歴史の勉強

家綱期の改易大名 (外様)

族姓的理由

加藤忠広  出羽庄内1万石
寛永9年(1632年)6月に肥後熊本51万5千石を改易された加藤忠広は出羽庄内に流され、堪忍分として1万石を与えられていたが、承応2年(1653年)閏6月6日に53歳で死去した。嫡子光広はすでに死去しており、無嗣断絶となった。
平岡頼資  美濃徳野1万石
承応2年(1653年)正月8日に49歳で死去したが、庶子の長男新十郎と二男市十郎頼重が相続を争い、また頼資に不行跡があったともされ、遺領は収公された。のちに頼重に千石が与えられて旗本として存続した。
杉原重玄  但馬豊岡1万石
正保元年(1644年)10月に死去した杉原重長の甥で、重長は嗣子なかったために無嗣断絶となるところを特に末期養子として重玄に1万石の相続が認められた。しかし重玄は承応2年(1653年)10月14日に無嗣のまま17歳で没し、杉原家は絶家となった。
片桐為次  大和竜田1万石
明暦元年(1655年)11月6日に15歳で没し、嗣子がなく領地は収公されたが、祖先の功により翌明暦2年2月19日に弟且昭に相続が許され3千石を与えられ旗本となった。
日根野吉明  豊後府内2万石
明暦2年(1656年)3月26日に70歳で没した。長男吉雄はすでに死去していたために、甥の吉重の長男高英を末期養子に願った。しかし筋目違いとして家臣が反対し騒動となり、養子は認められずに無嗣として改易除封となった。
山崎治頼  讃岐丸亀4万5千石
治頼は慶安3年(1650年)に父俊家の長男として生まれ、承応元年(1652年)2月にわずか3歳で家督を継いだが、明暦3年(1657年)3月6日に8歳で没し、無嗣断絶となった。
生駒高俊  出羽矢島1万石
生駒騒動により讃岐高松17万余石を改易され、出羽矢島で堪忍分として1万石を与えられていた高俊は、万治2年(1659年)に49歳で没した。遺領は長男高清に8千石、二男俊明に2千石と分封され、高清は交代寄合として、俊明は旗本として存続した。高清の系統は明治元年(1868年)に諸侯に列し、出羽矢島藩を立藩した。
上杉綱勝  出羽米沢30万石
上杉謙信に繋がる出羽米沢藩主綱勝は、寛文2年(1664年)閏5月7日に嗣子なくして急死した。姻戚であった保科正之の計らいにより、高家吉良義央の長男で綱勝の甥にあたる綱憲を養子として相続することを許されたが、領地は15万石に半減された。
池田政直  播磨福本1万石
寛永17年(1640年)に御家騒動により除封され因幡鹿野で堪忍分1万石を得ていた池田輝澄は、寛文2年(1662年)4月18日に死去し、跡を政直が継いだ。
政直は寛文6年(1666年)に播磨福本に転封されたが同年に没し、その遺領は弟政武に7千石、弟政清に3千石と分封されたため大名ではなくなった。
政武の子孫喜通は慶応4年(1868年)に1万500石とされ大名となり福本藩を立藩した。
池田邦照  播磨新宮1万石
寛文10年(1670年)正月28日に13歳で没し、領地は収公されたが弟重教に3千石が与えられ家名相続が許された。
新庄直矩  常陸麻生2万300石
延宝4年(1676年)4月晦日に17歳で没し、末期養子を申請したが、そのときに後見人である直矩の兄である直時に相談せず、筋違いを咎められ除封された。
直時は前麻生藩主で、直矩に家督を譲る際に2万7300石のうち2万300石を譲り、自身は7千石を得て致仕した。直矩の領地のうち3千石が新たに直時に与えられ、直時は1万石となり相続も認められ、再び麻生藩主(1万石)となった。
池田恒行  播磨山崎3万石
延宝6年(1678年)12月27日に没し(没年齢不明)、嗣子がなく無嗣断絶となった。
戸川安風  備中庭瀬2万石
延宝7年(1679年)11月2日に9歳で没し、嗣子がなく領地は収公されたが、同月27日に4千石が弟逵富に与えられ、逵富は旧領と合せ5千石を得て交代寄合として存続した。

法律的理由

一柳直興  伊予西条2万5千石
寛文元年(1661年)正月、皇居造営の助役を命じられた時に、工事の着工時や竣工時に上洛せず、また上洛しても病と称し参内しなかった。ほかにも理由なく参勤交代に遅れたり、領民を惨殺するなど悪政もあり、寛文5年(1665年)7月29日に改易除封され、加賀前田家に預けられた。
京極高国  丹後宮津7万8200石
京極高広の長男として生まれ、承応3年(1654年)4月23日に家督を継いだ。高広と高国の父子は不和で、高広は高国を廃して三男高勝を家督にすることを企んで、高国の親不孝を幕府に訴えた。
これを口実として高国の一族との不和、悪政などを咎められ改易除封とされた。高国は陸奥盛岡藩主南部家に、長男高規は伊勢津藩藤堂家に預けられた。高規はのちに赦されて、元禄3年(1690年)に2千俵を与えられ、子孫は1500石の高家となった。
伊達宗勝  陸奥一関3万石
伊達政宗の十男として生まれ、伊達綱村が2歳で仙台藩主となると後見役となった。しかし藩政を巡って伊達一門と対立し、さらに甥の伊達宗倫と一門の伊達宗重の所領争いが絡んで、伊達騒動と呼ばれる大騒動になった。
宗勝は、寛文11年(1671年)4月3日に伊達騒動の中心人物として改易除封され、土佐山内家に預けられ、その領地は仙台藩に還付された。

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