歴史の勉強
テーマ別学習・大名とは何か
(六)豊臣時代の大名

秀吉は天下統一を果たしたが、この統一事業の過程で戦国大名は近世大名に変革していくか、滅んでいった。さらに信長の家臣団や自身の家臣の中から大名を創出した。
織田家臣団からの新たな大名の創出は、秀吉の天下統一事業促進のために領地を与え、秀吉の配下に与するようにしたもので、同僚であった前田氏や丹羽氏、堀氏などが代表的であり、織田信長の弟や子、孫もその中に包含されたしまった。
秀吉自身の家臣からは蜂須賀氏や浅野氏あるいは秀吉の出世の過程で配下になった黒田氏や竹中氏などで、完全に子飼いの加藤清正や福島正則もこの範疇になる。

秀吉は農民から天下人に一代で登りつめたため、大名としての経験が乏しかった。織田信長の家臣であっただけで、自身は大名はなく、戦国大名としての経験もなかった。
武士ではなかったから政権をとっても役に立つ親戚もほとんどなく、兄弟も弟が一人いただけだった。したがって一族で家臣団を持つわけことができず、同僚であった織田家臣や早くから配下に与した武将、子飼いの武将を大名として創出せざるを得なかった。
中にはその資質に欠ける者もいて、古くからの武士からは出来星大名などと揶揄された。

一方で秀吉に所領を安堵された戦国大名たちは、その地位を保障され、それらの領地では領主制が実現した。ここに近世大名への2つのコースが生まれた。一つは中央政権の分岐として生み出された豊臣大名が、主体的に諸条件をクリアしながら近世大名となっていくものであり、もう一つは生き残った戦国大名が中央政権に服属し、その中で諸条件をクリアしながら近世大名に変革していくものである。
関東を新たに領有した家康は、自身は戦国大名から近世大名への見事な変身をやってのけ、その過程で将来の布石をきちんと打っておいた。
一方では領国内に自身の家臣を配置して近世大名化させていった。その家臣も三河時代以来のもののほかに、三河以後に家臣に加わったものも多く、家康は実力があればそれら家臣を差別しなかった。
家康の領国はさながらミニ中央集権国家の感を呈したのだった。

秀吉の大名政策の特徴は完全な中央集権化であった。そのために政権のある京都に屋敷を持たせ頻繁に上洛させた。
農民から安定して年貢を取り立て、また軍役負担の基準とするために一筆ごとの生産高を把握し、それを台帳に登録する検地を全国統一基準で実施した。いわゆる太閤検地である。
登録された生産高に一定の率を掛け年貢とし、その生産高に対して大名の軍役負担が決められた。検地は秀吉の命で国家事業として行われ、作業は任命された奉行が行った。
ちなみに石田三成らのちに吏僚派と呼ばれる武将は、この太閤検地の奉行を多く行い、その過程で大名やその重臣との縁を作っている。

秀吉政権下では中央集権のために大名も移動した。政権に対し功があれば加増されたり加増転封されたりし、落ち度があれば減封されたり領地を没収された。
これは原則として豊臣大名に多く、戦国大名出身者では転封はそう多くなかった。秀吉晩年に豊後の大友氏が朝鮮戦役での怠慢を理由に領土を没収されたり、越後の上杉氏が会津に転封になったくらいであった。

秀吉は天下人になる過程で、幕府は開けなかった。さすがに農民出身者を武家の棟梁にするわけにはいかない。そこで考えられた末に公家の職である関白にすることにした。
関白とは天皇より先に奏状を見て天皇を補佐する役職で、最高官であり、五摂家といわれる近衛・鷹司・一条・二条・九条の家から選ばれたが、ここに新たに豊臣という姓を作ってまで秀吉を関白に据えたのである。
ちなみに関白を辞めると太閤といわれるようになる。太閤とは前関白のことであり、秀吉を指す場合は太閤秀吉といわなければならない。

全国統一を果たし関白職を譲って太閤となった秀吉は、独裁者であることに変わりなく、老耄が激しくなりついに朝鮮出兵の愚挙に及んだ。
そして慶長3年(1598年)に波乱に富んだ生涯を終えた。

(七)関ヶ原と大名へ


テーマ別学習の表紙に戻る
歴史の勉強の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -