歴史の勉強

家綱期の改易大名 (一門・譜代)

族姓的理由

北条氏重  遠江掛川3万石
万治元年(1658年)10月1日に嗣子なくして64歳で没し、無嗣断絶となった。末期養子を願ったが、原因は鷹狩りでの落馬であり、家臣が主人の敵として馬を槍で突き殺すという蛮行に及び、これが伝わって養子を赦されなかったという。
松平(能見)重利  下野皆川1万500石
能見松平家の支流で、重利は寛文2年(1662年)12月4日にわずか2歳で父重正の跡を継いだが、寛文5年(1665年)3月24日に7歳で死去し、嗣子がなく絶家となった。
酒井忠解  出羽大山1万石
出羽庄内藩主酒井忠勝の七男で、正保4年(1647年)に新田1万石を分与されて大山藩を立藩したが、寛文8年(1668年)11月28日に嗣子なくして26歳で没した。末期養子を願ったが許されず無嗣断絶となり、領地は庄内藩に還付された。
松平(越前)隆政  出雲母里1万石
隆政は松江藩主松平綱隆の弟で、1万石を分与され母里藩を立藩したが嗣子なくして没し、領地は松江藩に還付された。のちに弟直高が母里藩を継ぎ明治に至った。
土井利久  下総古河10万石
大老土井利勝の孫にあたり、延宝元年(1673年)12月12日に兄利重の末期養子となって家督を継いだが、延宝3年(1675年)閏4月29日に10歳で没した。嗣子がなく改易除封となったが、祖父利勝の功により分家していた兄利益に7万石が与えられ、相続が許された。
土井利直  下総大輪1万石
大老土井利勝の五男で、分家して大輪藩を立藩したが、延宝5年(1677年)3月15日に41歳で没した。一学という子があったが病弱のうえ幼少であったことから、兄利房の二男利良を末期養子にした。この養子の件を一族に相談せずに決めたとして、不法を咎められた。利良には5千石で相続を認められたが大名ではなくなり、その後旗本として存続した。

法律的理由

松平(久松)定政  三河刈谷2万石
慶安4年(1651年)7月9日に幕府に対し書状を提出して、所領の返上による旗本の救済を提起し、剃髪して能登入道不白と号し、江戸市中を托鉢して廻った。幕府では狂気として扱い改易除封とし、兄である伊予松山藩主松平定行に預けた。のちに長男定知に1500俵、三男定清に500俵が与えられ、旗本として取り立てられた。
堀田正信  下総佐倉11万石
家光期の幕府首脳堀田正盛の長男で、正盛が家光に殉死したために家督を継いだ。父正盛の跡を継いで幕閣入りをするものと思っていたが沙汰が無く、万治3年(1660年)10月8日に幕政を批判する書状を提出して無断で帰国した。
この幕法違反により改易除封され、信濃飯田藩脇坂家、のちに若狭小浜藩酒井家、さらに阿波徳島藩蜂須賀家に預けられ、延宝8年(1680年)5月20日に家綱に殉死した。なお、改易の際に長男正休に1万俵が与えられ、天和2年(1682年)には1万石を改めて与えられ大名に復した。
水野元知  上野安中2万石
寛文7年(1667年)5月23日に発狂して妻を傷つけたうえ、自殺未遂を起して改易除封となった。長男元朝に2千俵が与えられ旗本として存続した。
高力高長  肥前島原3万7千石
岡崎三奉行の一人であった高力清長の末裔で、父忠房が寛永15年(1638年)に遠江浜松から肥前島原に移され、島原の乱後の統治を担うことになった。
高長は明暦2年(1656年)に忠房の跡を継いだが、重税を課すなど悪政を布き、寛文8年(1668年)2月27日に改易除封され、仙台藩伊達家に預けられた。長男忠弘も庄内藩酒井家に預けられたが延宝8年(1680年)に赦され、3千石が与えられ旗本となった。
奥平昌能  下野宇都宮11万石
寛文8年(1668年)2月19日に父忠昌が死去したときに、家臣が殉死した。これが殉死を禁じた幕方に違反するために、2万石を減封されて出羽山形に転封となった。この処罰は殉死の禁の徹底のためにとられたものであるが、一説では改易には奥平家重臣間の騒動が絡んでいるともいう。
土屋頼直  上総久留里2万石
直樹ともいう。延宝7年(1679年)8月7日に発狂したうえ、長男逵直を将軍に拝謁させなかったり、日頃から不行跡があったとして改易除封になった。父祖の功を考慮され、逵直に3千石が与えられて相続を許され、旗本として存続した。
堀通周  常陸玉取1万2千石
准譜代大名で、延宝7年(1679年)12月11日に発狂して家臣を殺害し改易となった。実弟利雄に3千石で家督相続が許され、子孫は旗本として存続した。

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