歴史の勉強

綱吉期の改易大名 (外様)

族姓的理由

遠藤常久  美濃八幡2万4千石
元禄2年(1689年)6月6日にわずか4歳で襲封したが、元禄5年(1692年)3月晦日に7歳で没した。無嗣断絶となるところ、綱吉の愛妾お伝の方の妹の子胤親を養子としたために、1万石で家督相続が許された。胤親は遠藤家とはまったく関係なかったが、断絶からは救われ常陸・下野両国内で1万石を与えられた後、近江三上に移され明治に至った。
水谷勝美  備中松山5万石
元禄6年(1693年)10月6日に31歳で死去し、従兄弟の勝阜の長男勝晴を末期養子とした。しかし勝晴は、相続が許される前の同年11月27日に死去してしまい除封となった。勝美の弟勝時に改めて2千石が与えられ相続が許され、旗本として存続した。
小出重興  和泉陶器1万石
元禄9年(1696年)4月9日に34歳で死去し、弟重昌を末期養子とした。しかし重昌は相続が許される前の、同年6月15日に15歳で没したために除封となった。
小出英及  但馬出石4万5千石
元禄8年(1695年)2月14日にわずか2歳で襲封したが、翌元禄9年10月22日に3歳で没し、無嗣のために絶家となった。

法律的理由

真田真利  上野沼田3万石
助役していた両国橋の架替工事の用材搬出遅滞を咎められて、天和元年(1681年)11月22日に改易除封となったが、日頃から不行跡であり、藩政も乱れていたことも改易の理由とされる。出羽山形藩奥平家に預けられた。長男信音も連座して播磨赤穂藩浅野家に預けられたが、元禄元年(1688年)に赦されて1千俵が与えられ、旗本となった。
桑山一尹  大和新庄1万1千石
天和2年(1682年)4月に、寛永寺で行われる四代将軍家綱の法会のために参向する新院使饗応役を命ぜられたが、5月26日に新院使に不敬の行為があったとして改易された。
土方雄隆  陸奥窪田1万8千石
雄隆の後嗣をめぐり、江戸の家臣は弟の貞辰を、国許の家臣は兄雄信の子の内匠を、それぞれ養子とするよう進言して騒動に発展した。貞辰が幕府に訴えたことから貞享元年(1684年)7月21日に雄隆は責任を負わされて改易となり、越後村上藩榊原家に預けられた。
有馬豊祐  筑後松崎1万石
筑後久留米藩の分家で、陸奥窪田藩主土方雄隆に連座して改易となった。豊祐は雄隆の正室の実弟で、相談を受けたにも関わらず、相談にも乗らず仲裁もしなかったことを問題にされた。領地は一旦収公されたが、元禄10年(1697年)に久留米藩に還付された。
溝口政親  越後沢海1万石
越後新発田藩の支藩沢海1万石の藩主であった政親は、貞享3年(1686年)酒乱により逼塞となり、翌貞享4年8月25日に一族の願いにより除封された。背景には宗家新発田藩と沢海藩の対立があったといわれる。
那須資徳  下野烏山2万石
資徳は弘前藩主津軽信政の三男で、天和3年(1683年)烏山藩主那須資弥の養子となり、貞享4年(1687年)に封を継いだ。ところが資弥には病弱であるが資寛という実子がおり、資寛が幕府に訴えを起した。
これにより実子がありながら養子資徳を藩主としたことが違法とされ、貞享4年10月に改易された。元禄13年(1700年)に赦されて千石を与えられ、交代寄合として存続した。
佐久間勝茲  信濃長沼1万石
元禄元年(1688年)5月14日に綱吉の側小姓を命じられたが、病と称して辞退した。これが不忠とされ除封となり、陸奥二本松藩丹羽家に預けられた。
山内豊明  土佐中村3万石
外様大名ながら、元禄2年(1689年)5月3日に若年寄に抜擢されたが、病気を理由に辞職を願った。このことが不忠とされ、綱吉の怒りを買い同月11日に逼塞となった。同年8月3日に2万7千石の減封を命ぜられたが、これに返答をしなかったため翌日除封となり、3万石は宗家の土佐藩主山内豊昌に還付された。
織田信武  大和郡山2万8200石
元禄7年(1694年)10月30日に発狂して家老2名を手討ちにした後、自殺した。嫡子信休が封を継ぐことを許されたが、8200石を減封され、丹波柏原に転封となった。
森長武  美作国内2万石
長武は美作津山藩二代藩主長継の三男で、延宝2年(1674年)に長継が隠居し家督を継いだ。兄の忠継が早世し、その子の長成が幼少であったために、長成が成長するまでの措置であった。貞享3年(1686年)に長成が16歳となったため家督を譲って隠居し、隠居料として2万石を得た。
のちに弟の長基を養子として2万石を相続させ分家しようとしたが、長成の反対にあい、長基とも不和となり実現しないまま元禄9年(1696年)に死去し、2万石は長成に還付された。
森長成  美作津山16万7800石
元禄10年(1697年)6月20日に27歳で没し、叔父の関衆利を末期養子とした。衆利は相続手続の為に江戸に向ったが、その途次、伊勢桑名で発狂し同年8月2日に除封となった。隠居していた長成の祖父長継に備中西江原において2万石が与えられ、再勤しての家督相続が認められた。
伊達村和  陸奥水沢3万石
伊達綱宗の二男として生まれ、家臣である伊達(留守)宗景の養子となり水沢1万6300石を知行した。元禄8年(1695年)に兄の仙台藩主綱村より3万石を分知されて大名となった。元禄12年(1699年)9月9日に行列の前を旗本岡孝常が横切ったことから争論となり、26日に村和、孝常とも逼塞となった。その後、兄綱村の願いにより村和は除封となり、領地は綱村に還付された。村和には2千俵が綱村より支給された。
浅野長矩  播磨赤穂5万石
江戸時代でもっとも著名な事件の一つである、元禄赤穂事件により除封された。
元禄14年(1701年)2月4日に長矩は勅使饗応役を命ぜられ、高家吉良義央の指導を受けた。3月14日の勅使帰任に際して挨拶のため登城し、城内において義央に刃傷に及んで軽傷を負わせてしまう。義央の悪意に対して耐えかねての所業ともいわれるが、殿中での重要式典直前の刃傷ということもあり、綱吉は即日切腹を命じ、赤穂藩浅野家は除封となった。
のちに家老大石義雄らによる義央に対する仇討ちは、忠臣蔵として有名である。六代将軍家継の代になって、弟長広が召し出され500石を与えられ旗本に取り立てられた。

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