歴史の勉強
テーマ別学習・大名とは何か
(七)関ヶ原と大名

秀吉が没すると家康の天下取りがすぐに始まった。秀吉の遺児であり後継者である秀頼はわずか4歳であった。
家康は、これまで培ってきた経験、具体的にはそれが見事な領国経営と家臣団の成長に現れ、さらに諸大名に対する人心収攬によりたちまち秀吉没後の政界で重鎮となり、実質天下人となっていった。
秀吉の遺言でもある朝鮮からの撤兵を終えると、諸大名間の対立が激しくなっていった。秀吉の子飼い大名たちは加藤清正や福島正則を筆頭格にする武断派と石田三成を筆頭とする吏僚派に分かれて対立し、それは日々激しさを増し、ほかの大名たちを巻き込んでいった。

この状態を家康が見過ごすはずがなく、巧みな戦術で対立をあおり、天下分け目といわれる関ヶ原の戦いに持っていく。
関ヶ原を巡る状況については、関ヶ原通史を参照のこと。
慶長5年(1600年)に関ヶ原役に勝利した家康は、名実ともに天下人となった。それまでは、大名を転封するのでも気を使わなければならなかったが、これ以後は自由に、自身の判断で大名を統制できた。

家康は直ちに戦後処理を断行し、大名に対して果断な措置を行った。反家康についた大名の領地は基本的に没収または大幅に減封した。
反旗を翻した上杉家は会津120万石から米沢30万石に、西軍の総大将になった毛利家は120万石から37万石とされ防長二州に押し込められた。
西軍の副大将格の備前岡山の宇喜多家は所領没収、土佐の長宗我部も戦国以来の領地を失った。西軍よりの態度をとった常陸の佐竹氏は減封のうえ出羽秋田に転封された。

一方、家康に与した豊臣大名には大幅に加増したが、いずれも遠隔地に転封した。秀吉は豊臣大名を関東の家康を牽制するために東海道筋にズラリと配置したが、皮肉なことにこれら大名はことごとく家康に味方し、戦後の家康により加増されて移動させられる。
尾張清洲の福島正則は安芸広島(24万石→50万石)に、三河岡崎の田中吉政は筑後柳河(10万石→32万石)に、遠江浜松の堀尾吉晴は出雲松江(12万石→24万石)に、同じく掛川の山内一豊は土佐浦戸(5万石→20万石)に、駿河府中の中村一氏は伯耆米子(14万石→17万石)にという具合である。
三河吉田の池田輝政は家康の娘婿だったために外様ではありながら播磨姫路の要地を与えられた。

この転封後の土地に家康は親藩と呼ばれる徳川一門大名や譜代の大名家を配置した。そのほか奥羽・北陸・中国の要地には譜代大名を置いた。
豊臣秀吉により近世大名へのコースが作られ、近世大名となった大名家は関ヶ原で篩いにかけられて選別され、生き残った大名たちも今度は新たな中央政権である徳川幕府と対峙していくこととなった。
そして新たな中央政権の分岐として親藩と譜代大名が近世大名として誕生した。

近世大名になって戦国期から大きく変わった点は、領地の考え方である。まだ、豊臣期の大名では明確ではなかったが、徳川時代の大名では領地という概念が変わっていった。
領地というよりは封地であり、あくまでも預り地であった。室町期の守護のように徴税権や警察権・裁判権などはもっており、それを背景に将軍への義務を負っていた。
義務のうち最大のものは軍役であり、封地の石高により揃えるべき兵や武器の数が細かく決められた。さらに幕府のお手伝いと呼ばれる国役普請、これは江戸城などの修理や天領の河川工事などの大規模工事、日光東照宮や江戸増上寺などの徳川廟所の普請、さらに改易になった大名の城の受け取り、大坂城の在番や江戸城の門番など数多くあった。

さらに参勤交代という妻子は江戸在府、大名自身は隔年ごとに在府と在国の繰り返す(関東の大名は半年ごと)ことが義務とされた。
この参勤交代も石高・格式ごとに供の数まで細かく定められ、一日の移動距離も決められていた。これらは確実に大名の財政を逼迫させ、江戸中期以降は各大名家は財政難に苦しんだ。
しかし参勤を含めて、江戸時代の終わりまで義務がなくなることはなかったし、むしろ幕末には沿岸警備や攘夷のための武装出兵などの公役が頻繁に強制された。

(八)江戸時代の大名へ


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