歴史の勉強

家光期の改易大名 (一門・譜代)

族姓的理由

菅沼忠隆  美濃加納10万石
寛永9年(1632年)1月5日に25歳で没し、無嗣断絶となった。「寛政重修諸家譜」では、同年に生まれた右京が家督を相続したが、寛永12年(1935年)7月8日に4歳で死去し、無嗣断絶になったとしている。
鳥居忠恒  出羽山形22万石
寛永13年(1636年)7月7日に33歳で没した。忠恒は死に臨んで異母弟忠春がいるにもかかわらず、戸沢家に養子に出した同母弟の定盛を呼び戻して養子にするよう遺言したとされる。これが不法とされて除封されたが、祖先の功を鑑み忠春に信濃高遠で3万200石を与えて相続を許した。
成瀬之虎  下総栗原1万6千石
尾張徳川家の付家老となった成瀬正之の二男之成の嫡子となり、寛永11年(1634年)に1歳で遺領を継いだ。この領地は正之が付家老となる前の領地で、之成が継いだものであった。しかし之虎は寛永15年(1638年)12月2日に、わずか5歳で死去し無嗣断絶となった。
本多犬千代  下野皆川2万8千石
本多正信の三男忠純系の大名で、寛永15年(1638年)に3歳で襲封したが、寛永17年(1640年)5月13日に5歳で死去し、無嗣により絶家となった。
三枝守昌  安房国内1万石
徳川忠長の付家老であった三枝昌吉の子で、父の死後に家督を相続し、忠長の付家老として駿河田中1万石を領した。忠長に連座して改易され陸奥棚倉藩内藤家に預けられたが、寛永13年(1636年)に赦され、寛永15年(1638年)には安房国内で1万石を与えられ諸侯に列した。しかし翌寛永16年に没し、遺領を継いだ嫡男守全は3千石を弟諏訪頼増に分知し、自身は7千石を相続した。このために大名ではなく旗本となった。
加藤明利  陸奥二本松3万石
加藤嘉明の三男で、嘉明が陸奥会津40万石に封ぜられたときに、陸奥三春藩主となって3万石を領し、寛永5年(1628年)に二本松に転じた。
寛永18年(1641年)3月25日に43歳で死去したが、寛永20年(1643年)5月2日になって除封された。長男明勝には改めて3万石が与えられて、相続が許された。死後2年経っての除封は、兄である陸奥会津若松藩主明成に連座したものであろう。なお、明勝は正保2年(1645年)に嗣子なく13歳で没したために絶家となった。
松平(奥平)清道  播磨姫路新田3万石
松平(奥平)忠明のニ男で、正保元年(1644年)5月に父の遺領のうちから新田3万石を分知されたが、同年12月26日に11歳で没し、嗣子なく絶家となった。
皆川成郷  常陸府中1万3千石
祖父皆川広照は松平忠輝の付家老となり、信濃飯山で7万5千石を領したが、家康の勘気を受け改易された。のちに赦されて常陸府中で1万石を与えられたが、成郷の代に無嗣断絶となった。成郷は正保2年(1645年)6月4日に、22歳で死去している。
柳生宗矩  大和柳生1万2500石
将軍家剣術指南役となった宗矩は、大和柳生で1万2千余石を得て諸侯に列したが、正保3年(1646年)に没し、遺領は長男三厳に8300石、二男宗冬に4千石、三男義仙に200石と分割されたため大名ではなくなった。三厳の跡を弟宗冬が継ぎ、加増があって1万石となり諸侯に復している。
松平(久松)忠憲  信濃小諸4万5千石
美濃大垣藩主松平(久松)忠良のニ男で、寛永元年(1624年)6月に5歳で家督を継いだが、幼少の為に信濃小諸に転封となった。正保4年(1647年)8月13日に28歳で死去するが、嗣子がなく除封された。翌正保5年閏正月20日、弟康尚に下野那須で1万石が与えられ相続が許された。
菅沼定昭  丹波亀山3万8千石
正保4年(1647年)9月21日に嗣子なくして23歳で没し、無嗣断絶となったが、翌正保5年閏正月に弟定実に7千石、同定貫に3千石が与えられ、定実系は交代寄合として、定貫系は旗本として存続した。
本多勝行  大和国内4万石
父政勝は播磨国内で4万石を領していたが、寛永16年(1639年)3月に宗家の政朝の跡を継ぎ、大和郡山藩主となった。政勝の長男勝行は大和国内で父の旧領分4万石を与えられたが、慶安3年(1650年)6月11日に16歳で没し、嗣子がなかったために領地は政勝に還付された。

法律的理由

徳川忠長  駿河府中50万石
家光の同母弟で、少年時代から父秀忠と母江与に溺愛され、一時は次期将軍と取りざたされた。しかし春日局が家康に直訴して三代将軍は家光となり、忠長は駿遠甲50万石に封じられる。
忠長は将軍直弟であることを背景に我儘な振る舞いが多く、秀忠没後に家光は不行跡などを理由として、寛永8年(1631年)4月に甲府に蟄居させ、翌寛永9年10月に上野高崎藩主安藤重長に預けたうえ除封とした。
子供の頃からライバルであった忠長に対しての家光のコンプレックスが、秀忠の死とともにこれらの行動を起させたのであろう。家光の忠長に対する想いは憎悪に近く、寛永10年(1633年)11月には自害を強要し、忠長は12月6日に高崎で自害した。
鳥居忠房  甲斐谷村3万5千石
徳川忠長の付家老であったために、忠長に連座して寛永9年(1612年)11月16日に改易された。のちに弟忠春に2千俵が与えられ旗本として存続した。
朝倉宣正  遠江掛川2万6千石
徳川忠長の付家老であったために、忠長に連座して寛永9年(1612年)9月に改易された。のちに嫡孫宣成に300俵が与えられた。
三枝守昌  駿河田中1万5千石
徳川忠長の付家老であったために、忠長に連座して改易された。のちに赦されて寛永15年(1638年)には安房国内で1万石を与えられ諸侯に列した。
屋代忠正  甲斐国内1万石
徳川忠長の付家老であったために、忠長に連座して改易された。のちに赦されて寛永15年(1638年)には安房北条で1万石を与えられ諸侯に列した。
有馬頼次  甲斐国内1万石
徳川忠長の付家老であったために、忠長に連座して改易された。外孫吉政が紀伊徳川家に仕え、その子氏倫が吉宗の側衆となり、吉宗の将軍就任後に伊勢で1万石を与えられ諸侯に列した。
酒井重澄  下総生実2万5千石
飛騨高山藩主金森可重の七男で、家光の小姓となった。家光の命で幕閣の権力者酒井忠勝の家名を称することとなり酒井を名乗る。
家光の寵臣であったが病気と称して出仕せず、その間に酒色に耽っていたとされ、寛永10年(1633年)5月13日に勤仕怠慢として除封され、備後福山藩水野氏に預けられた。寛永19年(1642年)9月29日に自害した。
長男重知も重澄に連座して飛騨高山金森氏に預けられたが、承応2年(1653年)に赦され、2千俵を与えられ旗本として存続した。
内藤信広  上総国内1万5千石
上総・安房・上野国内で5千石を領する旗本であったが、慶安元年(1648年)6月26日に大坂定番に任じられ1万石の加増を受けて諸侯に列した。しかし配下の与力が切支丹であることが発覚し、責任を負わされて7千石を減封され旗本とされた。

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