歴史の勉強

(三)尼子経久の活躍

「雲隠両国の段銭を、京極持清のとき、要求によって免除したのをいいことに、段銭だけではなく公役以下を勤めなくなったことよろしからず。そこでこれらを破棄して、永享年中のとおりに段銭をかけ、諸役を勤めるよう京極政経に仰せつけた」
これは文明4年(1482年)12月19日に幕府から京極政経、尼子経久宛の奉書である。段銭とは臨時の税金であり、幕府から守護や大名に課して財源の一つとしたものであった。
尼子の若き当主経久は、この奉書を無視し続け、相変わらず段銭を納めず、公役も怠った。そこで幕府は文明16年(1484年)3月、出雲、隠岐の国人に経久追討の下知をした。
陰徳太平記によれば、三沢、三刀屋、浅山、広田、桜井、塩冶、古志などの国侍に下知し、経久を追い出し、塩冶掃部助を以って出雲代官としたとある。
尼子氏研究者のひとり米原正義氏によれば、当時東出雲を版図とした尼子氏が、やがて西出雲に触手をのばすのは明らかで、三沢、三刀屋氏ら西出雲の国人が一致して幕命を背景として、尼子進出を封ずる先手を打ったものとする。

ともあれ経久は出雲守護代の地位を失い、富田城からも追放された。陰徳太平記では経久は山中入道という譜代の家臣に匿われ、やがて旧臣の亀井、山中、真木、河副らを集めて、さらに鉢屋賀麻党を味方にした。
鉢屋賀麻党は技術集団であり、芸能集団でもあった。毎年正月元日の未明には富田城内で千秋万歳を舞って、鳥追いを行うのが恒例であり、経久はこの機会を利用して富田城を奪回した。
文明18年(1486年)正月元日に賀麻党が富田城内に入ったが、烏帽子、素袍の下には甲冑を着けていた。城内では見物のために女童も含めて人々が集まったが、城の裏手に忍んだ経久は賀麻党と示し合わせて、鬨の声を挙げて城中に攻め込み、城内はたちまち戦場となった。
とはいえ一方的な戦いであり、守護代塩冶掃部助は、妻子を殺し自らも火に包まれた。ここに経久は再び富田城に返り咲いたのであるが、実際の富田城奪回の経緯はわからない。いずれにせよ追放された経久が何らかの計略によって、富田城に再び入城したことは事実である。

富田に入った経久は、長享2年(1488年)に仁多郡の三沢氏を降伏させる。山中某という家臣に罪を犯させて逃亡させ、敵対する三沢氏のもとに逃げ込ませ、その山中を使って三沢氏を計略にかけたと陰徳太平記にあるが、これも真偽のほどは不明である。
ともあれ三沢氏は尼子氏と肩を並べるほどの国人であったので、三沢氏降伏のの効果は大きく、飯石郡の三刀屋氏や赤穴氏をはじめ、多くの国人が尼子氏に降伏した。
こうして出雲一国は、ほぼ尼子氏の版図となり、次の段階として支配体制の確立期に入っていく。永正5年(1508年)12月4日に守護京極政経が没したが、すでに守護としての権威も実体も無かった。
守護職は形式的に政経の孫の吉童子に譲られたが、実質的には尼子経久の時代の到来であった。事実、吉童子はその行方すらわかっていない。

富田城にあって出雲を統一した尼子経久の目は、隣国に向けられた。永正15年(1518年)には経久の弟下野守久幸が伯耆の尾高泉山城主行松入道、羽衣石城主南条宗勝を攻めた。
一方、西部では大原郡阿用磨石山城主桜井入道宗的を経久自ら出馬して討った。この戦いで経久の嫡子政久が戦死した。
さて、経久の勢力が伸張するに従って、中国地方西部の大内氏との関係が、風雲急を告げてきた。古くからの名族で、幕府にも一定の影響力を持ち、守護大名から戦国大名への転換に成功した大内氏と、守護代から短期間で成り上がった典型的な戦国大名尼子氏が対決するのは時間の問題だった。

大永元年(1521年)に経久は出雲西隣の石見に侵攻を開始した。当時の石見は名族吉見氏や名門益田氏ら国人のほとんどは大内氏に与しており、幕府は永正14年(1571年)8月に大内義興を石見守護に任じた。
石見の前守護山名某は、尼子氏に援けを求めて大内氏に対抗しようとし、翌大永元年に尼子経久は、山名氏の要請によって出兵したとされる。
まずこの年に都治兼行の守る今井城を攻略し、翌大永2年には乙明城の福屋氏を攻めた。乙明城は陥落したが、その後細腰城を攻略中に大内氏の援軍が到着し、浜田で合戦になったという。
大永3年8月には那賀郡波志浦を攻略した。一方で尼子軍は南隣の安芸にも攻め入り、大栄元年から賀茂郡の鏡山城を巡って大内郡と一進一退の戦いを繰り広げていた。

安芸では毛利氏が郡山城にあって力をつけ、その去就が注目されていたが、大内氏に属していた毛利氏は尼子に鞍替えし、この結果、大永3年6月に鏡山城は尼子氏の領有するところとなった。
この鏡山城攻防戦後に、毛利の当主幸松丸はわずか9歳で没し、幸松丸の後見者で叔父にあたる元就が毛利家を継ぐこととなった。
大永4年(1524年)に入ると経久は、伯耆攻略にかかり、尾高泉山城の行松入道、小鴨岩倉城の小鴨掃部助、北条堤城の山田高直、泊河口城の山名久氏、羽衣石城の南条宗勝、倉吉打吹城の伯耆守護でもあった山名澄之らは尼子軍に追われた。
その伯耆攻めの最中の6月、大内義興は自ら兵を率いて安芸に進撃してきた。この報に接して経久は馬首を返し、安芸に転じた。

7月に入り尼子の安芸の拠点である銀山城を囲む大内軍と尼子・毛利連合軍の戦が行われた。大内軍は義興の嫡子義隆の初陣であり、士気が高く、尼子軍を押したが、8月に入って毛利元就が大雨の中で夜襲を決行した。
大内軍はこれに敗れて廿日市に退いたが、大内の重臣陶興房は毛利元就を懐柔し、翌大永5年春には毛利を大内陣営に寝返らせた。
この毛利寝返りの真の原因は経久の元就に対する扱いに表裏が多く、元就が尼子に不信を持ったためとされている。これ以後、安芸では大内勢力が優勢となるが、やがて北九州の風雲急を継げ、大内氏の目は西方に向かざるを得なくなり、また享禄元年(1528年)7月に大内義興が病となったため、大内軍は山口に引き揚げた。
この後義興は同年12月に没し、義隆が大内の当主となるが、安芸では尼子対大内の戦いは尼子対毛利の戦いとなった。
経久は、この機に安芸で反撃の態勢に転じようとした。その矢先に起きたのが塩冶興久の謀反であった。

塩冶宮内大輔興久は経久の三男で、上塩冶の要害山城主として三千貫を領していた。興久は三千貫では不足と考え、経久の重臣亀井秀綱を通じて原手郡七百貫の加増を願った。
これに対し経久は備後で一千貫を与えたが、興久は原手郡七百貫にこだわり、これをもらえなかったのは亀井秀綱の讒言によるとして、秀綱を討とうとした。
経久は怒り秀綱を守ったが、興久は逆上して佐陀城に立て籠もり、叛旗を翻した。経久は自ら7千余騎を率いて佐陀城を攻撃し、これを陥した。興久は末次城に拠ったがここも陥ち、逃亡した。
興久は舅にあたる備後比婆郡甲山城主山内直通を頼ったが、2年後の天文3年に経久の命により自刃させられる。一方、この間安芸では毛利の勢力が伸張し、備後にも進出を始めた。
甲山城主山内直通も興久切腹を機に尼子に距離を置き、天文4年には毛利の調略によって懐柔されてしまう。経久は翌天文5年、備後に入り、甲山城を攻めて直通を追放した。さらにこの年、尼子軍は毛利陣営に対して戦を仕掛け、備中・美作にも進出して攻勢をかけた。

(四)戦国大名として

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