歴史の勉強
テーマ別学習・関ヶ原
関ヶ原通史

秀吉逝去
慶長3年(1598年)8月18日、卑賤から身を起こし天下人となった一代の英雄、太閤豊臣秀吉が世を去った。62歳といわれる。
織田信長の後を継ぎ、群雄割拠の時代を終らせた秀吉は、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮半島への侵攻を行った。戦国の騒乱が落着き、領地もほぼ固まった大名たちは、内心では海外への出兵には反対であったが、天下人秀吉に対して表立って反論できず、慣れぬ海外で数年間の長陣に耐えた。
秀吉が死去すると、もともと朝鮮への侵攻など本心では誰もしたくなかったのだから、撤収することに衆議は一決した。撤収と口で言うのは簡単だが、異国からの将兵の撤収はかなりの苦労を伴った。
結果的に見れば、朝鮮侵攻ほど無駄な戦はなかった。得るものは何もなかったといっていい。さらに、後に豊臣家の命運が尽きてしまうことになる萌芽を芽生えさせた。武将間の対立である。

豊臣氏は一言で言えば、どこの馬の骨とも知れぬ秀吉が一代で築き上げた家であった。そのために譜代の家臣というものがない。
そのため秀吉は出世するに従い、かつては同僚や先輩であった武将たちを配下に組み入れていった。そして明智光秀を破り、柴田勝家を屠り、信長の後継者となると信長恩顧の大名達を傘下に収め、さらに戦国期を生き抜いた武将達を屈服させ天下人となった。その過程で自前の子飼い武将をも育成していった。

秀吉が自身で育成した子飼いの武将たちは、さらに大きく2つのグループに分かれる。のちの言葉で言えば1つは武功派であり、いま1つは吏僚派である。制服組と文官組とでも言った方がいいのかもしれない。
武功派と呼ばれる武将たちは、戦場で先頭きっての戦働き、冑首をいくつ取ったの、敵城に一番乗りをするだのという戦闘こそ自身の働き場所という連中で、戦の功で領地を増やし出世し大名になった。加藤清正、福島正則、加藤嘉明らである。これに子飼いではないものの戦場での働きを重視する、細川忠興や黒田長政らが加わる。
一方の吏僚派は石田三成に代表される集団で、これは戦場働きより経済、内政など政治を扱うことで出世したグループである。とはいえ戦国期の武将だから、戦がまったく駄目ということはない。ただ戦よりは政治に向いている、逆にいえば武功派は戦場ではよいが、国全体を動かすような政治は不得意か苦手ともいえる。
もちろん、武功派、吏僚派と黒白はっきり分けられるわけではなく、多くはその中間的な人間であった。しかし関ヶ原に至る歴史を見る場合は、このような色分けがなされている場合が多いし、そのように考えたほうがわかり易いのも事実である。

武功派と吏僚派は、最初から仲が悪かったわけではない。しかし水と油的なところはお互い持っているので、日頃の出来事が積み重なって対立が深まっていき、それが頂点に達したのが文禄・慶長の役であった。
武功派曰く、三成らは戦場で働きもしないくせに、朝鮮での我々の働きを歪曲して太閤殿下に伝えている。一方、吏僚派の代表格の三成は統制側には統制側の苦労があり、事実は事実として全て報告するべきであるし、公平を期すためにもそれは当然と思っていたらしい。
どちらにしても戦場と後方、非統制側と統制側では立場も違えば行動も違ってくる。これは現代でも同じであり、ましてや通信状態が悪く情報の確度も低い当時にあっては、対立を生むのはやむを得ないと言ってよかったのかもしれない。
しかも、それを統御していた独裁者が死ねば、混乱は助長され対立は増幅するのは必然であった。

徳川家康
徳川家康、良くも悪しくも我が国史上最大の有名人の一人であることは間違いない。三河の大名と言えば聞こえはいいが、土豪に毛の生えたようなちっぽけな家の嫡男として生まれた。幼少時は近隣の織田家や今川家で人質となっていた。
この家康が天下人となるには運があった。戦国時代はいくら戦が強くても、運がなければ大きくはなれない。桶狭間で今川義元が敗死したのも、その後盟約を結んだ織田信長が日本統一の基礎を作ったのも、その信長が死に秀吉が後を継いだのもこれ全て結果から見れば家康に有利に働いた。
もっともそれだけではなく、本人の努力や隠忍、あるいは周囲の人材など数え上げればきりがないが、ともかく家康は秀吉政権では実力No.2であったことは間違いない。
戦国最盛期ならNo.1がいなくなった場合、No.2だからといって跡を継げるとは限らないが、戦国末期のこの時代、No.1亡き後天下人を狙えるポジションに一番近かったのも事実だろう。

そして、ここでも運があった。秀吉の子秀頼は幼くまだ4歳。平和な時代ならともかくも海外からの引き上げ、参戦大名達の評価、疲弊した国内の立て直しなどとても4歳の人間にできるわけがない。
家康は内大臣と官位が高く、関東255万石の太守であった。255万石は他の大名より飛びぬけて多く、2位の毛利が120万石あまり、3位の上杉が毛利より数千石低く、つまり2位と3位が連合したよりも家康のほうが多いのだ。石高が高ければ家臣も多く人材も豊富、つまり強いのだ。
さらに家康の経験は豊富だった。戦国時代を大名として生き抜いてきた実績に正面きって対抗できるのは、前田利家くらいだ。秀吉が逝去したこの時、たとえ本人が好まなかったとしても、家康が秀吉の変わりを勤めなければならなかったのだ。

五大老五奉行
秀吉政権には五大老、五奉行があった。あったというのは、確かに五大老、五奉行は名前の上でも存在はしたが、制度上の役職ではなかったらしい。
江戸時代の徳川政権の老中や奉行のように、制度として存在し役割が与えられていたわけではないらしい。したがってメンバーも書類によっては若干違うし、五大老と言われる人たちのことを奉行と表現したりと統一性が見られなかったりしている。
とはいえ五大老や五奉行がいきなりできたわけではなく、秀吉在世中からそれなりに役割を与えられていたこともまた事実である。大老の5人は合議で政策を決める政権の意思決定機関、それを受けて奉行は政策を執行する機関と思えば大きくは違わない。
五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜田秀家、上杉景勝であった。五奉行は石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以の5人であったが、前田玄以は対朝廷や公家の窓口である京都所司代を兼ねており、実質の奉行の実務は玄以を除く4人で行っていたようである。
先に記したように徳川家康は押しも押されもしない大大名であり、同時に五大老の代表格でもあった。一方の奉行側の代表格は言うまでもなく石田三成であった。

石田治部少輔三成、幼名佐吉、近江で秀吉に見出されたという。能吏として実績をあげ、近江佐和山19万石の城主。戦場働きがまだまだ武士の本分であった時代に、計数に明るく、政策立案能力もある程度あったということは、政権が安定しだして基盤整備が急務となると重宝されたに違いない。
大規模な戦闘でも後方勤務が多く、常に秀吉のそばにいるので、自然と秀吉の信任は厚くなった。これが、武功派には面白くない。
徐々に対立を始め、文禄・慶長の役で火を噴いた。秀吉逝去後に三成と浅野長政が博多に派遣され、朝鮮からの引き上げ事務や諸将の出迎えの任にあたった。湊で出迎える三成を、引き上げて来る武将達は、ほとんど無視したという。
中には加藤清正のように敵意を剥き出しにする者もいた。

家康対利家
この状況に家康は内心大喜びしたことだろう。豊臣系の大名同士の対立をあおり、その仲を離反させて結束力を弱め、秀頼を無力化してしまうのだ。
先に書いたように秀頼は秀吉晩年の子で、秀吉は溺愛し天下人の後継者と位置付けた。秀吉は死期を悟ると、しつこいように周囲の人間に秀頼の将来を頼み、それは見苦しいほどだった。
秀頼の生母は淀殿。淀殿は戦国期に織田信長に滅ぼされた北近江の浅井長政の娘であり、長政の室が信長の姉のお市だから、信長の姪にあたる。天正16年(1588年)ごろに秀吉の側室となったといわれ、文禄2年(1593年)8月に秀頼を生んだ。
ちなみに秀吉の正室で北政所と呼ばれたねねには子はなく、秀吉の実子で秀吉逝去時に生存していたのは秀頼だけだった。

この秀頼の後見人は前田利家であった。「利家とまつ」の利家である。利家は若年の頃には血気盛んで槍の又左の異名があり、また律義者との評判があった。
尾張の土豪の家に生まれ、織田信長に仕え、やがて北陸方面軍の武将となった。秀吉とは若い頃からの親友であり、尾張清洲での長屋は秀吉と隣同士だったと伝えられている。
その関係もあって、信長が本能寺で倒れた後でも、秀吉との関係は比較的良好であり、この当時も加賀金沢85万石の太守であった。
利家は異説はあるが天文7年(1539年)の生まれであり、秀吉より2つ若いだけである。秀頼の後見人、五大老の次席格であり家康に対抗できる最右翼ではあったが、秀吉逝去の頃には既に病身であった。
利家は、秀吉逝去後1年も経たずに死亡し、それがこの後の情勢に大きく影響する。もし利家があと2、3年生きていれば関ヶ原は絶対起きなかった言う人も多い。

先に武功派、吏僚派という言葉を使ったが、秀吉が逝去し朝鮮からの撤兵が終わった段階では、まだ明確に派閥が分かれていたわけではない。
色分けが始まったのは、家康による太閤の遺言破りからだった。秀吉は死期を悟ると、毎日のように家康や利家始め枢要な人間を枕辺に呼び、くどくどと今後のことを頼んだ。そして五大老、五奉行には何回も起請文を出させた。
その中には秀頼のことを頼むというほかにも、派閥を作るなとか勝手に大名間で婚姻を結ぶなというような項目があった。
家康は、この婚姻を結ぶなという項目を無視して、六男忠輝と伊達政宗の娘五六八姫の婚約をはじめ、勝手に諸大名との縁組を進めた。
この話が広まり、太閤遺言に対する明確な違背として、諸大名は騒然とした。

武功派七将の三成襲撃
この騒動はやがて徳川家康と前田利家の対立に発展した。徳川方についたのは福島、伊達を始め池田輝政、最上義光、蒲生秀行、堀秀治、黒田如水と長政父子、藤堂高虎、森忠政などの面々、利家の方には、毛利、上杉、宇喜田の三大老や五奉行、加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、長曽我部盛親、佐竹義宣などがついた。
当時家康は秀吉の遺言により伏見城に居住していた。一方、豊臣氏の政庁だった大坂城には利家が入り、秀頼も慶長4年(1599年)の年初に伏見城から大坂城に移っていた。
大坂と伏見の間を使者が往復し、最後には家康が折れ利家と家康の間で起請文が交換された。これが慶長4年(1599年)2月2日のことで、この後に利家の伏見訪問、家康の大坂訪問があった。

ひとまず危機は回避された。しかし、この一連の騒動とその後の利家、家康の相互訪問で利家の命の火は燃え尽きた。
利家が没したのは慶長4年(1599年)閏3月3日。その葬儀の際にも一騒動あった。加藤清正、黒田長政、福島正則などの武功派の七将が決起、大坂の石田三成を襲撃しようとしたのだ。
三成は情報を事前に察知して逃げ出し、懇意にしていた常陸水戸55万石の大名佐竹義宣を頼った。そして三成は義宣と相談し、伏見に逃げ伏見城内にある自分の屋敷に入った。七将は大坂から三成を追った。
この事件は結局、家康が仲裁した。家康の一喝で武断派七将は矛を収め、一方三成は奉行を実質的に解任され、居城佐和山に蟄居謹慎させられた。

家康暗殺計画
こうなると家康のやりたい放題だった。家康は天下を狙うべく着々と手を打った。家康は、三成を蟄居させると毛利輝元と起請文を交換、次に前田利家の後を継いだ前田利長を標的にした。
9月7日家康は秀頼に重陽の節句の祝を述べるためと称し大坂城に入った。そこに家康暗殺計画が発覚した。首謀者は前田利長で浅野長政、大野治長、土方雄久らが家康を討とうとしているというものだった。
そのような事実はなく、家康側の謀略である。しかし時の最高権力者が仕掛け、しかも自分が標的だというのだから、結果は最初から明らかで、家康は計画を口実しして、大坂城に居座った。そして10月2日、浅野長政は武蔵府中に蟄居、大野治長は家康の庶子である結城秀康に土方雄久は水戸の佐竹義宣にそれぞれ預けられた。

浅野長政は甲斐府中22万5千石の大名であり五奉行の一人、大野治長は秀頼生母淀殿の側近である。五奉行は三成の蟄居と合わせ3人になり、淀殿の側近も排除された。
翌10月3日家康は、「前田利家に謀反の疑いあり」として加賀討伐をふれ、加賀小松城主丹羽長重に先陣を命じた。
前田利長は利家死去後は暫く大坂城にいたが、8月には家康の勧めで加賀に帰国していた。家康は自身の暗殺計画の首謀者として、利長に謀反ありと言掛りをつけたのだ。
驚いたのは前田利長だった。計画したどころか考えたこともない暗殺計画の首謀者にいつの間にかされているのだ。謀略だとわかって歯向かっても役者が違う。ここは耐えるしかない。出家して芳春院となった、利家の妻まつは息子利長に向かい自ら家康の人質となることを申し出たという。
前田家は家老横山長知を家康のもとに派遣して陳弁に勤め、芳春院を人質に出すことで家康に屈した。

家康の大名懐柔と次の標的
家康のやり放題は更に続く。対馬の宋義智や遠江浜松の堀尾吉晴、丹後宮津の細川忠興などへの加増、美濃の森忠政を加増の上信濃の川中島に転封。いずれも加増の原資は豊臣家の直轄地だった。
また、秀吉の甥で小早川家を継いだ小早川秀秋が、朝鮮での軽率な行動をとがめられ、筑前名島52万石から越前北庄35万石に減転封されたのを、減封はそのままにし転封を取り消している。

この間石田三成は指をくわえて家康の専横を眺めていたわけではない。反家康連合の結成と浪人の召抱え、佐和山城の修築など家康との戦いを想定して準備をしていた。
反家康連合の中核となるのは毛利、上杉、宇喜田の3大老である。それに長束や増田、前田玄以の3奉行、肥後半国を領する小西行長、島津家や佐竹家などを合わせればかなりの勢力になる。
これに自身と父や兄の所領を合わせた石田一族32万石、さらに豊臣家恩顧の大名家が加わるというのが構想の礎だった。

一方、前田家を事実上屈服させた家康は、次の標的を上杉に定めた。三大老のうち宇喜田は、御家騒動の後遺症で家中ががたがたであった。がたがたの宇喜田家は家康にとって脅威ではなく、始末は後回しにしてもよかった。
急いて岡山の宇喜田とことを構えれば、背後の中国の太守毛利家が黙っているわけはない。しかも家康の領国関東からは距離がありすぎ、途中の障害も数多い。いくら家康でも宇喜田、毛利を相手の戦いは起こせなかった。
家康の目が上杉に向くのは当然といえば当然であった。

上杉家
上杉家は謙信公以来の武勇の家柄。秀吉により父祖の地の越後から会津120万石へ転封させられていた。
当主の景勝は、五大老の一人でありながら、秀吉逝去後早々に帰国し、橋をかけたり道を広げたりと軍事力の増強を行い、領内整備にも余念がない。
家康にとっては自領の関東の北側にあたる会津に景勝がいるだけでも目障りなのに、この動きは不気味で仕方がない。

さらに上杉家の重臣直江兼続は三成とは仲がよかった。直江兼続は、戦略眼の鋭い頭脳明晰な参謀役であり、秀吉にも目を掛けられて、独立した大名に取り立てようと誘われた形跡もあるほどだった。
会津転封の際にも特に米沢30万石を与えられ、米沢は直江領とまで秀吉に言わせた。上杉家中でも別格の扱いで、与力まで付与されていた。実質的に上杉の家は兼続でもっているといっても過言ではなかった。
石高は約40万石加増され120万石となり、佐渡と出羽庄内は引き続き領有を許されたとはいえ、上杉家にとって父祖の地の越後を離れ、会津に転封されるのは不本意であったし、慣れぬ新領でするべきことは山積していた。家康は、この上杉を挑発する作戦にでた。

会津討伐
上杉の会津移封後に越後に入ったのは堀秀治である。信長の武将として活躍し、本能寺の変以後は秀吉に属して出世した久太郎秀政の嫡子。
慶長3年(1598年)に上杉家と入れ替わりに越後春日山入封後は、旧主上杉家を慕う領民のサボタージュに悩まされた。
さらに上杉家は備蓄していた年貢の半分を持って会津に移った。これは上杉の代わりに会津から宇都宮に転封した蒲生家が年貢を半分持っていったために、そうせざるを得なかったのであるが、堀家は旧領から年貢を持ってこなかった。
堀家では上杉家に年貢を返せと申し入れたが、上杉からは「持ってこないほうが悪い」と門前払いの返事。
背後で上杉が越後を煽動していると考えた秀治は、上杉家が戦仕度をしていると家康に注進した。

さらに、慶長5年(1600年)正月に上杉家から年賀の挨拶に訪れた藤田信吉に家康は引き抜きをかけ、景勝に上洛を勧めるよう説いた。
会津に帰った信吉は家康の言葉を伝えたが、景勝や兼続が聞くはずもなく、信吉は上杉家を出奔し家康のもとに走り、上杉謀反と訴えた。
喜んだのは家康だった。上杉討伐の理由が続々とできた。家康はさっそく会議を開き上杉討伐を提案するが、他の大老、奉行から時期尚早と反対され、豊光寺の西笑承兌起草の質問状持たせた家康の家臣伊奈昭綱と増田長盛の家臣河村長門を詰問使として会津に派遣した。
景勝が上洛しないので家康が不審を抱き、さらに神指城の普請を始め、道や橋を整備しているのは戦の準備かと疑われている。
濡れ衣というならば起請文を提出し、早々に景勝自身が上洛して申し開きをしろというのが大意であった。

この詰問上に対する返書が有名な直江状である。直江兼続起草の書状なのでそう呼ばれ、内容は領内整備をして何が悪い、領内整備を戦の準備とはこじつけも甚だしい。
我らは都人と違い田舎者ゆえ、茶器などに凝るより武器に凝る。さらに家康を表裏のある人間であり、逆臣であるといい、文句があるなら攻めて来いと挑発した。
明らかに挑戦状だが、この直江状は後世の偽筆であると言われている。しかし家康の挑発に対し、武勇と律儀でなる上杉の考えがよくわかる文書ではある。

上杉からの返事を受けて家康は最早これまでと会津討伐を宣言、慶長5年(1600年)5月3日のことであった。すぐに出陣の準備がなされ6月6日大坂城西の丸に諸将を集め、作戦会議を開いた。
周囲を山に囲まれた盆地の会津にはいくつか入口がある。北側の米沢口には山形の最上義光と出羽の諸将、東側の信夫口には陸奥の伊達政宗、東南の仙道口には常陸の佐竹義宣、西側の津川口には前田利長と越後の諸将、南側の白河口には家康・秀忠父子の本隊、総数20万ともいわれる大軍で会津を攻めることした。
6月15日には豊臣秀頼から家康に軍費と軍糧が与えられ、これによって上杉討伐は公戦となった。家康は6月16日会津に向けて大坂を発ち伏見城に入った。

家康、伏見から江戸へ
上杉討伐のために東進を開始した家康は、その留守に石田三成が挙兵し家康方の拠点に攻撃を仕掛けるものと考えていた。家康方の畿内の拠点が伏見城であり、三成挙兵の際には真っ先に攻められることは間違いなかった。
家康はこの伏見城の守将に今川家での人質時代からの臣である鳥居元忠を選んだ。そして守兵はわずか1千8百。元忠の使命は三成に攻撃された時には、一日でも長く戦い続けることにある。しかも援軍はなく、絶対に勝てる道理はない。
6月16日に伏見城に入った家康は18日まで滞在し、その間家康と元忠は酒を酌み交わし、涙したという。

6月18日に伏見を発った家康は、その日の昼に大津城に入った。城主京極高次は家康とともに行動することを約束し、家老の山田良利を同行させた。その夜は石部に泊まり、さらに水口、関を経て伊勢湾を船で渡り知多半島に上陸、東海道を東に向かい7月2日に江戸に入った。
この間五奉行の一人長束正家が城主の水口では、正家の朝食の接待を蹴って城下を走り抜け、四日市では桑名城主氏家行広の饗応の申し出を受ける振りをして逃げ出している。
水口では暗殺の噂に脅え、四日市でも行広の罠ではないかと疑っていたらしく、家康は極度に用心深くなっていた。

東海道に入ると刈谷城主は家康の母方の従兄水野忠重、吉田城主は家康の娘婿池田輝政で、両家の兵を加え、次の浜松は三中老の一人堀尾吉晴が城主。
堀尾家は嗅覚鋭く家康に味方する旨を表明しており、家康も前年に越前で5万石の加増をしている。掛川は小禄ながらこれも家康方を表明している山内一豊の城下、駿府は中村一氏が城主だが病気のために弟の一栄が従軍と各地で軍勢を増やしつつ行軍し、箱根を越えて関東に入ると鷹狩りを楽しんでいる。討伐とは裏腹に暢気なところもあるのは、三成の挙兵の報を待っていたものといわれている。

西軍起つ
一方の三成である。三成の動性は不明な部分が多いが会津の直江兼続に書状を送ったり、豊国神社に参拝したりという記録がある。
さらに備前岡山の宇喜田秀家が7月2日に上坂しているので、これも連絡を取ってのうえの行動と思われる。
7月2日に越前敦賀の城主大谷吉継が会津討伐軍参陣のために美濃垂井に着き、そこで出陣予定の三成の嫡子重家を迎えに行かせた。
すると三成の使者がやってきて、佐和山城に迎え入れられ、そこで吉継は三成から家康討伐の計画を打ち明けられたという。翻意を促した吉継だったが三成は聞かず、結局吉継も三成に協力することを約した。これが7月11日のこと。

すでにこの時点では長束正家、増田長盛、前田玄以の三奉行を始め、毛利家の外交僧ながら伊予に6万石の所領を持つ安国寺恵瓊とも密約が整っており、翌12日には吉継と安国寺恵瓊らの会合も行われた。そして総大将に大老の一人毛利輝元を迎えることとし、輝元のもとへ上坂するように使者が出された。
使者を迎えた輝元は待っていたとばかりに船で大坂に向かい、16日には大坂に到着し一旦毛利家の屋敷に入った後、翌17日には大坂城に入っている。
この素早さから考えても、すでに輝元自身も反家康派の総帥になることを事前に承諾していたのは間違いのないところであろう。これは輝元のブレーン安国寺恵瓊の影響である。ここに家康を総帥とする東軍、輝元を総帥とする西軍の両陣ができ、武将たちはどちらかに属するかを明らかにしなければならなくなった。

三成らは輝元の大坂入城と前後して家康の弾劾状である「内府ちかいの条々」を諸大名に送り家康の専横や行動を批難。
さらに大坂にあった諸大名の妻子を人質に取ることにした。この時に有名な細川ガラシャの事件が起こる。このこともあって人質作戦は失敗し、大名屋敷を柵で囲って監視する程度になった。
さらに三成は兄の正澄に命じて近江愛知川に関所を設けて東進する軍勢を遮り、このために鍋島勝茂、長宗我部盛親、脇坂安治などは仕方なく西軍になった。
西軍はこれら武将のほかに毛利・宇喜田の両大老や増田、長束、前田玄以の3奉行、小早川秀秋、小西行長、吉川広家、島津維新入道、蜂須賀家政、生駒親正など総勢九万余りに上ったという。

西軍は華々しい緒戦の勝利を、諸国の武将に対し見せつける必要があった。そのために大坂の近くにある家康の拠点伏見城を狙った。
7月19日西軍の大軍勢が伏見城を囲み、攻撃を開始した。かねてより覚悟の城将鳥居元忠は、城門を閉ざしてよく防ぎ、寄手の攻撃に耐えた。
城方としては一日でも長く防ぐのが目的だから、華々しい戦は望まず、恩賞も関係ないから首もとらない。決して自らは仕掛けず、応戦だけする。
寄手としては攻めにくく、30日には日に4回も総攻撃をかけた。しかし隠居城とはいえ太閤の城である、落ちない。
このとき寄手の中にいた五奉行に一人で近江水口城主の長束正家が、配下の甲賀者を使い城内に内応者を作って8月1日にようやく陥落させた。城方の大半は討ち死し、鳥居元忠も自刃した。

小山評定
時間を戻し7月2日の江戸のこと。江戸城には会津討伐のための諸将が集まっていた。浅野幸長、福島正則、黒田長政、池田輝政、蜂須賀至鎮、細川忠興、生駒一正、堀尾忠氏、加藤嘉明、田中吉政、藤堂高虎、山内一豊等々総数五万五千余り。
7日に家康は二の丸に諸将を招き軍議を行い前軍の大将に家康の三男でのちの二代将軍となる秀忠、後軍は家康自身が率いることとした。
このほかに津川口から前田利長らの約3万、米沢口から最上義光らの約6千、信夫口の伊達政宗は約1万4千、仙道口の佐竹義宣らが約2万、合計十数万の大軍勢である。
白河口の本隊は、7月13日榊原康政が会津に向かったのを皮切りに続々と江戸を立ち、家康も21日には出発した。

江戸を発った家康は、鳩ヶ谷、岩槻(当時は岩付)、古河と泊まり24日には下野の小山に達した。この夜、伏見城の鳥居元忠の遣いが駆け込み上方の急変を知らせた。
翌25日家康は小山に従軍諸将を集め評定をした。世にいう小山評定である。家康は上方の三成らの挙兵を知らせ、大坂方に味方したければここより立ち去っても恨まないと告げた。
すると福島正則が「身命を擲っても、内府(家康にこと、内府とは官位の内大臣を指す)に御味方する」と口を切り、すかさず黒田長政が「家の存亡は徳川家とともにしたい」といい、群集心理もあって諸将は雪崩を打って上方の逆徒征伐に賛成した。
この評定で家康の下を去ったのは結局、美濃岩村4万石の田丸直昌と信州上田3万8千石の真田昌幸だけだった。

東軍先陣は福島正則、池田輝政の両将と決まり家康次男の結城秀康と三男秀忠は殿軍として宇都宮にとどまり上杉に備えることとした。
ここで一気に全軍が反転して背後を上杉に突かれてはたまらない。さらに西軍に好意を寄せる常陸の佐竹もどう動くかわからない。宇都宮での備えを充分にしなければならなかった。
結局秀忠が宇都宮を発ち、西に向かったのは8月23日、後には結城秀康が残った。
さらに評定では東海道筋を家康が、中仙道筋を秀忠がそれぞれほぼ半数ずつの軍勢を率いて西上することも決まった。
これが小山評定であるが、福島正則の一声は家康が黒田長政を通して密かに頼んだものとされており、いわばシナリオ通りに進んだ会議だった。
いずれにしても、公儀の征伐軍だった家康指揮の軍隊は、この評定で家康のための軍隊に変ってしまったのだ。

岐阜落城
小山評定が終った翌26日、会津討伐軍は反転して西を目指した。家康も8月4日に小山を発ち一旦江戸に入り、各地の諸将に手紙を書いている。
ところが家康はそのまま江戸に居座り、動こうとしなくなってしまった。先鋒の福島正則を始めとする諸将は、東海道を急ぎに急ぎ、8月14日にはすでに正則の居城清洲城に入っていた。
ところが待てど暮らせど家康は来ない。正則は焦れて家康を詰ったという。家康もあまり長く放っても置けず使者を派遣して、「諸将が真の味方であれば、なぜ証を見せぬ」と言わしめた。
一瞬座は静まったが、正則の至極当然との発言に再び活気付き、手始めに西軍方の岐阜城を攻めることに決した。

8月22日に岐阜城に攻撃開始。当時の岐阜城主は信長の孫織田秀信であった。実は秀信も会津討伐軍に参陣の予定であったが出遅れ、あれよあれよという間に西軍に組み込まれてしまったのだ。
そんな秀信だから戦ぶりもふがいなく、翌23日には岐阜城は陥落してしまった。
この当時西軍の最前線は岐阜であったが、主力はその北西の大垣城にあった。8月1日に伏見城を落とした西軍は東進して、三成や宇喜田秀家などの主力は大垣の城に入り、兵の参集を待っていた。

この当時東軍、西軍とも仮想戦場を尾張あたりと想定していたようである。東軍は主力を2つにわけ東海道筋を家康が、中山道筋を秀忠が率いて西上し、尾張あたりで合流ののちに西軍にあたるつもりでいた。そのほかに上杉・佐竹の押さえに関東にも兵を置いている。
片や西軍のほうは総帥である毛利輝元は、秀頼とともに大坂城にあり、これはしかるべき時期まで出陣はしないことにになっていた。
そのほか近江大津、丹後田辺、それに越前にかなりの兵数を割かねばならなかった。大津は城主京極高次が一旦西軍に着きながら、家康との約束を重んじて寝返り籠城したためであり、丹後田辺は城主細川忠興の留守城であり、越前は家康についた前田利長に対する備えであった。
このために美濃表に出陣していたのは三成と宇喜田秀家の兵が主であった。

岐阜の早期の落城は東軍、西軍ともに予想外だったが、最も慌てたのは江戸の家康であった。豊臣恩顧の諸将が行動を起こし、家康の味方の証を示したことは有り難かったが、ここまであっけなく岐阜が落ちては、武功派の諸将たちは勢いを駆って戦を始めかねない。
そんなことをされたては大変だ。負ければ今までの苦労は水泡に帰し、逆賊の名を浴びるし、勝てば勝ったで豊臣恩顧の諸将に莫大な恩賞を弾むことになる。
家康は諸将の行動を止め、大慌てで江戸を発ち西上を開始した。中仙道を行く秀忠軍にも使者を発し指示を与えた。
しかし秀忠軍は、真田昌幸が籠る上田城の攻撃に手間取り、結局関ヶ原本戦には間に合わなかった。秀忠軍の任務については諸説あり別項をたてるが、間に合わなかったのは事実である。

決戦の朝
岐阜城を落とした東軍は、さらに犬山城など周辺の要所を攻め、8月24日は赤坂に本陣を置き家康の参着を待った。家康が前線の美濃赤坂に到着したのは9月14日のことだった。
家康は本陣に到着すると、すぐ近くの大垣城に向けて金扇や馬標、葵の紋を染め抜いた軍旗などを高々と掲げたという。
一方西軍の方は、これほど早く家康が到着するとは思っていなかったらしい。西軍には動揺が広がり東軍の士気は大いに上がった。

関ヶ原の地名は古来の不破の関に由来する。東山道、伊勢街道、北国街道が集まる交通の要衝で、周囲を山に囲まれた東西4キロ、南北2キロほどの馬蹄形をした盆地である。
大垣城にあった西軍は城を出て、この関ヶ原を決戦場に選んだ。慶長5年(1600年)9月15日決戦の朝、前夜からの雨は上がったが、あたりは濃い霧に包まれていた。
西軍は地の利を占め関ヶ原を囲む山に陣を張った。一方東軍はその西軍の中に楔のように入り込む形で陣を敷いた。つまり高所にいる西軍が、低所にいる東軍を包み込むような形になったのである。
誰が見ても西軍有利で、明治期に関ヶ原の陣立てを見たドイツ陸軍のメッケル少佐も、即座に西軍大勝利と言ったという。
確かに陣立てだけ見ればそうであった。しかし西軍には大きな穴があったのだった。

毛利両川
西軍の穴は2つあり、それぞれキーマンがいた。一人は吉川広家といい、もう一人は小早川秀秋といった。
戦国有数の武将であり、大毛利を一代で築いた毛利元就には多くの男子があった。長子隆元は毛利本家を継ぎ、次男元春は吉川家を、三男隆影は小早川家を継いだ。
吉川氏は元就の妻の実家であり、小早川氏は安芸の名族である。どちらも半ば強引に元就が次三男を養子に出して家を継がせたのである。以後、元春も隆景も毛利本家とよく協力し、俗に毛利両川と呼ばれた。
吉川家は元春は既に亡くその跡を継いだ元長も短命で、元春三男の広家が当主、小早川家の方は秀吉が隆景の才能を買って、毛利家からは独立した大名家となり、さらに五大老にまでなった。
秀吉はこの小早川家の後継ぎに自分の甥秀秋を入れた。妻北政所ねねの兄の子供である。隆景は文禄4年(1595年)に隠居(慶長2年・1597年死去)し、秀秋が筑前30万石の小早川家の当主になった。毛利本家は隆元が元就より先に早世し、今は元就の孫輝元が継いでいた。

輝元は西軍の総帥として大坂城にあったために、毛利兵は従兄弟の毛利秀元が率い、ほかに吉川広家軍があった。
この広家は、毛利の顧問格の安国寺恵瓊を嫌っており、さらに三成とも仲が悪かった。それもあって家康に好意を寄せていた。従って輝元の西軍総帥には大反対であったが、本家当主の決定には逆らえなかった。しかし負ければ、毛利家は総帥の家として取り潰しは免れない。
そこで広家は毛利の家を残すために、東軍に内通した。毛利家のためというのは本当だったらしく、後のことになるが戦後処理の際の行動にもそれは表れている。

広家は黒田長政を通じて内通を約し、そのことは東軍首脳の一部しか知らなかった。広家軍は西軍として出陣後は伏見城を果敢に攻撃するなどして味方を欺き、西軍首脳は内通していることはまったく知らなかった。
一方、小早川秀秋も、天下人の甥にうるさいことを言う三成ら吏僚派とはもともとそりが合わず、家康には先に書いたように領地問題で恩義がある。これも家康に内通した。
伏見城を攻めたあと、関ヶ原への行軍もあっちへフラフラ、こっちへフラフラでまるで覇気がなく、西軍内部でも秀秋の東軍内通はかなり疑っていたようだ。

関ヶ原の決戦場には、毛利一族は約4万の兵を持って臨んだ。軍の主力は輝元の従兄弟の毛利秀元が率いており南宮山に陣した。その南宮山の麓には吉川広家の陣があり、その脇に安国寺恵瓊、さらに五奉行の一人長束正家、土佐の長宗我部盛親の陣があった。
つまり広家の陣が動かなければ、毛利一統は誰も動けない。
東軍は南宮山を通り越して布陣していたから、南宮山から攻撃を受ければ前後に敵を受けることになり挟み撃ちされる。逆に攻撃がないとわかっていれば、備えをほとんどせずによく、全力を前方に集中できる。
東軍側は当然広家内通の事実を硬く信じ、布陣した。事実広家は最後まで動かず、それがため秀元や長宗我部も動けず、毛利軍・長宗我部軍・吉川軍ら2万7千は戦闘を傍観するだけで終わった。

他方小早川軍は、14日にようやく関ヶ原にやってくると、三成を無視しさっさと松尾山に登って布陣してしまった。松尾山は標高300mほどの高所で、そこからは関ヶ原がほぼ全て俯瞰できる。
逆にそこから逆落としに責められれば、山下で戦う軍の側面を突くことになり、ひとたまりもない。この絶好の位置に東軍に通じているらしい西軍の将が1万5千の兵を持って陣したのだ。
東軍側は内通の確約を確かめ、一方西軍側も前日に三成から領地と秀頼成人までの関白の地位が約束された。この西軍の餌に秀秋は心を動かされた。
小早川秀秋19歳、この少し頼りない悩める若者が、キャスチングボードを握ったのだった。

開戦
午前8時頃合戦の火蓋が切って落とされた。先鋒は福島正則と決められていたが、徳川四天王の一人井伊直政が家康四男松平忠吉を引き連れ、物見と称して抜け駆けを
したことにより、合戦が始まったとされる。
このとき中仙道を進んでいた秀忠は、上田城攻略に手間取ったために、いまだ木曽路にいて間に合っていない。そのため松平忠吉は、この戦場にいる唯一の家康の子息だった。
秀忠の遅参は家康にとってまったくの想定外で、ぎりぎりまで気に病んでいたが、ここまで来た以上開戦は引き伸ばせない。
家康軍は秀吉恩顧の大名が多く、家康の直臣は少ない。そのうえ自身の身内がまったくいないのでは、格好がつかない。
抜け駆けは重要な軍法違反ながら、開戦の一番槍を家康の子松平忠吉がつけたことを大いに喜んだという。
もっとも物見と称したために、小人数であり鉄砲も持っていない。恐らく軽く一宛てして、そののちは逃げ帰り開戦のきっかけとしたくらいだろう。
もし抜け駆けだったならば、こういうことには滅茶苦茶うるさい福島正則が黙っているわけはなく、その正則が何も言っていないということは、抜け駆けとは言いがたいほど小規模な攻撃であったのだろう。

とにかくも戦は始った。福島隊と宇喜田隊を始め一斉に彼我入り乱れての戦いとなった。
午前中は西軍が優勢であった。特に東軍の攻撃を正面に受けた宇喜田隊、石田隊がよく戦った。
松尾山の陣からこの様子を見て、小早川秀秋の迷いはさらに深まった。西軍優勢である。ここで東軍の横腹を撃てば、西軍勝利はほぼ確実で、関白の座が…
やがて、昼近くになりお互いに疲れが激しくなり、戦線は膠着状態となった。秀秋はまだ迷い動かない。家康はいらいらし、軍記によれば爪を噛んで小早川の子せがれを罵ったという。
西軍も今一押しが足りない。三成はまったく動かない南宮山の毛利勢や松尾山の秀秋のもとに軍使を何度も派遣するが、もともと裏切りるつもりだから適当にあしらわれ追い返される。

裏切りと西軍敗走
焦れた家康はついに鉄砲隊を呼び、松尾山の秀秋の陣に向けて鉄砲を撃たせた。当時の鉄砲であるから、射程距離は短く、これは攻撃ではなく、裏切らぬなら攻撃するとの脅しである。
秀秋は慌てふためき、松尾山の麓で戦う西軍大谷吉継の陣を攻撃すると令し、松尾山から駆け下りた。小早川軍1万5千が一斉に大谷陣に撃ちかかった。
大谷吉継は小早川の東軍内通を警戒しており、そのためにここに陣を敷いた。それが現実となった。しかし警戒はしていても、朝からの戦闘で疲れきっているところに、この攻撃はつらい。
さらに大谷隊とともに小早川の警戒にあっていた、小川祐忠、脇坂安治らも裏切り一斉に大谷隊に攻撃をかけてきた。
脇坂らはいずれも少禄で、兵数も4軍合わせて4千2百。本来なら取るに足りない小勢であるが、ここに至っては痛い。
大谷隊は崩れ、それに続き頑張っていた宇喜田隊、石田隊も相次いで崩れた。小早川秀秋が裏切った瞬間に東軍勝利が確定したのだ。

大谷吉継はハンセン氏病に冒されていた。当時は不治の病であり、関ヶ原の頃にはほとんど失明状態で、騎乗も歩行もかなわず輿に乗って出陣していたという。
周囲の者に戦況を聞き負けたとわかると自刃して果てた。劫病に冒された首は敵に奪われぬように家臣が埋めたという。
意外なことに戦場で自刃したのは吉継唯一人だった。石田三成や宇喜田秀家は戦場から逃亡した。安国寺恵瓊や小西行長、長宗我部盛親も逃げた。

なかでも圧巻は島津勢であった。島津の西軍参加も成り行きに近いものであった。だいたい島津は三成にも家康にも恨みはなかった。東西どちらが勝とうが関係なかったのだ。
それをたまたまといっていい状況から、西軍に加担することになった。しかし戦場ではじっと動かず、周囲で行われる戦いにも参加しなかった。その理由は諸説あるが最後まで結局戦わず、西軍が総崩れになって追激戦の真っ只中に取り残されてしまった。
ここで島津が取ったのが敵中突破の強攻策。なんとか敵中を抜け、追撃をかわし、その後島津義弘は大坂に出て船で薩摩に帰った。

三成らの処刑
午後3時ごろには完全な追撃戦となり、勝者家康は大谷吉継の陣所跡に入って首実検をしたという。
翌16日家康は小早川秀秋、小川祐忠、脇坂安治らの裏切り組に対し三成の本城佐和山城攻撃を命じた。佐和山城は三成の兄正澄が守っていたが、留守部隊に防ぎきれるはずもなく18日には城は落ちた。このとき佐和山城は炎上したともいわれる。
家康は佐和山城攻撃を横目で見つつ、大坂の毛利輝元に書状を書いている。輝元が大坂城にいる限り、敗残兵が大坂城に集まり決起する可能性がある。家康とすればそんなことになっては、たまらない。一刻も早く輝元に大坂から出て行って欲しかった。
吉川広家からも毛利家の所領安堵の約束を取り付けた旨の知らせが早馬で届いた。さらに福島正則や黒田長政からも城を出るよう説得する書状が届き、毛利秀元らの徹底抗戦の意見を抑えて輝元は22日に大坂城を出て、城下の毛利屋敷に移った。

その間9月19日には小西行長が捕えられ、さらに21日には三成が捕えられた。三成は伊吹山中を6日間もさ迷い歩き、ぼろぼろになった衣服を身にまとって岩窟の中に隠れているところを東軍の田中吉政の兵に見つかった。
三成はすぐに大津にいた家康のもとに送られた。さらにその直後に京に潜伏していた安国寺恵瓊も捕えられた。10月になって三成、行長、恵瓊の3人は市中引き回しの上、京の六条河原で首を刎ねられた。

五大老の一人宇喜田秀家は逃亡に成功し、薩摩の島津を頼ったが、慶長8年(1603年)に島津家と家康が和睦すると家康のもとに出頭した。
死罪となるべきところだが、島津家や前田家の助命嘆願があり、八丈島に流罪になりそこで一生を終えた。五奉行のうち長束正家は水口城で自刃、増田長盛は領地没収のうえ高野山に追放された。
また決戦に遅れた秀忠は20日に大津の家康のもとに追いついたが、怒った家康は対面も許さなかった。しかし秀忠に付いていた榊原康政の必死のとりなしで、やがて対面がかない、家康より先に伏見へ向かった。

戦後処理
家康は9月27日に毛利輝元が去った大坂城に入った。まず秀頼と会見し、その後西の丸に入ったのだが、ここを出て行った3ヶ月前と比べて、政治的立場は大きく変わっており、もはや実質的な天下人に近かった。
さっそく論功行賞に取りかかった。毛利家は本領安堵の約束は守られず、全領没収という厳しい処分だった。そのうちから吉川広家に2カ国ほどが与えられることになったが、これには吉川も慌てた。
しかし今更約束が違うと言っても始まらず、結局広家の必死の嘆願で、広家に与えられるはずだった周防・長門の二カ国を毛利家に与えることで決着。
120万石の大大名だった毛利家は防長2カ国36万9千石と三分の一以下に削減されてしまった。毛利家の家名は保たれたが、吉川家は明治維新まで毛利一族から冷遇された。

会津の上杉は、家康が下野から反転した後もこれを追わず、北上して山形の最上義光を攻めた。しかし関ヶ原での東軍勝利の知らせが届くと兵を引き、11月3日本庄繁長を謝罪のために上洛させた。さらに翌年景勝自身が上洛、家康に謝罪した。
家康は上杉に対してはあまり厳しい見方はしていなかったようだ。上杉家は直接家康に弓を引いたわけではなく、背信行為や裏切りもなかった。
家康の挑発に乗っただけであり、上杉のしたことは武門であれば当然の行為であった。しかも上杉が挑発に乗らなければ、天下は家康に入ってかどうかわからなかった。
とはいえ、けじめはつけないわけにいかず、上杉家は所領を四分の一に削られ、会津120万石から米沢30万石に移封された。
上杉家では所領が大幅に減ったにもかかわらず、人員整理をせず、そのために江戸期を通じて貧乏大名の代名詞となった。

そのほか領地を没収されたのは五大老の宇喜田秀家(備前岡山57万石)、土佐の長宗我部盛親(22万石)、筑後柳川の立花宗茂(13万石)、同じく久留米の毛利秀包(13万石)、越前北庄の青木一矩(20万石)、能登七尾の前田利政(利長の弟、22万石)など。
常陸水戸の佐竹義宣は直接弓は引かなかったが、終始西軍よりの態度をとり続けた上、領地が徳川氏のとなりだったことが災いし、20万石に減封され、出羽秋田に移された。しかもころ減知転封は関ヶ原から2年後の慶長7年(1602年)のことだった。

西軍諸将から取り上げた所領は630万石あまり、全国総石高の3割近くあった。これを原資にして東軍諸将には加増をした。
主なところでは福島正則は尾張清洲20万石から安芸広島49万8千石、小早川秀秋は筑前名島35万石7千石から備前岡山51万石、加藤清正は肥後半国25万石から肥後一国52万石、丹後宮津18万石の細川忠興は豊前小倉で39万9千石、豊前中津18万石の黒田長政は筑前名島52万3千石、前田利長は加賀金沢84万石に弟利政の領地を加えられたほかに加増をうけ120万石となった。
また、山内一豊は小山評定で「わが掛川の城は徳川殿に差し上げる」との発言が評価され、戦場では活躍はしなかったが掛川6万9千石から土佐一国20万2千石へ、三成を捕らえた田中吉政は岡崎10万石から筑後柳川32万石に大出世した。

薩摩の島津は結局本領安堵となった。これは島津が国に籠り続けたこと、九州南端の島津に兵を出せば、その隙に何が起こるかわからないこと、さらに国交が途絶していた明との貿易のためといわれる。
文禄・慶長の役以来、日本と明との国交は途絶したままだったが、家康は国交回復をしたいと考えていた。
しかし明は日本を信用せず、交渉は琉球を通じて行うよう求めてきた。そのためにも琉球との窓口として島津家が必要だったのだ。
これは対馬の宗家にもいえた。対朝鮮窓口として宗家を改易するわけにはいかなかったのだ。

また、関ヶ原の戦いは、東西両軍の主力が激突した関ヶ原本戦のほか丹後田辺城籠城戦(7月23日から9月13日、細川幽斎対西軍諸将)、加賀大聖寺城の戦い(8月1日から3日、前田利長対山口宗永・修弘)、加賀浅井畷の戦い(8月9日、前田利長対丹羽長重)、伊勢安濃津城の戦い(8月24日から25日、富田知信対西軍諸将)、鳥羽城の戦い(9月13日、九鬼嘉隆対九鬼守隆)、出羽長谷堂合戦(9月15日から10月1日、上杉景勝対最上義光)など全国各地で東西に分かれた武将の戦いが繰り広げられた。
九州でも在国の加藤清正や黒田長政の父親黒田如水が戦い、本戦後も鳥取城を巡る戦いや福知山城を巡る戦いがあった。
信州上田では真田昌幸・幸村親子が徳川秀忠を相手に籠城線を繰り広げ、結局これが秀忠の関ヶ原本戦遅参に繋がった。

ともあれ天下分け目の戦いは終った。本戦は諸説あるが東軍8万8千、西軍8万3千、合わせて17万1千の大軍が衝突したかつてない規模の戦いであったが、わずかに半日、時間にして6時間あまりで東軍の勝利となった。
これにより豊臣家は存在するものの、かつての力はまったくなくなり、時代は徳川家康を中心に動いていく。
そして豊臣家は関ヶ原から15年後の慶長20年(1615年)大坂夏の陣で滅亡した。

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