歴史の勉強
テーマ別学習・大名とは何か
(五)天下統一と大名

秀吉は天下統一事業を事実上継承すると、まずライバルの柴田勝家を屠り、織田家内部での地位を完全に確立し、次に周囲との関係を固めた。
毛利氏と上杉氏とは基本的に和睦路線を敷き、徳川氏とも同盟関係を維持する方針であった。毛利・上杉とは比較的大きな問題はおきなかったが、徳川氏との関係はこじれ、小牧・長久手の戦いが起きる。小牧・長久手の戦いは長期戦となるが雌雄は決せず、秀吉は家康を懐柔せざるを得なくなり、講和後には実妹を家康に嫁し、実母を人質に出すことまでする。
これらが秀吉政権での家康の地位を高め、さらにそれが秀吉後の天下人の最有力候補者となる重要な要素になる。

家康との講和が済んで紀伊の雑賀・根来の一揆を討伐、四国平定に乗り出す。四国はそのころ土佐から起こった長曽我部氏が、三好・細川・河野・十河など他の戦国大名を圧し統一を果たしていた。
秀吉は圧倒的戦力を持って四国に攻め込み、鎧袖一触的に長宗我部を降伏させ土佐一国に押し込めた。
九州も同様であった。九州は薩摩・大隈の守護大名島津氏が北上し中九州を制圧、豊後の大友氏を攻めていた。秀吉は圧倒的戦力で島津を降伏させ、薩摩・大隈に押し込めた。
ここにおいて関東と奥羽を除けば、秀吉の天下となった。

次の目標は関東であった。関東は室町幕府においては特殊な地域であった。関東10ヶ国は関東公方という、鎌倉に置かれた将軍名代の管轄化に置かれたのである。
初めての武家政権の所在地である鎌倉は武家の聖地であった。その武家は関東が本場であり、京都からの威令に服させるよりは、関東武士の象徴としての鎌倉府を置き間接統治した方が統御しやすいと考えられた。
しかし、これは完全に裏目に出た。関東公方は代々将軍の近親者がなり、中央の管領にあたる関東管領には上杉氏が独占的になったが、関東公方は将軍家に反旗を翻し、上杉氏は一族で内訌を始めた。
さらに関東公方家と上杉家も対立し、関東の守護や国人を巻き込んで中央よりは早くに騒乱状態となった。

そこに現れたのが北条氏である。北条氏の本姓は伊勢氏というがその出自は不明であり、知略と謀略で戦国大名にのし上がった。
鎌倉幕府執権であった北条氏の名を名乗り権威を高めることに利用したが、執権北条氏とは何の関係もないために区別するために後北条氏という。
後北条氏は初代早雲に始まり、小田原を本拠に抗争を繰り返し、安房と常陸を除く関東一円と伊豆をほぼその影響下に置いた。
本拠小田原は大城郭であり、戦名人の上杉謙信ですら攻め切れずに囲んだだけで退いたという堅城であった。

秀吉は小田原攻めを発向。大軍勢で小田原を封鎖し、関東各地の北条方の城塞を次々に落としていった。関東で北条に対抗していた守護から戦国大名化した常陸の佐竹氏と、上野で起きた里見氏の一流が流れ着いて戦国大名となったといわれる安房里見氏は秀吉に与した。
天下の堅城小田原も最終的には諜略により落ち、後北条氏は滅亡した。世の流れを読みきれなかった戦国大名の末路であった。

この小田原攻めに関連して、後世に大きな影響を持つ2つの事項があった。一つは奥羽の諸大名が小田原に参陣したことである。参陣とはいえ兵力を率いて攻撃に参加したわけではなく、大名自身が秀吉に謁見を請いに来たのだ。
これは秀吉に臣従することになる。奥羽の諸大名は迷った。参陣して秀吉の配下になるか、座して秀吉を待ち一戦するかである。
そのころの奥羽の半分は伊達政宗の版図であった。政宗は悩んだ末に小田原に参陣し、出羽の名門最上氏もほぼ同時期に秀吉のもとに参じた。
これが関東攻めのあとの奥羽仕置の基準となった。小田原参陣をせず秀吉を無視した大名は、ことごとく領地を没収された。これは圧倒的な兵力を背景になされたので、没収された大名側はなすすべもなく従わざるを得なかった。

もう一つは徳川家康の関東移封である。三河で起こり今川氏の衰退により遠江に進出し、武田家の滅亡時に駿河を加え、本能寺のドサクサで信濃と甲斐を領土とした家康は東海と甲信を押さえる大大名であった。
秀吉は少しでも京都から遠ざけるために、北条滅亡後の関東を家康に与え、旧領を全て没収した。家康の領地は常陸と安房、それに下野の大部分を除く関東各国と伊豆・甲斐であった。その領土は255万石大大名であることは変わりなかった。家康は小田原を捨て江戸に本拠を置いた。

(六)豊臣時代の大名へ


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