歴史の勉強

綱吉期の改易大名 (一門・譜代)

族姓的理由

水野勝岑  備後福山10万1千石
水野勝種の七男として生まれ、元禄10年(1697年)10月22日に1歳で襲封したが、翌元禄11年5月5日に死去し、無嗣断絶となった。しかし先祖の功を考慮されて、分家勝直の長男勝長に能登西谷で1万石が与えられ相続が認められた。

法律的理由

内藤忠勝  志摩鳥羽3万5千石
延宝8年(1680年)6月4日に増上寺で行われる、四代将軍家綱の法要の際の方丈口勤番を命ぜられたが、同年6月26日の法要のときに永井尚長(丹後宮津7万3600石)を刺殺し、翌日切腹となり除封された。尚長は法要の奉行であった。刃傷の理由については乱心、失心とされるが、老中よりの書面を尚長が忠勝に見せなかったことに立腹したともいわれている。
永井尚長  丹後宮津7万3600石
延宝8年(1680年)6月4日に増上寺で行われる、四代将軍家綱の法要の奉行を勤めていたが、その席上で方丈口勤番を勤めていた内藤忠勝(志摩鳥羽3万5千石)に刺殺された。無嗣であったために7月9日に除封となったが、8月7日に弟直円に大和新庄1万石が与えられ、相続が認められた。
加々爪直清  遠江掛塚1万3千石
天和元年(1681年)2月9日に直清の領地と旗本成瀬正幸の領地との境界争いに関し、幕府に提出した書類に誤りがあったとして除封され、伊勢神戸藩主石川家に預けられた。もともとの原因は養父である直澄が加増された際に境界の確認を怠ったためであり、直澄も土佐藩山内家に預けられた。
松平(越前)光長  越後高田25万石
家康の二男結城秀康の嫡男にあたる。父忠直は越前北庄(福井)67万石を継いだが、元和9年(1623年)2月に改易された。光長に相続が認められたが、25万石に減封のうえ越後高田に転封となった。
延宝2年(1674年)に光長の嫡子であった綱賢が42歳で死去し、ほかに男子がいなかったために、世嗣ぎを巡る騒動が起きた。この騒動は幕府にも聞こえ、大老酒井忠清の裁決で、光長の弟永見大蔵と家老の荻田主馬が流罪とされた。
綱吉が将軍となると忠清の裁決は片手落ちであるとして、親裁による再審を行い、その結果光長は改易とされ伊予松山藩久松松平家に預けられた。実態は綱吉による忠清に対する対抗であり、この処分を通じて綱吉は将軍独裁体制の確立を意図した。
松平(越前)長矩  播磨姫路15万石
天和2年(1682年)2月10日に越後騒動により改易された松平光長に連座し、8万石を減封されて豊後日田に転封された。連座の理由は、忠清との談合とされる。
松平(越前)近栄  出雲広瀬3万石
天和2年(1682年)2月10日に越後騒動により改易された松平光長に連座し、1万5千石を減封された。連座の理由は、忠清との談合とされる。
酒井忠能  駿河田中4万石
酒井忠清の弟であり、忠清が失脚した際に忠能も逼塞を命ぜられたが、参府して逼塞すべきところを領地で逼塞したのは不届きと咎められた。また藩政もよくなく、不行跡であるとして除封され、彦根藩井伊家に預けられた。元禄3年(1690年)に赦されて2千俵を与えられ、子孫は5千石を得て旗本として存続した。
板倉重種  武蔵岩槻6万石
重種は西の丸老中を勤めていたが、その世嗣ぎを巡り騒動が起きた。もともと重種は叔父の旗本重直の養子であったが、寛文12年(1672年)に病により廃嫡となった兄重良に代って板倉家の嫡子となり、延宝元年(1673年)に封を継いだ。この時に自身の子の重寛を重直の養子としたが、この重寛を自身の嫡子に直そうとした。
一方、兄重良の子重宣を推す一派もあり争いとなった。天和元年(1681年)に重寛の嗣が決まったが、騒動は幕府に知れて免職となり、翌天和2年2月に1万石を減封され、信濃坂木に転封となった。なお、天和3年(1683年)に重寛は3万石で家督を継ぎ、重宣は2万石を与えられて分家した。
本多政利  播磨明石6万石
天和2年(1682年)2月22日に失政や巡見使に対する不届きを理由に、5万石を減封され陸奥岩瀬1万石に転封となった。しかし、その後も所行が改まらず女色に耽り、罪もない侍女を殺害するなど不行跡を重ね、元禄6年(1693年)6月13日に除封となった。
本多利長  遠江横須賀5万石
天和2年(1682年)2月21日に失政を理由に4万石を減封され、出羽村山郡内1万石に転封となった。
稲葉正休  美濃青野1万2千石
貞享元年(1684年)8月28日に、城中において大老堀田正俊を刺殺し、その場で老中らによって殺された。この事件は裏で綱吉が糸を引いていたとの説もあり、正休が刃傷に至った理由は私怨とされるものの不明である。
松平(能見)重治  上総佐貫1万5千石
貞享元年(1684年)11月10日に卑賤の者と通じ、書を贈るなどしたことを咎められて改易され、会津松平家に預けられた。
松平(越前)綱昌  越前福井47万5千石
貞享3年(1686年)閏3月6日に改易された。理由は狂気とされる。綱昌は養父で先代藩主である昌親と不和であったといい、これが狂気の原因ともいわれる。綱昌の改易により隠居していた昌親が吉品と改名して再び藩主となったが、25万石に減封された。
堀田正英  常陸北条1万3千石
元禄元年(1688年)7月3日に51歳で没したが、その遺領を二男と三男に分知することを願った。しかし長男には相続を願わず、これが不法とされ8千石を減封された。長男正親は陸奥福島藩堀田家に預けられ、二男正矩に3千石、三男正章に2千石が与えられた。
喜多見重政  武蔵喜多見2万石
代々旗本であったが、綱吉の側小姓となり天和3年(1683年)に諸侯に列した。しかし元禄2年(1689年)2月2日に勤務怠慢であるとして綱吉の勘気を受け除封され、伊勢桑名藩久松松平家に預けられた。
坂本重治  上野国内1万石
代々の旗本であり、天和元年(1681年)に大目付となった。翌天和2年に寺社奉行に抜擢され加増を得て諸侯に列したが、貞享4年(1687年)に勤務怠慢であるとして綱吉の勘気を受け、7800石を減封され逼塞となり、大名ではなくなった。
本多忠周  三河足助1万石
5千石を知行する旗本であったが、天和3年(1683年)に寺社奉行に抜擢され加増を得て諸侯に列した。貞享4年(1687年)に勤務不良として綱吉の勘気を受け、免職のうえ逼塞を命じられた。元禄2年(1689年)6月4日に逼塞を赦されたが、3千石を減封され大名ではなくなった。
鳥居忠則  信濃高遠3万200石
元録2年(1689年)6月に馬場先門番を命じられたが、家臣が勤番中に旗本屋敷を覗き閉門となり、翌7月23日に44歳で没した。忠則の死は自殺であるとされるが閉門中の死去のうえ、家臣も取調べ中に自害し、日頃の不行跡も咎められて2万200石を減封され、子の忠英に相続が許された。忠英は能登下村に転封となった。
松平(奥平)忠弘  陸奥白河15万石
元禄5年(1692年)7月21日に家臣間の対立から騒動となり、家臣の多くが出奔した。家臣不統制を咎められて5万石を減封され、出羽山形に転封となった。
松平(藤井)忠之  下総古河8万石
元禄6年(1693年)11月25日に発狂を理由に除封された。1万石で別家していた弟信通に2万石が加増され、家名相続が認められた。預けられた陽明学者熊山蕃山に師事したことが問題視されたことが背景にあるとされる。
西郷寿員  下野上田1万石
綱吉の小姓であったが、元禄6年(1693年)11月13日に勤務不良を理由に中奥小姓に移された。しかし態度が改まらず、同年12月9日に5千石を減封され旗本とされた。
本多重益  越前丸岡4万3300石
岡崎三奉行のひとり本多作左衛門重次の後裔で、失政や非道を咎められて、元禄8年(1695年)3月22日に除封され、因幡鳥取藩池田家に預けられた。
重益は典型的な暗君であったようで、政治は家老に任せきりで一切顧みず、日夜歓楽に耽ったという。そのため奸臣が不正に走って政治を私し、騒動となり一時は重益は家臣に押込められた。その後に復帰したが、押込をはたらいた家臣に対する処罰として、絶食させて餓死させるなどの報復を行ったという。
小笠原長胤  豊前中津8万石
元禄11年(1698年)7月27日に失政、不行跡を咎められ豊前小倉藩小笠原家に預けられた。先祖の功を考慮され、弟長円に4万石減封のうえ4万石で相続が認められた。
伊丹勝守  甲斐徳美1万石
元禄11年(1698年)9月15日に発狂して自殺し、除封された。
丹羽氏音  美濃岩村1万9千石
用人の山村瀬兵衛が専横をはかり、家臣が山村派と反山村派に分かれて対立し騒動となった。これを咎められて9千石を減封され閉門となり、越後国内に転封となった。
松平(久松)忠充  伊勢長島1万石
元禄15年(1702年)8月15日に重臣3名に切腹を命じ、その子の4人を死罪としたが、これが狂気によるものとされ除封された。しかし名門の家であることから二男康顕に5千石、三男尚慶に千石が与えられ旗本となった。
井伊直朝  遠江掛川3万5千石
宝永2年(1705年)に病と称して参勤しなかったことから、大目付が派遣され病状を糾したところ狂気とされ、除封となった。養子直矩に越後与板で2万石が与えられ家名相続が許された。

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