歴史の勉強

家光期の改易大名 (外様)

族姓的理由

最上義俊  近江大森1万石
元和8年(1622年)8月に改易されて近江・三河両国内で1万石を与えられた最上義俊は、寛永8年(1631年)11月22日に26歳で死去した。長男義智はまだ1歳と幼少の為に、5千石を減封されて交代寄合となった。
長谷川守知  美濃長谷川1万石
寛永9年(1632年)11月26日に64歳で没し、子の尚正が跡を継いだが、その際に弟の守勝に3千石を分知し自らは7千石を領した。このために長谷川氏は大名ではなくなった。
堀尾忠晴  出雲松江24万石
豊臣秀吉の三中老の一人であった堀尾吉晴の子忠氏は関ヶ原役で東軍に与し、戦後遠江浜松12万石から出雲・隠岐24万石に加転封された。
忠氏は慶長9年(1632年)に没して長男忠晴が継いだが、翌寛永10年9月20日に嗣子なくして35歳で死去し、無嗣絶家となった。
蒲生忠知  伊予松山24万石
蒲生氏郷の子秀行の二男として生まれ、母は家康の三女振姫。松平姓を与えられ、寛永3年(1626年)出羽上山4万石を領した。翌寛永4年陸奥会津若松60万石を領していた兄忠郷が無嗣で死去したが、その際に20万石を忠知に加増され、忠知は24万石となり伊予松山へ転封となった。しかしその忠知も寛永11年(1634年)8月18日に30歳で無嗣のまま没し、蒲生氏は断絶した。
京極忠高  出雲松江26万4200石
関ヶ原役の際に居城の大津に籠城した京極高次の長男で、慶長14年(1609年)に高次の遺領であった若狭小浜9万2100石を継いだ。寛永11年(1634年)閏7月6日に出雲・隠岐両国を与えられ、26万余石の松江藩主となったが、寛永14年(1637年)6月12日に45歳で死去した。
子が無かったために無嗣断絶となったが、高次の功により弟高政の子高和に播磨龍野6万石が与えられた。その子孫は讃岐丸亀藩主として明治を迎える。
本多政武  大和高取2万5千石
利長ともいう。寛永14年(1637年)7月13日に40歳で嗣子なくして没し、無嗣断絶となった。
片桐孝利  大和竜田4万石
豊臣家の老臣であった片桐且元の二男。元和元年(1615年)に且元の遺領を継いで大和竜田4万石を領していたが、寛永15年(1638年)8月1日に38歳で嗣子がなくして没した。弟為元に相続が認められたが、3万石が減封された。
佐久間安次  信濃飯山3万石
賤ヶ岳の戦いで有名な佐久間盛政の弟安政の孫にあたる。寛永15年(1638年)11月20日に9歳で没し、無嗣断絶となった。
真田熊之助  上野沼田3万石
寛永15年(1638年)12月6日に7歳で没し、無嗣のため遺領は叔父の信政に2万5千石、弟信利に5千石と分割して相続された。
池田長常  備中松山6万5千石
池田信輝の三男信吉を祖とする系統で、父長幸のときに備中松山6万5千石に転封された。長常は寛永9年(1632年)に長幸の死去により藩主となったが、寛永18年(1641年)9月6日に33歳で没し、嗣子が無く断絶した。なお弟長信が千石を与えられ旗本として存続した。
堀直定  越後村上10万石
寛永19年(1642年)3月2日に7歳で没し、無嗣断絶となった。直定は襲封時に3万石を叔父直時に分知したが、直時の系統は越後村松藩主として明治に至っている。
那須資重  下野福原1万4千石
壇ノ浦合戦で有名な那須与一資隆の末裔で、那須において1万4千石を領していたが、寛永19年(1642年)7月25日に34歳で死去し、無嗣の為に領地は収公された。しかし名家の断絶を惜しんだ幕府は、隠居していた父資景に5千石を与えて那須家を存続させた。
一柳直家  播磨小野2万8600石
寛永19年(1642年)5月29日に嗣子なくして44歳で没した。小出吉親の二男直次を末期養子に願い、翌寛永20年3月15日に1万8600を減封のうえ相続が許された。
杉原重長  但馬豊岡2万5千石
正保元年(1644年)10月28日に嗣子なくして29歳で没した。甥の重元(のち重玄)を期養子に願い、重長とその父重房の勤仕を評価されて、翌正保2年閏5月26日に1万5千石を減封のうえ相続が許された。
真田信重  信濃松代新田1万7千石
正保4年(1647年)2月23日に嗣子なくして49歳で没した。所領は父信之に還付された。
織田信勝  丹波柏原3万6千石
慶安3年(1650年)5月17日に嗣子なくして28歳で没し、叔父信当に3千石が与えられ旗本として存続した。但しこれは名跡を相続したものではない。

法律的理由

脇坂安信  美濃国内1万石
寛永9年(1632年)4月4日に、備中松山藩主であった池田長幸が重体となり親族が集められたが、その席に安信は弟安経と出席した。会議の最中に、長幸の弟長頼が刃傷に及び安経が殺害され、安信も軽傷を負った。この事件に連座して同月7日に安信は改易された。
加藤忠広  肥後熊本51万5千石
肥後熊本藩は清正亡き後、重臣が派に分かれて争い家中騒動が絶えず、2度に渡って幕府の裁断を受けていたが、それでも騒動は治まらなかった。
家光は、その初世において将軍権力を確立するため、家臣統制もできない凡庸な藩主である忠広を改易し、併せて豊臣色の強い加藤家を九州から追うことで、九州における譜代大名の進出に繋げた。いってみれば幕府の標的にされた形である。
表向きは忠広が幕府の許可を得ずに子供を帰国させたことや、近年の不行跡が改易の理由とされた。忠広は出羽庄内藩酒井家に預けられ、堪忍分として1万石を与えられた。
竹中重義  豊後府内2万石
重義は寛永6年(1629年)から同10年のあいだ長崎奉行であったが、その在職中に不正があったとされ、寛永11年(1634年)2月22日に除封のうえ長男源三郎とともに切腹させられ、竹中家は絶家となった。
松倉勝家  肥前島原4万石
松倉氏が島原藩主となったのは先代重政のときで、重政は苛政を布き重税と収奪を行った。さらに切支丹の弾圧を強化し、その方針は勝家の代にも引き継がれた。寛永14年(1637年)10月に切支丹農民を捕らえたことから大規模な一揆が起き、ついには島原の乱にまで発展した。乱の鎮圧後に勝家は責を負わされて改易され、寛永15年(1638年)7月19日に死罪となった。
寺沢堅高  肥前唐津12万3千石
寺沢家の父広高の時代に肥前唐津8万3千石を領していた。関ヶ原役では東軍に与し、戦功により天草4万石が加増された。堅高は広高の二男で、寛永10年(1633年)に封を継いだが、寛永15年(1638年)4月12日に前年に起きた島原の乱で天草領の農民も蜂起した責任を負わされて、天草4万石を没収された。
正保4年(1647年)11月18日に堅高は自害し、無嗣であったために絶家となり、唐津領8万3千石も収公された。
池田輝澄  播磨山崎6万3千石
寛永15年(1638年)頃より家老伊木伊織と同小河四郎右衛門の対立が表面化し、寛永17年には伊木とその一党が家族とともに脱藩する騒動となった。
輝澄は病弱でもあり、藩政を司ること不能とされ、改易のうえ因幡鳥取藩池田光仲に預けられ、堪忍分として1万石が与えられた。
生駒高俊  讃岐高松17万1800石
世に生駒騒動と呼ばれるが、国家老生駒帯刀と江戸家老石崎若狭、前野助左衛門が対立。高俊の舅土井利勝や後見の藤堂高次が介入したが、対立は激化し、ついに石崎・前野一派が脱藩した。高俊は一切政治を顧みず、美少年を集めて踊らせるなど酒色に溺れる暗君であり、統治不能とされ改易、出羽矢島に流されて1万石が与えられた。
加藤明成  陸奥会津若松40万石
豊臣大名であった加藤嘉明の長男で、寛永8年(1631年)10月に襲封したが偏執狂的な性格であり、嘉明時代からの重臣堀主水と対立した。主水は寛永16年(1639年)に一族郎党300人を率いて城下を退去したが、明成は執拗に主水を追った。
高野山に入った主水を40万石に替えても貰いたいと申し出、ついにその首を獲ったという。明成は寛永20年(1643年)5月2日に至り、領地返上を願い出て、幕府もこれを受け入れ除封されたが、長男明友に改めて石見吉永で1万石が与えられた。
松下長綱  陸奥三春3万石
寛永4年(1627年)に死去し陸奥二本松を改易された重綱の子で、当時長綱は若年でもあり、また重綱が加増直後に死去したことから、長綱は2万石減封されたうえ陸奥三春に転封された。
正保元年(1644年)4月10日に発狂したとして除封され、土佐高知の山内家に預けられた。のちに二男長光が3千石の旗本に取り立てられた。
池田輝興  播磨赤穂3万5千石
池田輝政の六男で、母は家康の二女督姫。松平姓を与えられ、赤穂藩主となったが、正保2年(1645年)3月15日に妻と侍女2人を殺害し、娘に傷を負わせた。発狂の故とされ、同月20日に除封となり備前岡山藩主池田光政に預けられた。
古田重恒  石見浜田5万5千石
慶安元年(1648年)6月16日に46歳で没し、無嗣のため断絶したが御家騒動によって改易されたという説もある。寵臣山田十右衛門成高が、藩の実権を握るために重恒をそそのかし家老3人を斬殺したが、家臣の西村外記が幕府に訴え、幕府の介入の前に重恒は自害し改易除封されたという。
稲葉紀通  丹波福知山4万5700石
慶安元年(1648年)8月20日に発狂して自殺し、除封となった。処刑された家臣の一族が紀通の謀反のデマを流したり、福知山城の要害化を丹後宮津藩主京極高広ら近隣の大名が紀通に謀反の疑いありと幕府に注進したりし、それらが原因となって自殺したという。

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