歴史の勉強
テーマ別学習・大名とは何か
(三)守護から守護大名へ

室町幕府というのは政権基盤の弱い、いってみれば不安定な政権であった。6代将軍義教などは、将軍権力の強化を図り、反義教派の守護や家臣を次々に失脚させたり討伐したりしたが、逆にそれを恐れた備前など3ヶ国の守護赤松満祐に殺されてしまう。(嘉吉の変)
将軍家自体がそんな状態であったから、権威などあるわけもなく、やがて各地に大名達が半独立の状態で割拠し、戦国の世を招く。

大名とは自身の所領を持ち、多くの家臣を率いて勢力ある武士のことだから、出自を問わずそれらに該当すれば大名ということになる。
もっとも繰り返しになるが、守護大名や戦国大名というのは後世の用語であって、当時は屋形、太守などと呼ばれるのが一般的であった。
これらの出自は守護から守護大名化したもののほか、守護代や小守護代から大名化したもの、国人層から大名化したものなどがあるが、いずれにしても群雄割拠が急展開していった。

そのような情勢の中で起きた応仁の乱は、以後の社会の状況を劇的に変化させることになった。戦国時代の始まりである。
戦国時代の始まりがいつかというのは諸説あるが、守護大名から戦国大名への転機という意味では応仁の乱を境にする。
守護は京都を立ち退き領国化した任国に下った。幕府のいうことも聞かなくなった。一方、その領国では国人たちが守護のいうことを聞かなくなった。
下克上の始まりであり、世は戦国というサバイバルの時代に突入した。各地で争乱が起こり、強いものが容赦なく弱いものを併呑し、勢力権を広げた。
この時点で守護大名の一部は戦国大名化が、先に述べたように守護代や国人層から戦国大名になったものも多かった。

繰り返すようだが、守護から守護大名した時点では任国はほぼ領国化していたが、「守護職」という概念は完全に否定されたわけではなかった。
伝統と名誉をともなう「守護職」へのこだわりは、将軍の補任状や御教書、幕府奉行人の奉書などはオールマイティの切り札として扱われたし、実質はともかくとして表面上は武家の棟梁である将軍の権威は尊重された。
しかし、応仁の乱後の大名は、その出自の如何を問わず領国内の政治は全て自身が主権者となって行い、将軍や守護の指示や命令に服従することはなくなった。これが守護大名と戦国大名の大きな違いである。

もっとも守護大名から戦国大名化したものは基本的には多くない。甲斐の武田氏や駿河の今川氏、薩摩の島津氏などが目立つくらいで、むしろ例外的と言ってもよかった。大半の戦国大名は国人層から生まれている。
ほかに守護大名と戦国大名の違いを挙げれば、守護大名は荘園制の否定をせず、荘園を自身の有利な方向への利用を考えたが、戦国大名は検地を行い荘園制を完全に否定している。
さらに守護大名の家臣団は同族や一族であったが、戦国大名の家臣団は非血族も組み入れて組織された。農民への接し方も守護大名はあくまで荘園制の中で行なったが、戦国大名は荘園という枠がない中で農民を掌握したなどが挙げられる。

(四)戦国大名へ


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