歴史の勉強
テーマ別学習・大名とは何か
(二)室町期の守護

室町幕府初期における守護の設置は、それでもまだ流動的であった。流動的とは任地が固定化していないということである。
室町初期は南北朝の争乱期であり、また幕府内でも対立があり、各地で戦乱が起きた。そのために無能な守護や反幕府的な守護は更迭されたのである。
しかし南北朝の合一がなり、足利三代将軍義満から六代義教のころに最盛期を迎えると、次第に守護は固定化され、それに伴い世襲化していった。
守護が固定化、世襲化していくということは、軍事・警察権、徴税権、土地裁量権などが固定化するということで、それは取りも直さず、大名化していくことにほかならなかった。

だが、実際には守護がすべて大名化したわけではなく、守護から守護大名化し得なかった例も多い。
例えば室町幕府の三管領家(幕府の最高官職で、将軍を補佐し政務全般を総轄する)を見てみると、斯波氏は尾張、越前、遠江の守護であったが領国の経営にことごとく失敗し、守護大名にはなれなかった。
畠山氏は河内、紀伊、越中、能登が分国であったが、越中は守護代であった神保・遊佐・椎名各氏に事実上乗っ取られ、紀伊の領国化には失敗、河内では守護大名化したものの、応仁の乱の主戦場となったうえ、畠山氏自体の内訌の主舞台となり、守護は名目だけとなった。かろうじて分家であった能登畠山氏が守護大名となったに過ぎない。
細川氏の分国は摂津、和泉、阿波など9ヶ国に及んだが、守護代や国人の成長があって、分家の細川氏を含め守護大名にはなれなかったといっていい。

なぜ、守護が強大な権限を持ちながら大名化が容易ではなかったかといえば、幕府の制度として守護の在京義務があった。
室町幕府は奥羽両国は探題制をとり守護をおかず、関東10ヶ国(関東8ヶ国に甲斐と伊豆を加えたもの)は鎌倉に置いた鎌倉公方が管轄し、九州には九州探題を置いて九州一円を管轄させた。
残る東海、北陸、近畿、中四国が「室町殿御分国」と呼ばれる将軍家直轄であり、これらの国の守護は全て京都に屋敷を構えて常駐しなければならなかった。
故に現地の支配は守護代を置いて任せざるを得ず、中にはその守護代も在京し、守護代の下に小守護代を置き、分国支配を行う場合も多かった。

一方、現地の荘園や公領では地頭・下司・郷士など在地の武家が力を伸ばし始め、領主化していった。これらは国人または国人領主と呼ばれるようになる。
鎌倉時代の支配体制は守護に対する軍事・警察権の付与であったが、軍事といってもそれは大番催促という大番役の割当てを行うだけであり、地頭や下司を自身の家臣とすることは禁じられていた。
しかし、室町期の守護はいってみれば領国支配権を握っており、しかも任地が固定化され守護職が世襲されているということは、在地の国人たちにしてみれば守護の支配下に入っているに等しい。
逆に言えば支配者の圧力に抗するためには、武力を強化していくのは当然のことであった。

それを鎌倉時代の家の子郎党という同族集団の枠内で行うのでは限界があり、やがて同族集団を超えて軍事的集団となっていった。
まず、近隣の国人同士で同盟を結び(これを国人一揆という)、さらに強者が弱者を吸収していき、やがて守護代や守護に充分対抗できるまでになっていったのである。
これらは、守護の在京制と相俟って、守護の大名化の前に立ちはだかった。

(三)守護から守護大名へへ


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