝による奥州藤原氏と義経の追討に従軍して活躍し、戦功によって佐原義連は陸奥国会津郡、同河沼郡、同耶麻郡を与えられた。

佐原盛連 さわらもりつら
生没年不詳
義連の長男で、二郎兵衛尉盛連を名乗る。執権北条時頼と三浦宗家が争った宝治合戦では、執権北条方についた。盛連には6人の男子があり、長男経連は会津猪苗代に、二男広盛は会津河沼郡比田(北田)に、三男盛義は会津向郡藤倉に、六男時連は耶麻郡新宮に住した。いずれも北条領で、その地頭職に任じられたらしいが、それぞれ地名を名乗り土着していった。
五男盛時は三浦介となって三浦宗家を継ぎ、四男光盛は蘆名氏を継いだ。この新生蘆名氏の流れが戦国大名蘆名氏となるのである。

蘆名光盛 あしなみつもり
1204〜1263(建仁4〜弘長3
盛連の四男で佐原蘆名氏の本宗を継いだ。なお蘆名を実際に名乗ったのは光盛からだとする。

蘆名泰盛 あしなやすもり
生没年不詳
光盛が没した跡はその長男経光が継いだが、経光も死去したために葦名氏の家督は経光の弟である泰盛が継いだ。

蘆名盛宗 あしなもりむね
生没年不詳
泰盛の子で遠江守、左衛門尉を名乗る。

蘆名盛員 あしなもりかず
?〜1335(?〜建武2)
盛宗の子。鎌倉幕府滅亡の流れの中で、蘆名一族は北条方に味方したが、幕府滅亡後の北条時行の反乱である中先代の乱では蘆名盛員、高盛父子は尊氏方について参戦、8月14日に相模国片瀬川で討死した。

蘆名直盛 あしななおもり
1323〜1390(元亨3〜明徳元)
先代盛員の二男で、中先代の乱で盛員とその長男高盛が戦死したために家督を継いだ。真壁文書の三浦若狭守ではないかといわれる。会津に移り、至徳元年(1384年)に小高木に居を定めて館を築き、鶴城と名づけて城下を黒川と称したという。明徳元年12月20日に68歳で死去した。

蘆名詮盛 あしなあきもり
1346〜1407(貞和2〜応永14)
先代直盛の長男で、伊達氏とともに篠川御所に反抗したとされる。応永14年9月15日に62歳で没す。

蘆名盛政 あしなもりまさ
1376〜1429(永和2〜永享元)
先代詮盛の長男で、応永期に新宮氏や北田氏ら蘆名一族としばしば合戦に及び、北田、加納、新宮氏らを滅ぼして会津地方の支配者としての地位を確立した。永享元年6月10日に54歳で死去した。

蘆名盛久 あしなもりひさ
1405〜1444(応永12〜文安元)
先代盛政の長男で、応永33年(1426年)頃跡を継いだが、文安元年7月に39歳で没した。

蘆名盛信 あしなもりのぶ
1416〜1451(応永23〜宝徳3)
先々代盛政の二男で、先代盛久が嗣子なくして没したために家督を継いだ。しかし7年後の宝徳3年3月18日に56歳で没した。

蘆名盛詮 あしなもりあきら
1431〜1466(永享3〜文正元)
先代盛信の子。宝徳3年(1451年)に盛信の死去により家督を継いだが、その直後の宝徳3年7月に松本右馬充と多々良伊賀が私闘し、翌8月には一族の猪苗代盛光が反乱、享徳2年(1453年)には松本右馬充が叛くなど家臣団の反抗や闘争に悩まされた。
一方で外征も行い、米沢の伊達氏や白河結城氏とも争っている。とくに長禄3年(1459年)8月には伊達持宗と戦って敗れ、同年12月には金山谷の地頭山内越中守を攻め滅ぼすなどの動きが見られ、家臣らの反乱に苦しみながらも、着実に大名としての力を増して行った。文正元年3月14日に36歳で死去した。

蘆名盛高 あしなもりたか
1448〜1517(文安5〜永正14)
先代盛詮の子で、文正元年(1466年)に父の死により家督を継いだ。この翌年盛高は将軍足利義政から二階堂、伊達、田村、石川氏らとともに古河公方足利成氏討伐を命ぜられ、一方成氏も蘆名、伊達、白河の各氏に合力を要請している。
文明11年(1479年)には渋川義基の拠る高田城を攻略するなど、会津領内の基盤をより強固に固めていった。
一方で、延徳・明応〜永正期に激しい内乱に見舞われることとなった。家臣団間の争いのほかに、米沢の伊達父子の争いにも介入した。
永正2年(1505年)になると、子の盛滋との間で争いとなったが、この争いは重臣松本氏と佐瀬氏・富田氏の対立が原因であった。
盛高は佐瀬、富田氏を支持し、盛滋は松本氏を支持し、同年10月についに塩川で合戦が繰り広げられ、盛滋が敗れて伊達領長井に落ちて行った。
また盛滋方であった中目、西海枝、佐野、栗村氏らも長井へ逃れたが、翌永正3年には父子間の和睦がなり、盛滋は会津に復帰している。永正14年12月8日に死去した。

蘆名盛滋 あしなもりしげ
1482〜1521(文明14〜永正18)
先代盛高の子で、父と対立して重臣間の対立とも絡み、永正2年(1505年)に塩川で合戦に及んだ。盛滋はこの合戦に敗れて伊達領長井に落ちて行ったが、翌永正3年には父子間の和睦がなり、盛滋は会津に復帰した。
しかし3年余りのちの永正18年2月に死去し、弟の盛舜が家督となった。

蘆名盛舜 あしなもりみつ
1490〜1553(延徳2〜天文22)
先々代盛高の二男で、永正18年(1521年)に兄盛滋の跡をついで当主となった。家督直後に家臣団に反乱が起きたが、これは盛舜の家督相続に家臣の不満があったからではないかと考えられている。盛滋の後嗣となる人物は複数おり、その中で盛舜が選ばれたことから、それに反対する勢力が乱を起こしたものとされる。
家臣の反乱を鎮圧した盛舜はやがて権力を固め、対外進出への道を進む。享禄元年(1528年)9月に伊達氏を援けて葛西氏を攻め、天文元年(1532年)には南山田島の長沼実国と戦った。天文3年(1534年)には伊達氏、石川氏と連合して岩城氏、白河氏と争っている。
一方で天文7年(1538年)には将軍足利義晴に遠江守任官の礼物として太刀一腰、黄金十両を贈り、天文9年(1540年)には後奈良天皇が書写した般若心経が届けられている。天文22年8月21日に64歳で没した。

蘆名盛氏 あしなもりうじ
1521〜1580(大永元〜天正8)
先代盛舜の長男で、天文10年(1541年)に父盛舜から家督を譲られた。南会津の長沼氏や山内氏、伊南郷の河原田氏、猪苗代地方の猪苗代氏など蘆名氏に服属していなかった領国周辺の諸豪族を服属させた。
また天文11年に伊達氏で起きた天文の大乱にも介入し、田村郡三春の田村隆顕とも戦って、天文20年(1551年)には安積郡の大半を領国化している。
天正2年(1574年)には田村清顕と結んで須賀川の二階堂氏を攻め、二階堂氏を服属させる。一方で伊達氏、結城氏らとは婚姻政策を取り、後北条氏、武田氏、上杉氏らとも同盟を結んだ。
これらの積極的な対外政策によって盛氏は蘆名氏の全盛時代を築いた。盛氏は永禄4年(1561年)に嫡男盛興に家督を譲って隠居し、向羽黒山に隠居城を築いて退き、止々斎と号した。

蘆名盛興 あしなもりおき
1547〜1575(天文16〜天正3)
先代盛氏の長男で、永禄4年(1561年)に父盛氏から家督を譲られたが、天正2年(1574年)6月5日に29歳の若さで病死した。

蘆名盛隆 あしなもりたか
1561〜1584(永禄4〜天正12)
須賀川城主二階堂盛義の長男で、黒川城に人質に入れられた。蘆名氏先代盛興は、天正3年(1575年)に死去したが子がなかった為に、盛隆を盛興の未亡人伊達氏と結婚させて当主とした。
この人質から当主になった盛隆に対し、家臣団が反発し松本太郎行輔が栗村下総と組んで反乱を起こて黒川城を占拠した。盛高はこの反乱を鎮圧したが、4ヶ月も経たない同年10月6日に黒川城内で寵臣大庭三左衛門に殺された。享年24。

蘆名亀若丸 あしなかめわかまる
1584〜1586(天正12〜天正14)
先代盛隆の嫡男で、天正12年(1584年)に盛隆が家臣に殺されたために、生後1ヶ月で家督を継いが、天正14年(1586年)11月22日、亀若丸は3歳で病没した。

蘆名義広 あしなよしひろ
1576〜1631(天正4〜寛永8)
常陸の大名佐竹義重の二男。天正14年(1586年)に蘆名家の当主亀若丸が3歳で死去すると、嫡流が絶えた。後嗣に養子を迎えざるを得なくなり、重臣の多くは伊達政宗の弟竺丸を推したが、蘆名一門の金上盛備が義広を推した。
結果として義広が養子となり蘆名の家督をついで盛重と名乗った。しかし蘆名譜代の重臣と義広に従って来た常陸出身の重臣の間で対立が起き、それを見た伊達政宗は蘆名家中の重臣を切り崩して内応させたうえで、蘆名領に攻め込んだ。
天正17年(1589年)6月5日に義広と政宗は摺上原で合戦に及び、義広は敗北し常陸に逃げた。ここに名族蘆名氏は滅亡した。
義広は天正18年(1590年)に豊臣秀吉から常陸江戸崎4万5千石を与えられたが、関ヶ原役後に家康に没収され、兄佐竹義宣の家臣となり、出羽佐竹領内角館1万6千石を領し、寛永8年(1631年)6月に57歳で没した。

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