歴史の勉強

三、家光期の大名政策

大御所として西の丸にあった秀忠が、寛永9年(1632年)正月24日に死去し、「生まれながらの将軍」家光の登場となった。家光は将軍権力を背景として将軍独裁体制を強化するが、その基本となったのは家康・秀忠による大名政策であり、それを発展させることによって、江戸時代という長期独裁封建体制の基盤を確立したのである。

家光は、その初世において加藤忠広と徳川忠長を改易した。忠広はいうまでもなく名将加藤清正の子で、肥後熊本51万5千石を領していた。しかしカリスマ的な清正が生存中はワンマン体制を布いていたために、藩内の政治機構が整わず、清正没後は御家騒動が絶えなかった。2度に渡って幕府の裁断を受けていたが、それでも騒動が治まらず、家光はその初世に改易をもって決着をつけた。巷間、忠長と結んでの謀反説などもあるが俗説であり、生まれながらの将軍権力を行使して施政方針を示すための標的とされたものに他ならない。もっとも加藤忠広も家臣の統制ができない凡庸な君主であり、また加等家が豊臣色の強い家であったこと、さらに譜代大名の進出がなされていなかった九州に位置したことなどが、改易の標的とされたと思われる。加藤家改易後の熊本には、外様大名ながら幕府との関係が良好な細川忠利が豊前小倉から入り、細川氏の旧領小倉には譜代大名である小笠原忠真が入って定着した。

加藤忠広の改易の4ヶ月後には、駿河大納言とよばれた徳川忠長が改易された。忠長は家光の同母弟であり、少年時代は家光に比べて明朗闊達であり、そのためか母の於江与と父である将軍秀忠に溺愛された。一時は三代将軍ともみられたが、この状況に危機感を抱いた家光の乳母春日局が幕閣実力者の土井利勝や家康に訴えたことで、三代将軍は家光と決まった。将軍位は決着が着いたが、家光、忠長双方に生じたライバル意識は消えず、家光にとっては忠長の存在自体が許しがたくなっていった。一方、忠長は父母の溺愛もあって我儘で傲慢に育ち、その振る舞いは目に余るものであった。それでも秀忠の生存中は家光も手を出すわけにはいかなかったが、秀忠没後は遠慮することもなく、付家老の鳥居忠房、朝倉宣正ともどお改易処分とした。家光の忠長に対する思いは憎悪に近いものがあり、改易しただけでは飽き足らず、配所の高崎で自害させている。忠長改易後、その所領であった駿河・遠江・甲斐は、駿河はいくつかの小藩が置かれたが基本的には幕末まで天領となり、駿府には城代が置かれた。遠江は譜代大名により分割統治され、甲斐は五代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保が一時的に領有した時期を除き、天領や徳川一門領であった。

家光期の外様大名の改易は、加藤忠広を皮切りに28名に及んだ。このうち無嗣断絶や死亡などの族姓的理由によるものが過半の16名を占める。次に多いのが御家騒動が絡むもので、生駒高俊(讃岐高松171,800石)、池田輝澄(備中松山6万5千石)、加藤明成(陸奥会津若松40万石)、古田重恒(石見浜田5万5千石)の4名が改易された。
このうち生駒高俊の改易は、暗君が政治を顧みないことから江戸と国許の重臣が争い騒動となったもので、生駒騒動として知られる。
加藤明成は豊臣系大名ながら家を保った加藤嘉明の子で、先代嘉明時代からの重臣堀主水と争い、騒動に及んだものである。堀主水は明成のもとを出奔して高野山に逃げ込んだが、偏執狂的な性格の明成はこれを執拗に追い、最後は40万石と引き換えても主水の首を欲しいとまで言い出し、主水の首は獲ったものの、家政不行き届きにより改易となった。
また苛政により島原天草一揆の原因を作った肥前島原4万石の松倉勝家と、肥前唐津12万3千石の寺沢堅高も改易された。松倉勝家は死を賜り、寺沢堅高は天草4万石を没収されたが、のちに発狂して自殺している。
残り6名のうち3名は発狂(陸奥三春3万石の松下長綱、播磨赤穂3万5千石の池田輝興、丹波福知山4万5700石の稲葉紀通)であり、3名は法律違反や連座である。加藤忠広も表向きの理由は、許可なく子供を帰国させたことで、法律違反とされる。
これら外様大名の改易による没収高は251万3千石に上った。

徳川忠長を皮切りにした一門・譜代大名に対する改易は、忠長とその付家老や忠長の一門6名のほか13名と准譜代大名が1名であった。准譜代の加藤明利(陸奥二本松3万石)を含めて無嗣断絶が9名、死亡が3名と圧倒的に族姓的理由が多く、ほかの2名は勤仕怠慢(下総生実2万5千石の酒井重澄)と家臣の切支丹発覚(上総・安房国内1万5千石の内藤信広)であった。
一門・譜代大名の改易に伴う没収高は106万9800石となる。

家光期の大名の転封は、肥後熊本の加藤忠広の改易によりはじまった。先に書いたように熊本には細川氏が豊前小倉から移され、豊前小倉には播磨明石から小笠原忠真が、豊前中津には播磨龍野から小笠原長次が、豊後杵築には小笠原忠知が新たに大名に取り立てられて配置された。また、島原天草一揆により改易された松倉氏の跡には高力忠房が、さらに一揆により天草を没収され正保4年(1647年)に発狂自殺した寺沢氏の跡には大久保忠職が入封し、両地とも幕末まで譜代大名領となる。
四国では騒動により改易された讃岐高松の生駒氏の跡には御三家の一つ水戸徳川家の祖頼房の長男頼重(光圀の兄)が入封し、高松松平家が成立して定着した。一方、伊予松山の蒲生忠知が無嗣断絶となると、その跡には伊勢桑名から久松松平氏が移り定着する。
中国地方では寛永10年(1633年)に出雲松江24万石の堀尾忠晴が無嗣断絶、跡には若狭小浜から京極忠高が26万4200石で移されたが京極氏も寛永14年(1637年)に無嗣断絶となる。その跡には越前松平家の松平直政が移されて松江松平家が成立定着した。
一方で京極氏転出の跡の若狭小浜には老中酒井忠勝が転封され若狭一国を領し、酒井氏もここで定着する。また志摩鳥羽の九鬼氏は御家騒動により所領が分割されたうえで摂津三田、丹波綾部に移され、鳥羽には譜代の内藤氏が入り志摩国は明治まで譜代大名領となった。
奥羽地方では陸奥会津若松の加藤氏改易により会津には家光の異母弟保科正之が配置され、この後松平姓を賜り、会津松平家が成立定着をみた。二本松には白河から外様大名丹羽光重が、白河には上野館林から榊原忠次が転封され、丹羽氏は二本松で定着した。

さて家光期の大きな特徴は徳川一門の強化と譜代大名の創出である。
徳川一門では直弟忠長は初期に改易されたが、最後期にはニ男綱重(甲府徳川家)、四男綱吉(館林徳川家)を大名に取り立てたほか、越前松平家より昌勝と昌親を、水戸徳川家より頼重を、それぞれ分封させた。また自身の末弟保科正之を一門とし会津に封じて会津松平家を成立させた。さらに久松松平家からも定房と定政を大名に取り立て、一門大名は会津、高松、松山、松江に配置定着することとなった。
次に譜代大名では酒井、内藤、牧野、石川、阿部、土井、奥平松平などに分封によって分家が成立したほか、永井、井上、能見松平、伊丹、太田、朽木、柳生、内田、植村、増山、久世氏などが加増されて新たに譜代大名に取り立てられた。寛永9年(1632年)から慶安4年(1651年)までの家光期に新たに大名となった一門は8名(甲府、館林、会津、水戸家一家、久松家ニ家、越前家ニ家)、譜代大名は32名に及び、そのほかに准譜代として堀直景が大名に取り立てられている。

これらは家光の時代に、整備がほぼ完了した幕政機構とも密接に関連する。
幕閣の中心となる老中、若年寄とそれに連なる官僚機構が整備されたのは家光期であり、その整備の過程では家光の側近であった新官僚ともいうべき世代が、中心的な役割をはたした。
幕府草創期における個人的信頼関係では、既に複雑化・肥大化した組織は運営できなくなり、側近官僚は新譜代ともいうべき層となり、旧来からの門閥譜代とともに幕政を運営していくようになったのである。
しばらくして譜代大名は領主的大名と官僚的大名に大きく分かれ、前者は三河以来の門閥系大名、後者は主として新譜代大名が紐付くようになっていった。
この幕政機構の整備によって、幕閣首脳入りした譜代大名は、江戸周辺に集中的に配置されることとなった。つまり老中、若年寄などに就任すると武蔵川越、同岩槻、同忍、下総古河、同佐倉、同関宿などに配置され、役職から離れることにより遠隔地へ移された。これは大坂城代、京都所司代に就任した場合も同様で、大坂・京都周辺に所領を与えられることとなった。
このため次の家綱期以降は外様大名の転封は大きく減少していくが、官僚系譜代大名は比較的頻繁に転封されることとなっていくのである。

まとめ

(一)家光は秀忠の死去により二元政治が解消されると、肥後熊本の加藤忠広を改易して、「生まれながらの将軍」として権威の確立に努め、次いで直弟の駿河大納言忠長を改易のうえ自害させ、将軍独裁体制の強化を図った。

(ニ)さらに家光は、御家騒動により讃岐高松の生駒高俊、陸奥会津の加藤明成を改易、また伊予松山の蒲生忠知、出雲松江の堀尾吉晴、同京極忠高など無嗣によって改易となった各地に積極的に譜代大名を配置した。

(三)幕府機構が複雑化、肥大化することにより、従来からの個人的信頼関係では幕政の運営が不可能となり、新たに側近層を中心とした官僚系大名が誕生した。家光期で外様大名の配置はほぼ完了をみて以後の転封は減少するが、官僚系譜代大名については比較的頻繁に転封が行われる。すなわち、幕閣首脳に就任すると江戸周辺に配置され、離任によって遠隔地に移されるというパターンがうまれた。

(四)また家光は、直弟忠長は改易したが、異母弟保科正之を大名として会津に配置するなど、一門大名8名を創出して、徳川一門の強化拡大を図った。

家光期の改易大名(外様)
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