歴史の勉強
テーマ別学習・関ヶ原各地の大名の動向と戦後処置

奥羽の大名の動向と戦後処置

奥羽(東北)地方は会津に上杉景勝120万石、陸奥南部、今の宮城県を中心に岩出山58万5千石の伊達政宗、出羽山形に名族最上義光24万石が三大勢力だったが、上杉の所領は3位の最上の4倍であり、いかに上杉の勢力が巨大であったかがわかる。上杉は全国でも徳川、毛利に次いで3番目の石高を誇る大大名だった。
上杉家は秀吉により慶長3年(1598年)、父祖の地越後から会津に転封させられ、まだ土地に慣れていなかった。そのために領内整備のためとして道を作り、橋を架けた。会津の中心若松の手狭だった黒川城に変わり、神指に新城を築くために準備を始めた。
これらの行動が謀反の準備と家康から難癖をつけられ、関ヶ原に繋がったわけであり、上杉は完全な反徳川だった。
その上杉領を囲むように北には最上義光、東北には伊達政宗、東南には佐竹義宣、南には徳川、南西には上杉のあと越後に入った堀秀治がいた。
このうち佐竹以外は東軍であり、これは上杉の会津移封が徳川や伊達の牽制監視のためであったことを考えれば当然であった。

関ヶ原戦は家康が上杉に難癖をつけ、それを上杉が堂々と受けてたったことから始まる。怒った家康は豊臣家の名のもとに上杉討伐軍を編成し、東海道を東進、白河から上杉領に攻め込む予定だった。
同時に上杉を囲む最上、伊達、佐竹、前田・堀にも動員をかけ、東北や北関東、越後の小大名をそれらの寄騎として会津諸口(最上勢は米沢口、伊達勢は信夫口、佐竹勢は仙道口、前田・堀勢は津川口)から上杉領を攻撃する大規模な作戦だった。
しかし、家康が下野小山まで来た時点で、上方での三成蜂起が伝わり上杉討伐は中止。家康は押さえの軍を宇都宮に残し、反転西上していった。
ここで上杉が家康を追撃したらと誰しも思うし、現実にも上杉家中で話は出たらしいが、律儀な上杉景勝は仕掛けてきた家康がいなくなったのならば、家康を追う理由がないと反対し追撃はしなかった。代わりに上杉軍は北上し、最上領に侵入した。

120万石の上杉と24万石の最上では格差がありすぎ、上杉軍は山形城近くの長谷堂城に迫った。ここで最上は伊達に救援を要請。
天下を狙う策謀家、伊達政宗はお義理のような兵を出す。さらに陸奥盛岡の南部利直(10万石)も応援の兵を山形に派遣した。長谷堂城を巡る戦闘が起きたが、この時点で関ヶ原での東軍勝利の報が入り上杉軍は会津に引いていった。
戦後処理で上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封、最上義光は功を認められ出羽庄内・由利33万石を加増され57万石となった。
伊達政宗は戦前徳川家から100万石のお墨付きをもらったが、どさくさまぎれに一揆を煽動して南部領に攻め込むなどしたために、家康に睨まれ2万石の加増しかしてもらえなかった。
盛岡の南部利直や出羽角館の戸沢政盛(4万石)は東軍に属し、最上義光配下として働き南部は本領安堵、戸沢は常陸に4万石のまま転封、弘前の津軽為信(4万5千石)は関ヶ原に出陣し2千石加増。一方で磐城平の岩城貞隆(12万石)は、西軍に与して領地を没収された。
また、陸奥牛越6万石の相馬義胤は佐竹配下であった。佐竹は西軍と見なされてのちに減封される。それにともない、相馬義胤も領地を没収された。しかし伊達政宗の取り成しもあって、子息の利胤は慶長9年(1604年)に旧領に返り咲いた。

奥羽の大名の動向と戦後処置
国名城地大名禄高(万石)動向と戦後処置新領(万石)
陸奥弘前 津軽為信 4.5 大垣城攻撃に参加、上野で2千石加増 4.7
盛岡 南部利直 10.0 上杉と交戦、所領安堵 10.0
岩出山 伊達政宗 58.5 上杉と交戦、2万石加増 60.5
牛越相馬義胤 6.0 上杉討伐に応じず所領没収、慶長9年旧領復帰 (6.0)
磐城平 岩城貞隆 12.0 上杉討伐に応じず所領没収、元和2年信濃川中島に新封 (1.0)
会津 上杉景勝 120.0 最上・伊達と交戦、出羽米沢30万石に減封 30.0
出羽秋田 秋田実季 5.2 小野寺と交戦、常陸宍戸に転封 5.2
角館 戸沢政盛 4.0 上杉に備える、常陸松岡に転封 4.0
横手 小野寺義道 3.6 上杉に与し秋田と交戦、所領没収 ×
仙北 六郷政乗 0.5 小野寺と交戦、常陸府中1万石に加増転封 1.0
山形 最上義光 24.0 上杉と交戦、出羽庄内・由利33万石を加増 57.0
青は東軍、赤は西軍、新領欄のうちカッコは後に新封、×は所領没収


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