歴史の勉強

五、綱吉期の大名政策

四代将軍家綱の初政は集団指導体制にならざるを得ず、文治主義への政策転換が行われた。その結果として大名の固定化、定着化が行われ、これにより家格が固定することで序列化が起き、身分制度の確立につながった。
一方、幕閣においては集団指導体制でスタートしたものの、やがてそのメンバーは次々と幕閣を去り、替って家綱側近層が幕府首脳となった。なかで最も早く幕閣入りした門閥系大名の酒井忠清に権力が集中することとなり、家綱が病弱で政務にも不熱心であったことも手伝って、やがて忠清は「下馬将軍」とまで言われるほど権勢をほしいままにした。
延宝8年(1680年)に家綱が危篤となり、男子がいなかったために世嗣が大きな問題となった。このとき権力者の忠清は鎌倉の故事にならい有栖川宮幸仁親王を迎えて、宮将軍を立てようとしたが、水戸光圀や老中堀田正俊が家綱の弟綱吉の擁立に動き、ここに綱吉が五代将軍として登場することになった。江戸幕府最初の養子将軍であった。

綱吉時代は、その就任経緯による酒井忠清の罷免と堀田正俊の大老就任からはじまり、正俊の厳正というより峻厳な態度が綱吉の性格とも相容れて、「天和の治」といわれる政治が行われた。このなかで綱吉がもっとも腐心したのは、将軍権力の強化というよりも独裁体制の確立であった。
綱吉には偏執狂的なところがあって、その初政において越後騒動を再審親裁し松平光長を改易したのも、憎き忠清に対する意趣返しといえる。綱吉の将軍就任を拒んだ忠清の裁いた越後騒動の裁決を全面否定することで、自身の権威の確立を図ったのであった。
ともあれ綱吉時代の前期は綱紀粛正、賞罰厳明、倹約奨励を基本に大名や旗本に厳正な態度で臨み、それが将軍権力の強化につながる緊縮型の政治が行われた。それが「天和の治」であった。
ところが正俊と綱吉の間は、その後しっくりといかなくなり、貞享元年(1684年)に正俊は若年寄稲葉正休によって刺殺される。この事件を契機として、綱吉時代後期の政治は前期と対照的となる。側用人政治が行われ、寵臣柳沢吉保が台頭した。「生類憐みの令」に極まる悪政が行われ、綱吉の偏執狂的な性格は、ますます頑なになっていった。元禄期における大事件である浅野長矩の吉良義央への刃傷の裁決をみても、それは明らかである。

家綱の時代に大きく減少した大名の改易は、綱吉の時代には再び増加した。外様大名は17名が改易され没収高42万石、一門・譜代大名では28名が改易となり、その没収高は123万700石におよんだ。特に一門・譜代大名において改易の増加が顕著である。
改易外様大名17名のうち、無嗣など族姓的理由によるものは4名で、家綱時代に打ち出された末期養子制緩和が改易数減少に有効となっている。残り13名が法律的理由であった。このなかで元禄14年(1701年)の浅野長矩(播磨赤穂5万石)による吉良義央への刃傷は、あまりにも有名である。江戸城中において刃傷に及んだ浅野長矩は、問答無用で即日切腹となった。いかにも綱吉らしい措置だが、元禄2年(1689年)8月に改易された山内豊明(土佐中村3万石)の改易も綱吉らしい。豊明は土佐藩山内家の支藩主であり外様大名であったが、若年寄に任ぜられた。ところが大病をしたばかりであり、大切な務めに支障をきたしては申し訳ないと、若年寄就任を断ったのである。これが綱吉の勘気に触れて、逼塞となった。さらに2万7千石減封され申し渡しがあったが、返答をしなかったために上意拒否とみなされ除封された。
なお、改易人数に対して没収高が少ないのは豊明のように支藩の大名や長矩のような小大名が多いからで、10万石を超える大名の改易は美作津山の森長成(16万7800石、発狂により改易)1名に過ぎない。

次に一門・譜代大名に対する改易策であるが、まず最初にあげなければならないのが先にもふれた松平光長の改易である。光長は秀忠時代に改易された越前松平宗家二代の松平忠直の嫡男で、名門ということもあって光長は越後高田25万石に減転封された。延宝2年(1674年)に光長の嫡子であった綱賢42歳で死去し、他に男子がいなかったことから世嗣をめぐる騒動が起きた。
俗説では家老小栗美作が自身の子を光長の養子として主家の横領を企てたが、光長の弟の永見大蔵が家老の荻田主馬と結んで美作失脚に動く。これが幕府に聞こえて、時の大老酒井忠清の裁決により、永見、荻田が流罪となった。ところが、これが美作の言い分のみを聞いた片手落ちの裁決であるとして綱吉が再審、親裁をし小栗美作は切腹、永見、荻田は八丈島に遠島、光長は改易とした。いわゆる越後騒動であるが、世嗣争いはあったが、主たる原因は藩政をめぐる対立であり、綱吉の親裁も忠清に対する対抗の意味合いが強いし、綱吉の最大の目的は厳罰主義の方針の明示と将軍独裁体制の確立にあった。その意味で秀忠時代の松平忠輝や家光時代の徳川忠長に対する改易と同様の意義をもつものである。また、これに連座する形で越前家の松平直矩を播磨姫路15万石から豊後日田7万石に減転封、松平近栄(出雲広瀬3万石)を1万5千石に減封した。
ついで貞享3年(1686年)には越前福井の松平綱昌(47万5千石)を改易した。理由は狂気とされるが、福井藩松平家も家督を巡る騒動が絶えず、綱昌も養父で先代藩主の昌親と不和であったという。福井藩は綱昌改易によって隠居した昌親が吉品と改名して再封したが25万石に減封された。家康二男秀康にはじまる名門越前松平家も相次ぐゴタゴタで、福井藩がわずか25万石、嫡流の光長は所領没収となってしまった。なお、光長は伊予松山の松平定直預けられたあとに赦されて3万俵を賜り、養子矩栄は元禄11年(1698年)に加増されて美作津山10万石の大名となった。
越後騒動再審より前に、四代将軍家綱の法会が増上寺で行われたが、その席でも事件があった。志摩鳥羽3万5千石の内藤忠勝が乱心し、丹後宮津7万3600石の永井尚長を殺害したのだ。忠勝は翌日切腹となり内藤家は改易、一方尚長も嗣子がなかったために改易となったが、弟直円に1万石で相続が許された。
また先に記したように大老となった堀田正俊は稲葉正休(美濃青野1万2千石)に斬り付けられて殺されたが、正休も近くにいた老中らに斬られて改易となった。
綱吉時代に改易された一門・譜代大名28名のうち無嗣断絶は水野勝岑(備後福山10万1千石)のみで、外様大名同様に末期養子制緩和の影響が顕著である。
したがって残り27名が法律的理由によって改易され、うち5名が勤仕怠慢と発狂である。御家騒動では松平光長のほか、陸奥白河15万石の松平(奥平)忠弘と美濃岩村1万9千石の丹羽氏音の計3名、これに光長連座の2名を加えると5名、また刃傷により内藤忠勝と稲葉正休の2名などとなっている。これは前代までと大きく異なっていて、とくに綱吉の性格から来る怠慢を理由とする改易や失政、内訌などに対し厳しい姿勢、将軍独裁を推進強化する方針などが大きく影響している。発狂も綱吉を怖れるあまり、緊張から精神が耐えられなくなって乱心に及ぶというケースもあったのではないだろうか。

続いて転封政策であるが、まず外様大名について家光時代までにほぼ配置が完了しており、家綱時代よりは若干多いものの10名に過ぎず、最大でも仙石政明の5万8千石(信濃上田→但馬出石)であり、小大名中心である。
また有馬氏は日向延岡→越後糸魚川→越前丸岡、金森氏は飛騨高山→出羽上山→美濃郡上と2回転封されている。金森氏の転封により飛騨は幕領となったほか、有馬氏転封の後の延岡には譜代の三浦明敬が入り、南九州では初めて譜代大名が配置された。一方、有馬氏は越後、越前と譜代大名が配置されるべき地に、外様ながら配置されている。
また、仙石氏は松平(藤井)忠周との交換転封で、譜代と外様の交換という珍しいケースであった。仙石氏、松平藤井氏とも新封地で定着している。
これらに対し譜代大名の転封は家綱時代に続いて幕府要職への就退任に伴う行政的な転封とともに、改易に伴う転封が多くなっている。
このほかに交換転封や取立に伴う転封など、綱吉時代は譜代大名の転封が激しく、多くの地で領主交代がみられたが、一方で定着化つまり転封後にその地で定着する大名も多くみられた。比較的転封の多い関東でも相模小田原(大久保氏)、常陸土浦(土屋氏)、下総結城(水野氏)、上総大多喜(松平大河内氏)などで定着をみている。

また新規に取立てられたのは一門では尾張家より2家(光友二男義行と三男義昌)、水戸家より1家(頼房七男頼雄)、紀伊家より2家(光貞三男頼職と四男頼方=のちの八代将軍吉宗)の5家が御連枝となり、家綱時代の4家と合せて御連枝は9家となった。
譜代大名では分知により8名が新たに大名となったのに対し、新知により23名が大名に取立てられている。新知取立は家綱時代が3名であったのに比べて大きく増加している。とくに本庄氏(宗資系、宗長系、道章系の3家)は綱吉生母の桂昌院の同族で、桂昌院の弟の宗資系本庄氏には松平姓が与えられている。また、柳沢吉保は綱吉の勘定頭であったが、綱吉の将軍就任後はその寵愛を受けて出世して譜代大名となり、最終的には15万石の国持大名となり甲府に配置された。このほかに柳沢氏ほどではないが、坂本重治は570石から、米倉昌尹は400石からそれぞれ加増されて譜代大名となっている。このあたりにもいかにも綱吉らしい特色が現れている。

まとめ

(一)綱吉は徳川幕府初の養子将軍であり、その就任経緯から将軍独裁専制体制の確立を強烈に意識して、就任直後に越後騒動の再審親裁を行った。これにより一門の松平光長を改易に処し、権力確立を図った。

(ニ)家綱時代に末期養子制が緩和されたことによって族姓的理由による改易は少なくなったが、一方で綱吉の賞罰厳明、綱紀粛正の方針と偏執狂的な性格から法律的理由による改易が大きく増加している。

(三)とくに譜代大名において改易が増加し、行政的転封と合せて譜代大名の転封が多く行われた。一方で定着をみた譜代大名も多かった。

(四)一門・譜代大名で新規取立てが増加したのも綱吉時代の特徴のひとつであった。特に綱吉生母の桂昌院の一族の本庄三家や寵臣であった柳沢吉保など、破格の出世をしたケースもあった。

綱吉期の改易大名(外様)
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