歴史の勉強

六、家宣期以降の大名政策

江戸幕政において特徴的な足跡を残した綱吉は、宝永6年(1709年)正月10日に64歳で死去した。これを境にして幕府の大名等政策は大きく変化し、改易は激減する。
六代将軍家宣以降の改易は家宣時代4名、七代家継時代1名、八代吉宗時代12名、九代家重時代5名、十代家治時代1名、十一代家斉時代5名、十二代家慶時代3名、十三代家定時代なし、十四代家茂時代11名であり、家康~綱吉時代に比べ大きく減少している。
ひとつには末期養子緩和による無嗣断絶の減少がある。家宣期以降無嗣による改易は13名(死亡による1名を含む)で、後期では無嗣で藩主が死亡しても喪を秘して、急遽養子を立てたあとで死亡の届けを出すことも多かった。幕府でもよほどの事がない限り急養子を認めた。
法律的理由による改易は29名であるが、特徴の一つは田沼意次、水野忠邦、久世広周など政争に敗れて失脚し、改易されたケースが多いことである。法律的理由による改易は13名にのぼる。
また慶応2年(1866年)の毛利慶親(長門萩)は禁門の変の懲罰により10万石を没収されたが、実際は長州征伐の失敗により実行されなかった。
御家騒動にいたっては仙石騒動による仙石利久の改易があるのみである。仙石騒動は財政再建を巡って改革派と保守派が激しく対立する中で藩主が嗣子を定めず急死し、急ぎ藩主を決定するという事態になり、跡目争いも絡む騒動に発展し、さらに幕府の知るところとなると幕閣の主導権争も加わった。大騒動であったが仙石氏は58080石から28080石を没収されただけであった。

また大名改易の激減に伴って、大名の転封も大きく減少する。
家宣以降の外様大名の転封はわずか4名(正徳2年加藤喜矩:下野壬生2万5千石→近江水口同、明和4年織田信浮:上野小幡2万石→出羽高畠同、文化3年立花種善:筑後三池1万石→陸奥下手渡同、天保2年織田信美:出羽高畠2万石→出羽天童同)を数えるのみである。
一方譜代大名については綱吉期にかなり定着をみたが、家宣期以降には交換転封が多く行われた。宝永7年(1710年)の松平(奥平)忠雅、松平(久松)定重、阿部正邦、戸田忠真の四者交換(松平忠雅:備後福山→伊勢桑名、松平定重:伊勢桑名→越後高田、戸田忠真:越後高田→下野宇都宮、阿部正邦:下野宇都宮→備後福山)や正徳2年(1712年)の本多忠良、松平(大河内)信祝、牧野成央、三浦明敏の四者交換(本多忠良:三河刈谷→下総古河、松平信祝:下総古河→三河吉田、牧野成央:三河吉田→日向延岡、三浦明敏:日向延岡→三河刈谷)など二者交換、三者交換を含めてこの形式が一般化してくる。
これは改易の減少による大名空白地の減と大名の固定化に伴うものである。特に交換転封の場合は、幕閣からの失脚などによるペナルティがらみになると良地→悪地、悪地→良地の交換となり、同じ石高でも実収に大きく差がつくケースがほとんどである。出羽山形や陸奥棚倉などは典型的な左遷地であった。

法律的理由による改易の減少は大名の領国が固定化し、それに伴って幕政が安定してきたことで改易、転封という統制の意義がなくなってきたということだろう。むしろ統制というより幕閣要職の就退任やペナルティなどの行政的な改易、転封になっていった。このため関東の忍、佐倉、岩槻、川越などや前記の山形、棚倉など領主が頻繁に交代する藩は限定されることとなった。しかし幕末期には外圧をきっかけに幕府自体の力が急速に弱まり、大名の統制すら不可能となってきた。
天保11年(1840年)には松平(越前)斉典、酒井忠器、牧野忠雅の三者交換(松平斉典:武蔵川越→出羽庄内、酒井忠器:出羽庄内→越後長岡、牧野忠雅:越後長岡→武蔵川越)が企図されたが、実質的に大減収となる庄内藩酒井家の巻き返しで転封が中止されたケースがある。
幕末近くになると幕府は大名統制のための改易や転封すら行えないほど、その権威は墜ちてしまったのであった。

そして十五代将軍慶喜の大政奉還によって250年前の豊臣氏同様、徳川氏も一大名となってしまうが、明治元年(1868年)以降、新政府によって処罰された大名も多くいる。大半は戊辰戦争にからんで新政府に敵対したものであるが、なかには筑前福岡藩のように廃藩置県直前に贋造紙幣事件を起して取り潰された例もある。
明治以降の新政府による減封、除封はペナルティであり、江戸期の改易と同様の考え方であった。また徳川宗家は一大名として駿府70万石を与えられたが、これに伴い駿河遠江一円の大名は押し出される形で転封となった。すなわち駿河沼津5万石水野忠敬は上総菊間へ、駿河田中4万1500石本多正訥は安房長尾へ、駿河小島1万石松平(滝脇)信敏は上総桜井へ、遠江相良1万石田沼意尊は上総小久保へ、遠江横須賀3万5千石西尾忠篤は安房花房へ、遠江浜松6万石井上正直は上総鶴舞へ、遠江掛川5万2295石太田資美は上総芝山へそれぞれ移ったが、転封後落ち着く間もなく廃藩置県となった。

まとめ

(一)家宣期以降は家康期~綱吉期に比べ改易が大きく減少した。その大きな理由は、ひとつには末期養子緩和による無嗣断絶の減少であり、さらには大名の領国が固定化したことによって幕政が安定し、改易や転封という統制の意義がなくなってきたということと思われる

(ニ)大名改易の激減に伴って、大名の転封も大きく減少した。家宣期以降の外様大名の転封はわずか4名に過ぎず、譜代大名の転封は改易の減少による大名空白地の減と大名の固定化に伴い、交換転封が増加した。

(三)幕末期には外圧をきっかけに幕府自体の力が急速に弱まり、大名統制のための改易や転封すら行えないほど、その権威は墜ちてしまった。

(四)慶喜の大政奉還によって徳川宗家は一大名として駿府70万石を与えられたが、これに伴い駿河遠江一円の大名は押し出される形で転封となった。しかし転封後落ち着く間もなく廃藩置県となった。

家宣期以降の改易大名(外様)
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