歴史の勉強

四、家綱期の大名政策

三代将軍家光が慶安4年(1651年)4月に死去し、家綱が四代将軍となったが、家綱はまだ11歳であり、老中を中心に一門や元老などによる集団指導体制がとられることとなった。これは家綱が世嗣と定められて西の丸入りし、将来の将軍就任のための体制作りに着手したのが前年の9月のことで、それからわずか半年後の将軍就任となったことで、側近層の形成など家綱体制作りが間に合わなかったことによる。したがって家綱就任の時には家光期からの幕閣首脳であった酒井忠勝、松平(大河内)信綱、阿部忠秋を中心に、家光の遺志によって保科正之が将軍補佐として井伊直孝とともに元老格となり、また正保元年(1644年)以降家綱に付された松平(大給)乗寿が老中に加わった。

こうした体制のもとでスタートした家綱政権の当面の課題は側近体制の強化であり、家綱将軍就任の2年後の承応2年(1653年)には久世広之、内藤忠清、土屋数直、牧野親成が家綱の側衆となった。集団指導体制から新体制へ変化していく過程においては、当然のことながら現状を維持することを第一とし、とにかく平穏に新体制へ移行することが肝要とされた。このために保守的な政権運営となり身分は固定し、それに伴い旗本層を中心に生活が困窮して行き詰まりを感じ、さらに改易された大名の家臣が浪人化して社会不安が醸成されていった。
由井正雪の乱は、このような時に起きた。由井正雪は幕府転覆を謀ったとされるが、真意は幕府の政道を改めさせることにあった。身分制度によって秩序が固定化されていき、そのために生活に行き詰まった旗本ら浪人の不満を代弁したものであり、それは家康・秀忠・家光によって行われた大名の改易や減封、転封など武断政治によって引き起こされたものであるとし、幕政への批判であった。由井正雪の乱は幕閣首脳に衝撃を与え、武断政治から文治政治への政策転換をする契機となった。
慶安4年(1651年)12月には浪人発生の根本のひとつとされた大名改易の大きな比重を占めていた無嗣断絶に関して、末期養子制が認められた。当初は50歳以下の末期養子を許しただけであったが、これにより大名統制策は大きく変化していくことになった。

まず外様大名に対する改易は16名であった。このうちの2名は、家光期に改易され堪忍分として1万石を与えられていた生駒高俊(出羽矢島)、加藤忠広(出羽庄内)が死亡したことによる改易であるから実質は14名に過ぎず、これは家光期の28名、秀忠期の23名、家康期の26名と比べて大幅に減少している。改易理由は無嗣、死亡などの族姓的理由が11名(生駒・加藤を除く)、3名が法律的理由である。
法律的理由によって改易された3名は、京都女院御所造営助役の際に参内せず、また病と称して参勤交代に遅参するなど勤仕怠慢によって一柳直興(伊予西条2万5千石)、父子間の不和から父高広が親不孝を訴えて騒動となった京極高国(丹後宮津7万8200石)、伊達騒動の当事者の一人伊達宗勝(陸奥一関3万石)であった。
また、無嗣により改易された中には出羽米沢の上杉綱勝がいる。綱勝は子がなかったうえに嗣子を定めないまま27歳で急病死したが、姻戚であった保科正之の計らいにより、高家吉良義央の長子三郎をもって継嗣とすることが許された。三郎は綱勝の甥にあたり、綱憲と名乗ったが上杉家は領地を15万石に半減された。
家綱期に改易された外様大名は小大名が多く、5万石を越えているのは上杉綱勝と京極高国だけであり、幕府の収公高は41万9500石に過ぎない。

次に一門・譜代大名に対する改易は12名、准譜代大名1名(堀通周)であった。
一門の改易は松平(久松)定政(三河刈谷2万石)、松平(越前)隆政(出雲母里1万石)の両名であった。隆政は無嗣によるもので、その所領は宗家松江藩の松平綱政に還付された。定政の方は狂気によるものであった。定政は家綱が将軍となった直後の慶安4年7月に、幕閣に対し所領の返上による旗本救済を提起し、能登入道不白と号して江戸市中を托鉢して廻った。幕閣はこれを狂気として扱い定政を改易したが、この事件は不満を持っていた旗本たちを刺激し、この2週間後に由井正雪の乱が起こる。
次に譜代大名で改易となった10名のうち無嗣によるものが5名、残り5名が法律的な理由によるものであった。また准譜代の堀通周(常陸玉取1万2千石)は狂気によるものである。このうち堀田正信(下総佐倉11万石)は万治3年(1660年)10月8日に幕政批判の上書を提出して無断で帰国した幕法違反により、領地を収公された。松平定政に続いての幕政批判であった。また下野宇都宮の奥平昌能は父忠昌が死去した際に家臣が殉死したことを咎められて、2万石を減封のうえ出羽山形に転封された。幕府は家光死去後に殉死を禁じており、それを徹底するためのペナルティ的なものであった。
一門・譜代大名の没収高は30万8500石であり、外様大名の没収高と合せても72万8千石となり、前代家光の代までに比べて大きく減少している。これは外様大大名に対する改易や松平忠輝、松平忠直、徳川忠長のような一門の大大名に対する改易がなかったこと、末期養子の緩和により無嗣断絶が減少したことによる。

改易とともに大名統制の柱であった転封では、外様大名の転封は家綱期には4名しかいない。
京極高和(播磨龍野→讃岐丸亀、6万石)、京極高盛(丹後田辺→但馬豊岡、3万3千石)、池田政直(因幡国内→播磨福本、1万石)、脇坂安政(信濃飯田→播磨龍野、5万3千石)の4名であり、このことは前代の家光時代までに外様大名の配置がほぼ完了していたことの表れであり、以後も幕末まで大規模な転封はなく、外様大名は定着化、固定化していくのである。
一方、譜代大名の転封も改易による幕府収公高の減少により大きく減っているが、豊後においては府内2万石日根野吉明の死亡による改易のあと松平(大給)忠昭が配置され、京極高国改易のあとの丹後宮津には山城淀より永井尚政が、京極高盛転封後の丹後田辺には摂津から牧野親成が移された。出羽米沢で15万石減封された上杉氏の没収地陸奥福島には大和郡山から本多氏が入り陸奥福島藩が成立した。福島は幕末まで譜代大名が配置されるが、棚倉や山形などと同様に福島への転封は左遷の意味合いが強かった。
譜代大名の展開では九州、奥羽で若干の強化をみたほかは丹後のほとんどが譜代大名の領地となった。このほかに家光期に引き続いて、幕府要職への就任や退任に伴う行政的な転封が行われた。

また一門大名として水戸家よりニ家(頼房三男頼元、同四男頼隆)、紀伊家より一家(頼宣二男頼純)が大名に取り立てられ、頼純は3万石を与えられ一柳直興改易後の伊予西条に配置された。御三家の分家は前代家光期に成立した高松松平家と合せて四家となり御連枝と称された。また越前家の松江松平家からは2家が大名に取り立てられ、引き続き一門の拡大強化が図られた。
さらに譜代大名21名が新たに取り立てられたが、家光期は官僚系大名の取り立てが多かったのに対し、家綱期は新知よりも分知、つまり既存大名の分家によって新たに大名となったケースがほとんどであった。純然たる新知により新たに大名となったのは土屋数直、酒井忠挙と米津田盛の3名のみである。土屋数直は家綱側近となった官僚系大名、酒井忠挙は大老酒井忠清の長子で家督前に取り立てられたものであった。また米津田盛は旗本であったが、寛文6年(1666年)に大坂定番就任によって大名に取り立てられた。

このように大名の転封、新たな一門・譜代大名の創出はあったものの全国的に大名の領地は固定化され定着をみた。この結果、領地区画が確定し寛文4年(1664年)に諸大名に対して「寛文朱印状」が一斉に交付された。このことは関ヶ原役により徳川の覇権が確立して以来、戦後処理を経て大名の改易・転封によってつくられた領国体制が完成し、それを確定させる意味を持つものであった。

まとめ

(一)家綱は将軍就任時11歳と幼少であり、まだ側近グループも形成されておらず、家光期からの幕閣首脳による集団指導体制でスタートした。このため保守的、文治的な政治が行われ、その結果武士の身分の固定化を招き、浪人の増加や旗本の困窮化と相俟って、由井正雪の乱など社会不安を招いた。

(ニ)幕府では改易の増加は浪人の増加を招くとして、末期養子制を認めた。

(三)文治政治への転換と末期養子の緩和などにより、外様大名・譜代大名とも改易は大きく減少し、またその結果、転封も著しく減った。一方、家光期に続き幕府要職への就退任に伴う行政的な転封、一門・譜代大名の新たな創出は引続き行われた。

(四)しかしながら家康、秀忠、家光の三代に渡って、大名の改易・転封によってつくられた領国体制は完成し、多くの大名の領地は固定化した。寛文4年(1664年)に諸大名に一斉交付された「寛文朱印状」は領国体制の確立を確認する意味を持つものであった。

家綱期の改易大名(外様)
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