歴史の勉強
テーマ別学習・関ヶ原
関ヶ原(ダイジェスト版)

関ヶ原を一言でいえば、天下を目指した徳川家康が、それを阻止しようとする石田三成らと衝突し武力をもって行われた戦いということになろう。
勝利した家康は、やがて江戸に幕府を開き名実ともに天下人への道を歩みだし、以後250年の間その子孫15代が政権を担った。

そもそも政権基盤の弱かった足利幕府は、応仁の乱を境に将軍家を始め各大名家の力が急速に弱体化し、武力を蓄えた武士達がその武力を背景に実力でのし上がって、従来の大名にとって代わった。
その俄か大名達も安閑としておられず、その家臣だった武将が力を蓄えてくると、時によっては追い払われてその家臣にとって代わられた。
これを下克上といい、大名達は常に武力を蓄え戦乱に明け暮れた。世に言う戦国時代である。

日本国中に有力な戦国大名が現れ、各地に割拠した。甲斐の武田、小田原の北条、越後の上杉、中国の毛利、薩摩の島津などなどである。
その戦乱の世もやがて統一に向けて動き出す。尾張に現れた天才織田信長は、近隣の諸将を武力や諜略で切り従え、運も手伝って京に入り全国に号令するほどになった。しかし、その信長も反感を持った家臣明智光秀に殺された。
世は再び戦国に逆戻りかと思われたが、信長に見出され百姓から大将にまでなった羽柴秀吉が、信長の後継者となり強力な武力を持って全国を統一した。

秀吉は豊臣という新たな名字を作って関白となり、実質天下人となった。天下人秀吉は、独裁者でもあり、日本統一では飽き足らず朝鮮へも矛先を向けた。
文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵は、過度の国力の疲弊を招き、反面得るものは何もなく完全な失敗であり、最後には秀吉の意地だけで行われていた。
しかしそれも秀吉の死を持って終わりを告げた。秀吉が没すると朝鮮からの撤兵が行われた。

この朝鮮出兵は一つの大きな問題を残した。武将間の対立である。戦国期から統一期に変わることにより、武将達に求められるものは必ずしも力だけではなくなった。
武力に変わり経済感覚や外交感覚が求められた。茶の湯がはやり文化にも親しむことも必要になった。
戦いに明け暮れた武将達は戸惑った。その中で経済感覚や外交感覚に優れた武将達が台頭した。いまでいう官僚である。彼らは秀吉のブレーンとなった。これが武力を信奉する武将には面白くない。
官僚とことあるごとにぶつかり、それが朝鮮出兵で表面化した。官僚側を吏僚派といい、その代表は石田三成や小西行長であり、それに対する武功派は加藤清正や福島正則に代表された。

ここにもう一つ大きな問題があった。秀吉の後継者である。秀吉は正室のほかに何人も側室を持ったが、子供運に恵まれなかった。
晩年に側室の淀殿から生まれた秀頼だけが、唯一の後継者であった。
しかしあまりにも幼すぎた。秀頼のこの時の年齢はわずか4歳。百戦錬磨の武将達を向こうに回し、政権を維持できるわけがなかった。

豊臣政権のナンバー2は徳川家康であった。家康は、三河の小大名に生まれ、人質生活をしたりして苦労して家を大きくし、秀吉も一目置くほどの存在となり、政権ナンバー2となった。
政権の後継者秀頼はわずか4歳、家康は当然のように天下を狙った。実力と経験からいっても充分に天下を狙えたし、絶好のポジションにいるのだった。狙わない方がおかしかった。
しかも家康は巧妙だった。吏僚派と武功派の対立を利用したのだ。武功派をあおり、力を背景に実力者を恫喝し、実質的に政権を運営し始めた。
これに対し吏僚派の代表石田三成は、毛利・上杉・宇喜田・佐竹など大大名を中心に反家康派を結成した。一方、家康は三成憎しの武功派を中心とする武将達を集めた。
ここに吏僚派と武功派の対立は、反徳川派対親徳川派の対立となった。

そして運命の慶長5年(1600年)の年が明けた。
この年会津の上杉景勝が戦の準備をしているとの報が家康のもとにもたらされ、これをきっかけに家康を大将とする会津討伐軍が結成された。
討伐軍が東海道を下っている隙に大坂では三成が兵を挙げた。名目上の大将は毛利輝元、専横甚だしく豊臣家をないがしろにする家康を討つというのが掲げた目標である。これを西軍という。
一方、標的にされた家康は途中で軍を反転、引き連れていた武功派の武将を全て取り込み、自身の戦力と合わせて西上した。これを東軍という。
東西両軍は美濃関ヶ原で激突した。ときに慶長5年9月15日。諸説あるものの東西合わせて20万近くの大軍同士が激突した。
結果的にいうと勝負は早かった。朝8時ごろに戦闘が開始されたが、午後2時には東軍の勝利が決まった。これは西軍に裏切り者が出たためであった。

このことでもわかるように西軍は纏まりが弱く、それは大将の毛利輝元が名目的であり、実質の大将の石田三成がわずか19万石の大名であり、その性格や態度から人望もなかったことが大きな原因と言われている。
とにかく東軍が勝ち、家康は天下人への切符を手中にし、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、元和元年には大坂の陣により豊臣家を滅亡させ、名実ともに徳川の天下としたのである。

狭義には慶長5年9月15日の戦いを関ヶ原と呼ぶが、その間にも日本各地で東西に分かれた戦いが行われ、また大名たちは好むと好まざるとにかかわらず、東西どちらかに属さざるを得なかった。
それは家を守るための戦いでもあった。武士は負ければ死である。どんなことをしても家は守らなければならなかった。
その為には妻子を犠牲にすることもいとわなかったし、昨日までの主君を裏切ることもあった。武士は二君にまみえず、などと言うのは江戸時代に入り儒教の教えが広まってからのことで、この時代の武士達は驚くほど合理的だった。
そのために親子が東西に分かれて戦った例もあった。あるいは葛藤から主家を裏切った家もあったし、最後まで忠節を尽くした家もあった。また、成り行きでどちらかに属してしまった家もあった。それら全て、その人々にとっての関ヶ原であった。

テーマ別学習の表紙に戻る
歴史の勉強の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -