歴史の勉強

家宣期以降の改易大名 (一門・譜代)

族姓的理由

本多忠孝  越後村上15万石  宝永6年(1709年)9月21日
宝永元年(1704年)に父忠国の跡を継いで播磨姫路藩主となったが、7歳と幼少であったために越後村上に転封となった。しかし宝永6年9月13日に12歳で死去し、無嗣絶家となったが、本多忠勝に繋がる勲功の家であるため、分家の播磨山崎藩主忠英の長男忠良に5万石が与えられ相続が許された。
松平(本庄)宗胡  越前高森2万石  正徳元年(1711年)11月25日
正徳元年11月25日に8歳で没し、無嗣絶家となった。
小笠原長邑  豊前中津4万石  享保元年(1716年)10月12日
正徳3年(1713年)12月27日に父長円の死去により、わずか3歳で家督を継いだが、享保元年9月6日に6歳で没し、無嗣絶家となった。先祖の功が認められて同年10月12日に弟長興に播磨安志で1万石が与えられ、相続が認められた。
本多忠村  大和郡山11万石  享保7年(1722年)11月5日
享保7年9月晦日に13歳で没した。無嗣であったが同年11月5日に6万石を減封され、弟忠烈に家名の相続が認められた。
本多忠烈  大和郡山5万石  享保8年(1723年)11月26日
享保7年(1722年)に兄忠村が13歳で没し、無嗣のため弟忠烈が6万石を減封され相続したが、その忠烈も翌享保8年11月26日に14歳で死去し、無嗣断絶となった。
松平(越前)浅五郎  美作津山10万石  享保11年(1726年)11月18日
越後騒動により改易された松平光長の養子宣富は、元禄11年(1698年)に美作津山で10万石を与えられ大名に復した。宣富の長男が浅五郎で、宣富の死去により享保6年(1721年)にわずか8歳(5歳とも)津山藩主となった。しかし享保11年11月11日に14歳(11歳とも)で没した。無嗣であったが、甥の長煕に5万石で家名相続が許された。
松平(尾張)義真  陸奥梁川3万石  享保14年(1729年)6月22日
尾張家の連枝で陸奥梁川3万石を領していたが、享保14年5月10日に16歳で没し、無嗣絶家となった。領地は改めて尾張家三代藩主綱誠の七男通春(のちに宗家を継ぎ宗春)に与えられた。

法律的理由

屋代忠位  安房北条1万石  正徳2年(1712年)7月21日
徳川忠長の付家老であった屋代忠正が、忠長の改易により改めて安房北条1万石を与えられ、北条藩を立藩した。その二代後が忠位であったが、年貢増微により万石騒動とよばれる一揆を招き、苛政を咎められて改易され、廩米3千俵を与えられた。
内田正偏  下野鹿沼1万3千石  享保9年(1724年)10月29日
享保9年10月29日に発狂して妻を負傷させ、改易された。子の正親に3千石減封の上、1万石で相続が認められて下総小見川に転封となった。
水野忠恒  信濃松本7万石  享保10年(1725年)8月27日
享保10年7月28日に江戸城中において、長府藩主毛利師就に突然斬りつけて除封となった。しかし家康の外戚であることから、長男忠穀に7千石が与えられ旗本とされ、さらにその子の忠友は駿河沼津3万石の大名に復した。
松平(大給)乗邑  下総佐倉7万石  延享2年(1745年)10月10日
享保8年(1723年)に老中に就き、その後に老中首座となった。将軍吉宗の信任が篤かったが、吉宗が退くと失脚し老中を免ぜられたうえ、延享2年10月10日に1万石減封され隠居を命ぜられた。6万石は嫡子乗祐に与えられたが、出羽山形に移封となった。
植村恒朝  上総勝浦1万石  宝暦元年(1751年)10月12日
宝暦元年8月に分家の千吉が親族の朝比奈義豊に斬殺されたが、病気により重体と偽りの届けを出した。このことが発覚して犯罪隠匿の罪に問われ除封された。養子寿朝に2千俵が与えられ旗本として存続した。
安藤信尹  美濃加納6万5千石  宝暦5年(1755年)2月4日
家臣の訴えにより家中の乱れ、不行跡を理由に1万5千石を減封され隠居謹慎を命ぜられた。子の信成が5万石を継いだが、磐城平に転封となった。
本多忠央  遠江相良1万石  宝暦8年(1758年)10月25日
西ノ丸若年寄であったが、郡上宝暦騒動の訴訟に不正があったとされて宝暦8年9月に免職、10月25日に除封され美作津山藩松平家に預けられた。
稲葉正明  安房館山1万3千石  天明6年(1786年)8月27日
御側御用取次であったが田沼意次派であったために意次に連座して改易となり、3千石を減封された。
田沼意次  遠江相良5万7千石  天明6年(1786年)閏10月5日  天明7年(1787年)10月2日
将軍家治の死去により天明6年(1758年)8月27日に老中を免ぜられて失脚し、同年閏10月5日に2万石を減封、翌天明7年10月2日に老中在職中の不正を咎められて2万7千石を減封のうえ隠居、嫡子意明は陸奥下村1万石に移封となった。
林忠英  上総貝淵1万8千石  天保12年(1841年)4月17日
将軍家斉の寵臣で、文政8年(1825年)に若年寄に昇進し御用取次を兼ね、3千石を加封されて諸侯に列した。その後も加増されて都合1万8千石を領したが、天保12年閏正月に家斉が没すると失脚し、勤務不良を咎められて8千石を減封され免職となった。
水野忠邦  遠江浜松7万石  弘化2年(1845年)9月2日
野心家であり幕閣入りを目指して運動を重ね、天保5年(1845年)には老中に就任した。その後老中首座となり天保の改革を断行したが、天保14年(1843年)閏9月に失脚した。翌天保15年に老中首座に返り咲いたが、弘化2年2月に再び失脚し、同年9月2日に在職中に不正があったとされ2万石を減封、隠居逼塞を命じられた。
堀親寚  信濃飯田2万7千石  弘化2年(1845年)9月2日
天保12年(1841年)に側用人となり、水野忠邦に協力して天保の改革を推進した。弘化2年に忠邦が失脚すると勤務不良を咎められ1万石を減封され、隠居逼塞を命じられた。
本郷泰固  駿河川成島1万石  安政6年(1859年)10月27日
安政4年(1857年)8月28日に若年寄に抜擢され、3千石を加増されて諸侯に列した。将軍家定の継嗣問題で一橋慶喜を推したが将軍は紀州家の家茂に内定し、泰固は免職となり失脚した。安政6年10月27日に在職中の勤務が不良であったとされ5千石を減封され大名ではなくなった。
久世広周  下総関宿6万8千石  文久2年(1862年)8月16日
老中であった安政5年(1858年)に井伊直弼と対立して失脚したが、桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると老中に復帰し、安藤信正とともに公武合体を推進した。文久2年に坂下門外の変で安藤信正が失脚し、2ヶ月後に広周も辞職し、同年8月16日に勤務不良を咎められ1万石を減封、隠居を命ぜられた。
酒井忠義  若狭小浜11万3558石  文久2年(1862年)8月14日
安政5年(1859年)に京都所司代となり、安藤信正に協力して公武合体を進め和宮降嫁にも成功したが、文久2年に坂下門外の変で信正が失脚すると忠義も職を免じられ、同年閏8月14日に1万石を減封され隠居を命じられた。家督は子の忠氏が継いだが、明治元年(1868年)に忠氏が病により致仕すると忠義が忠録と名を改めて再び家督を相続した。
井伊直憲  近江彦根35万石  文久2年(1862年)11月20日
万延元年(1860年)桜田門外の変で父直弼が斬殺され家督を継いだが、文久2年11月20日に直弼の大老在職中の失政を追罰される形で10万石を減封された。
間部詮勝  越前鯖江5万石  文久2年(1862年)11月20日
安政5年(1858年)に老中となり外国御用を命ぜられた。文久2年11月20日に条約勅許問題と安政の大獄に協力したことを咎められて1万石を減封され、隠居を命じられた。
久世広文  下総関宿5万8千石  文久2年(1862年)11月20日
文久2年11月20日に父広周の老中在職中の失政の追罰として1万石を減封された。同年8月16日にも広周自身が1万石を減封されており久世氏は合わせて2万石の減封処分をされた。
安藤信民  陸奥磐城平5万石  文久2年(1862年)11月20日
公武合体を推進した老中安藤信正は、文久2年坂下門外の変で負傷して職を免じられ失脚した。同年8月に信正が隠居し、信民が家督を継いだが、文久2年(1862年)11月20日に父信正の老中在職中の失政を理由に2万石を減封された。
松平(水戸)頼徳  常陸宍戸1万石  元治元年(1864年)10月5日
弘化3年(1846年)に宍戸藩主となり水戸藩主慶篤を補佐した。元治元年に天狗党の乱が起きるとその鎮圧を図ったが失敗したうえ、天狗党に対して同情的な面があったことが問題視されて切腹を命ぜられ、宍戸藩は改易となり天領となった。慶応4年(1868年)に朝廷の命もあり、頼徳の父頼位に宍戸藩の再興が認められた。
堀親義  信濃飯田1万7千石  元治元年(1864年)12月25日
元治元年11月に甲府守衛を命ぜられたが、翌12日に水戸天狗党の浪士に清内路峠の関所を通過されてしまった。守衛の任を果たせなかったとされ、12月25日に2千石を減封され逼塞を命じられた。
戸田忠恕  下野宇都宮7万7850石  慶応元年(1865年)1月25日
元治元年(1864年)に筑波山に拠る天狗党追討を命ぜられるも、幕命を得ずに帰陣するなど戦闘には消極的であり、翌慶応元年正月25日に譴責されて2万7850石を減封され、隠居を命じられた。養子の忠友が家督を継ぎ陸奥棚倉に転封を命じられたが、朝廷の介入で転封は中止となり、さらに減封も取り止めとなった。

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