歴史の勉強

秀忠期の改易大名 (外様)

族姓的理由

成田長忠  下野烏山3万7千石
元和2年(1616年)12月18日に死去したが長男長邦は既に死去しており、嫡孫房長は2歳と幼少であった。このため二男氏宗に相続が認められが、2万7千石が減封された。
近藤政成  信濃国内1万石
元和4年(1618年)6月22日に31歳で没したが、長男重直は7歳と幼少であったため5千石を減封され旗本となった。
市橋長勝  越後三条4万1300千石
元和6年(1620年)3月17日に64歳で死去した。無嗣のために所領は没収されたが、長勝の老中宛の必死の嘆願書等による工作や家康の信任篤かったことなどから、特に甥の長政に相続が認められて、近江仁正寺2万石が改めて与えられた。
田中忠政  筑後柳河32万5千石
天正13年(1585年)に田中吉政の四男として生まれた吉政は、関ヶ原役で東軍に属し石田三成を捕らえた。戦後に論功行賞で三河岡崎10万石から筑後柳河32万5千石に転封され、慶長14年(1609年)に死去した。
跡を忠政が継いだが、元和6年(1620年)8月7日に36歳で死去し嗣子がなかったために絶家となったが、兄吉興に近江、三河、上野のうちで2万石が与えられた。
織田長益  大和国内1万石
有楽斎として有名な織田長益は信長の末弟で、大和山辺郡内に隠居領1万石を得ていたが、元和7年(1621年)12月に死去し領地は収公された。
里見忠義  伯耆田中3万石
家康時代に安房館山から伯耆倉吉に減転封された里見忠義は、その後因伯両国が池田光政に与えられると領地を収公され、光政に預けられて伯耆下田中村に住した。名目上は3万石が与えられたが、実際は配流の身であった。そして元和8年(1622年)6月19日に29歳で嗣子なくして死去し、絶家となった。
成田氏宗  下野烏山1万石
元和2年(1616年)12月に死去した成田長忠のニ男で、長忠の遺領のうち1万石の相続を認められたが元和8年(1622年)11月7日に急死した。長忠の嫡孫房長が相続を願ったが許されず絶家となった。
西尾嘉教  美濃揖斐2万5千石
元和元年(1615年)に先代光教の遺領を継いだが、元和9年(1623年)4月2日に嗣子がないまま34歳で没し、絶家となった。
一説に嘉教の死を前に養子縁組を進めたが、舅内藤政長が反対して御家騒動になり、嗣子を決められないまま嘉教が死去したともいい、また嘉教の死は乱心のうえの狂死であったともいう。
仁賀保挙誠  出羽仁賀保1万石
寛永2年(1625年)に挙誠が没し、その子良俊は弟の誠政、誠次に分知し自らは7千石を領し、仁賀保氏は大名ではなくなった。
滝川正利  常陸片野2万石
滝川雄利は関ヶ原役で西軍に属したために伊賀神戸2万石を没収されたが、慶長8年(1603年)に常陸片野2万石をあらためて与えられ、慶長15年(1610年)に88歳で没した。
その跡を長男正利が継いだが、寛永2年(1625年)に多病を理由に領地返上を願い、1万8千石を収公され旗本となった。
蒲生忠郷  陸奥会津若松60万石
蒲生忠郷の母は家康の三女振姫であり、慶長17年(1612年)5月に父秀行が死去し10歳で遺領を継ぎ、松平姓を与えられが、寛永4年(1627年)正月4日に25歳の若さで病死した。嗣子がなく領地は収公されたが、同母弟の忠知に20万石が加増された。忠知は出羽上山4万石の領主であったが、旧領と合せて24万石とされ伊予松山に転封された。
松下重綱  陸奥二本松5万石
大坂の陣の功績により2万800石に加増され、元和9年(1623年)に下野烏山藩主、さらに寛永4年(1627年)に5万石となり陸奥二本松藩主とされたが、入封直後の同年10月2日に49歳で没した。
その子の長綱は18歳で要地ニ本松を守るには幼すぎ、また加増直後の死去でもあり、2万石を減封され陸奥三春に移された。
桑山貞晴  大和御所2万6380石
桑山重晴の二男として生まれた桑山元晴は、父から分知を受け1万石を得、その後父の遺領や慶長14年(1609年)に改易された兄清晴の領地も加えられ、都合2万6千余石を領した。
元和6年(1620年)に元晴が死去し貞晴が継いだが、寛永6年(1629年)9月29日に、26歳の若さで死去した。嗣子がなかったために、臨終の際に弟栄晴に家督相続を願ったが認められず、無嗣断絶により領地は収公された。その後、栄晴には名跡相続が認められ、500俵を給されて旗本となり、子孫は後に千石の旗本となった。
織田長則  美濃野村1万石
織田有楽斎の子長孝の長男で、美濃野村1万石を領していたが、寛永8年(1631年)7月4日に没し、嗣子がなく絶家となった。
池田政綱  播磨赤穂3万5千石
池田輝政の五男で母は家康の二女督姫。松平姓を与えられ元和元年(1615年)赤穂3万5千石を領したが、寛永8年(1631年)7月29日に26歳で死亡し、無嗣絶家となった。

法律的理由

藤田重信  下野西方1万5千石
信吉ともいう。上杉景勝に仕えていたが、慶長5年(1600年)に景勝が反家康の行動を取ったことで出奔し、家康に景勝の謀反を訴えた。これが上杉討伐にひとつの大きな理由となった。
関ヶ原役後、大名に取り立てられ下野西方1万5千石を与えられたが、元和元年(1615年)12月に大坂の陣での指揮の失敗を咎められて、改易除封となった。
坂崎直盛  石見津和野3万石
直盛は秀忠より、千姫の嫁ぎ先を依頼された。千姫は秀忠の子で豊臣秀頼に嫁していたが、大坂の陣で豊臣家が滅亡した際に救出されたが、この救出劇に直盛が加わったのが、この話の縁だあったともいう。しかし千姫が本多忠刻と婚約してしまったことに立腹し、屋敷に立て籠もり説得にも応じなかった。最後は柳生宗矩が単身乗り込んで説得、直盛は自害したという。この騒動により坂崎家は改易除封となった。
村上義明  越後本庄9万石
元和4年(1618年)に家臣魚住角兵衛が暗殺され、この事件を巡って家臣間の抗争となった。国政の乱れを理由に元和4年(1618年)4月に改易除封となり、丹波篠山藩松平家に預けられた。
関一政  伯耆黒坂5万石
元和4年(1618年)に家中での争論が多発して、国政が治まらないことを理由に改易となった。三男氏盛に5千石が与えられ、子孫は旗本として存続した。
福島正頼  安芸広島49万8220石
豊臣直系の大名であった正則は、関ヶ原役では東軍に属して功を挙げ、戦後行賞によって安芸広島49万8千余石を得た。しかし家康、秀忠からは警戒され、大坂の陣の際も江戸で留守居となった。
豊臣氏滅亡後の元和5年(1619年)に城郭の石垣の無断修理を咎められ、武家諸法度違反により改易、信濃川中島4万5千石に減封されたが、実質的には除封であった。正則は川中島で寛永元年(1624年)7月に死去するが、このときに幕府の検死前に火葬にしたことを理由に領地を収公され、嫡子正利に3千石が与えられた。
最上義俊  出羽山形57万石
出羽の名門であった最上家は、戦国末期に出た義光が近世大名化に成功し、関ヶ原役でも東軍に与して、山形57万石の大大名となった。その孫の義俊のときに家臣が派閥に分かれて争い、互いに相手の非を幕府に訴えた。この騒動に幕府は好意的に対応したが、家臣間の対立が激しく、また義俊も若年であったために、元和8年(1622年)8月18日に改易となり、義俊には近江・三河のうちで1万石が与えられた。
田中吉官  近江国内2万石
元和6年(1620年)に筑後柳河32万5千石の田中吉政は無嗣により改易となったが、兄吉興に2万石が与えられた。その吉興の養子が吉官で、秀忠の小姓となり襲封の翌年の元和9年(1623年)には小姓頭となったが、組子の小姓三宅藤五郎の処罰に連座して勘気を受け改易除封となった。
寛永2年(1625年)に赦されて2千俵を与えられ、のちに5千石、さらに子孫は7千石の旗本となったが、四代後の定安が発狂し500俵となり明治に至った。
徳永昌重  美濃高須5万3700石
寛永5年(1628年)2月28日に大坂城石垣修繕助役工事の遅滞を理由に改易となり、出羽庄内藩酒井家に預けられた。長男昌勝も越後新発田藩溝口家に預けられたが、慶安4年(1648年)に赦されて2千俵を与えられ、その子孫は旗本として存続した。
別所吉治  丹波綾部2万石
病気と称して参勤をせず、封地において狩猟に興じているとの理由で、寛永5年(1628年)2月28日に除封された。子の守治も改易されたが、慶安元年(1648年)に赦されて千俵を与えられ、その子孫は旗本として存続した。

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