歴史の勉強
テーマ別学習・大名とは何か
(八)江戸時代の大名

話は戻るが、家康は天下を手中にすると豊臣家を無視して早々に征夷大将軍となり、2年後には将軍位を嫡子秀忠に譲り徳川藩幕体制の既成事実化を急いだ。
その一方で豊臣氏の討滅に意を注ぎ慶長19年〜元和元年(1614年〜1615年)の二度の大坂の役で豊臣氏を滅亡させる。
これにより徳川家の天下は完全に確定し、家康死去ののちに二代将軍秀忠と三代将軍家光により大名支配体制の仕上げが行われる。

秀忠の代には畿内及び東北方面に目を据えた大名配置政策が実行された。家光の代には九州・中国・四国方面において新たな大名配置が行われた。
この過程で反徳川に与する恐れがある大名家は容赦なく取り潰された。出羽山形の最上家、越後の堀家、安芸広島の福島家、肥後の加藤家などであり、一門でも家康六男の松平忠輝や家門筆頭の越前松平家の忠直、家光の弟の駿河大納言忠長なども改易になっている。
一方で家康の子供である3人を家門として御三家を成立させ、要地である尾張、紀伊、水戸を押さえさせた。

九州の押さえとしてその喉元豊前小倉に譜代の小笠原氏を、中国筋では松江に松平(越前家)氏を、四国では高松に松平(水戸家)を起き、畿内への入口の姫路を譜代で固めた。姫路は大名が死んで後嗣が幼少であれば、その任に堪えずとして転封させられるのが常であった。
畿内に入れば大坂は徳川直轄、和歌山には御三家の紀伊家、彦根には譜代の井伊家が控え、その先には尾張徳川家がいた。
東海道筋を進めば駿河は直轄地であり、その先の箱根で押さえるのが戦略であった。

東北方面は当初山形に戦略上の要点を置いたが、これは後に会津に移る。会津には家光の末弟の家である松平(保科)家を置き、庄内に背後からの牽制をさせるために徳川四天王の一である酒井家を配置、関東に入れば水戸には徳川家がいて、周辺の譜代大名や旗本で押さえるのが基本戦略であった。
北陸は外様の大藩前田家対策として東西を親藩の松平(越前)家で挟みこむのが戦略であったが、越前の方はまがりなりにも幕末まで松平家が保ったが、越後側は早い時期に戦略が崩れた。

譜代大名は戦略上の要地のほかに、畿内や関東、東海道筋に配置された。また、徳川政権では幕閣に参画できるのは原則譜代大名だけであった。
しかし、これはあくまで原則であり、外様大名が幕閣に参画した例も多く残り、特に幕末期は外様の大名も譜代とほとんど区別なく参画した。
さらに譜代の場合は幕閣参画の影響で転封が激しかった。例えば関東の古河、佐倉、関宿、川越などは老中など幕閣幹部の大名が城主となることが多く、逆に左遷されると出羽山形や陸奥棚倉などに移された。
これに伴い譜代の領地では大名の交代が多く、またその石高は一定せず、そのため封地も一定しなかった。譜代の城地近辺の農村は支配者が変わってばかりいるところも多かった。

一方外様大名は遠隔地に比較的広大な封地を持ち、転封もされなかった。小大名では転封も比較的容易であったろうが、数十万石の大藩の転封は纏まった封地を別の場所に確保しなければならず、そのために複数の藩が玉突き状に関係してしまいという影響があり、簡単にはできなかった。
江戸初期に備前岡山と因幡鳥取の池田家が封地を交替した例があるが、これは親戚同士であったことと、封地がほぼ同じ石高であり、距離も近かったことから可能であったもので、江戸期を通じてこの規模の転封は御三家がらみ除きほかに例がない。

徳川幕府の大名配置は以上の基本戦略の上に行われたが、中期以降政権が安定し社会が成熟してくると、転封は極端に少なくなる。
減封や改易はペナルティ的なものとなり、加増は役料や報償の意味を持つようになる。新たな大名の取立ては外様大藩の分家や将軍側近の取立てくらいしか見られなくなる。
その分家も後には封地はなく、藩主は在府であり、禄高分の手当てだけが支給されるという、現代の給与制のような名目的なものとなり、大名といっても自身の所領を持たないものまで出現した。
江戸中期に8代将軍吉宗、9台将軍家重の子が起てた田安・一橋・清水の御三卿などは、まさにその典型でいずれも10万石でありながら領地は持たず、江戸城内の屋敷に居住し家臣も旗本の出向であった。

もともと大名田堵が言葉の起こりであった大名も江戸後期には、領地を持たない大名も出現し本来の意味するところとは違った状態になった。
藩という言葉があるが、これは江戸時代における大名の支配する領域とその支配機構のことを指す。よって先の御三卿は藩は持たなかったことになる。
もっとも藩という言葉も公称ではなかったために、正式には使われなかった。藩が正式に使われるのは明治元年(1868年)に大名領に対して新政府が用いたのが最初である。それまでは○○藩ではなく、○○家中などというのが普通であった。
この藩も大名も徳川幕府の終焉によって、その名ととも過去のものとなった。

室町中期の守護大名家の系譜を引く家で幕末まで残っていたのは、佐竹・小笠原・京極・島津・宗の5家に過ぎなかった。
動乱期を生き抜き、近世大名として家名を保つことがいかに難しいことであったかということがよくわかる。

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