歴史の勉強
テーマ別学習・大名とは何か
(四)戦国大名

戦国期は各地で群雄たちが争乱に明け暮れた時代であったが、そのなかからやがて強者が現れて、天下人争奪戦の様相を帯びてきた。
奥羽の伊達氏、関東の後北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、東海の今川氏、四国の三好氏、中国の毛利氏、九州の大友氏と島津氏あたりが争奪戦参加者であった。
この時代の政治の中心は京都であり、天下を治めるためには京都に上る必要があった。その意味で辺境の伊達氏や大友氏、島津氏は断然不利であり、上杉、武田、後北条氏は牽制し合って領国を離れるわけにもいかなかった。

京都に近い三好氏あたりが有利であり、事実三好氏は京都を抑えたこともあったが、いかんせん基盤が弱かった。
いくら戦国期とはいえ足利家は健在であり、有名無実化してはいたが将軍もいた。三好氏は将軍家の被官であった細川氏の被官であり、下克上により主家細川氏を凌いで戦国大名化したもので、そのまた被官である松永氏も力を付け始めていた。
こんな状態だから京都を抑えるのが精一杯で、天下に号令できるほどではない。ほかに京都に近い戦国大名は近江の六角氏と越前の朝倉氏であるが、領国が六角氏は近江半国、朝倉氏は越前一国でともに軍事力が弱すぎる。

このような情勢のときに上京して天下人たらんと考え行動を起こしたのが駿河の今川義元であった。今川氏はれっきとした足利一門であり、守護大名から戦国大名化した氏素性の正しい家であった。
しかし義元は田楽狭間の戦いで尾張の織田信長に破れ、討ち取られてしまった。織田氏は尾張守護の斯波氏の守護代であったが、信長の織田家はそのさらにその守護代の奉行の家であった。
守護代の織田氏は斯波氏を下克上により倒したが、信長の織田氏は守護代の織田氏を倒し尾張の戦国大名となった。

信長は田楽狭間で今川義元を斃したことにより、天下人に大きく近づいた。この快挙にとかく動揺していた尾張国内の国人たちは信長のもとに団結し、今川氏に蚕食されていた三河の国人松平氏は徳川氏と改姓し、一族ともども信長の同盟者となった。さらに今川氏は大打撃を受けて、この後立ち直れなくなる。
信長は京都への道に目を向けはじめ、その軍事的な天才もあって、美濃の斎藤氏、北近江の浅井氏、越前の朝倉氏、京畿の三好氏などを破り、さらに信玄亡き後の武田氏も滅ぼした。

朝廷から右大臣に任ぜられ、ついに利用価値の無くなった足利将軍家を廃した。それまでは将軍の権威は失墜したとはいえ、足利幕府は形式的には存在していた。
信長も天下争奪戦の過程で、15代将軍義昭を庇護し、その権威を利用したことは有名であるが、自身が天下に号令できるようになるめどがつくと、さっそとこれを放り出した。
同時に守護だ地頭だという時代ではなくなったのだ。

信長の諸国統治の基本は、家臣を各国に配して支配させるが、全支配権限を与えずに最終的な意思決定権は信長が握るという方法で行われた。
各地の家臣に基本的な事項の指示を出し、とくに課役や裁判、他の戦国大名や国人に侵食された公家領の還付などについてはいちいち信長の指示を必要とした。
これは各国において家臣たちの意思より信長の意思が優先することを示している。さらに信長は腹心の家臣を、各地の支配を委ねた家臣に付け監視させた。
これは守護制度の否定であり、信長によって守護制度は消滅することとなった。

信長は軍事的には成功し、北陸方面は加賀で上杉氏と対峙、東山道方面は信濃・甲斐を手にし関東を攻め始め、東海道方面は同盟軍の徳川家康が三河・遠・駿河を押さえ、近畿はほぼ完全に制圧かに置き、山陰は因幡まで、山陽は備前の宇喜多氏を配下にし備中東部まで進出して毛利氏と対峙した。
完全にほかの戦国大名を圧倒する力を持っていた。しかし人心収攬では失敗し、明智光秀によって本能寺で討たれる。
これにより信長の偉業は絶えたかに見えた。しかし、信長の家臣であり軍団長であった羽柴秀吉が即座に光秀を討ち、間髪をいれないはどの速さでそn後継者の地位を獲得した。

(五)天下統一と大名へ


テーマ別学習の表紙に戻る
歴史の勉強の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -