歴史の勉強

秀忠期の改易大名 (一門・譜代)

族姓的理由

大久保忠爲  美濃大垣新田1万石
元和2年(1616年)8月9日に死去し、無嗣断絶となった。一説には石川忠総が大垣藩主となった際に、政務を補佐するために大垣に入り1万石を得たもので、立藩したものではないという。
本多正重  下総相馬1万石
本多俊正の四男として生まれ、本多正信の弟にあたる。元和2年(1616年)7月以降に隠居したが、長男、二男とも死去しており外孫正貫を養子としたために2千石を減封され、旗本となった。その後、加増されて大名に返り咲き幕末期には駿河田中4万石を領した。
伊奈忠勝  武蔵小室1万3千石
伊奈忠次の嫡孫にあたり、元和4年(1618年)に武蔵小室1万石を8歳で継いだが、翌元和5年8月16日に死去し、無嗣断絶となった。弟忠隆に名跡の相続が許されて、1180余石が与えられ、子孫は旗本として存続した。
土岐定義  摂津高槻2万石
元和5年(1619年)正月8日に40歳で死去し、長男頼行が12歳で家督を継いだが、若年を理由に1万石を減封された。のちに頼行は加増され出羽上山で2万5千石を領した。
本多紀貞  上野白井1万石
元和9年(1623年)4月26日に44歳で嗣子なくして没し、無嗣断絶となった。
内藤清政  安房勝山3万石
元和9年(1623年)6月26日に21歳で嗣子なくして没し、無嗣断絶となった。寛永3年(1626年)に弟正勝に安房勝山2万石が与えられた。
根津吉直  上野豊岡1万石
根津氏は海野平大夫重道の子孫といい、信濃に住し後に家康に仕えた。慶長7年(1602年)に根津信政が加増を得て上野豊岡で諸侯に列し、吉直はその長男である。幼少で家督を継いだとされるが、寛永3年(1626年)4月に嗣子なくして没し除封された。
本多忠刻  播磨国内10万石
忠刻は平八郎忠勝の嫡系であり、忠勝-忠政-忠刻と続く。秀忠の長女であった千姫が忠刻に再嫁し、そのとき父忠政は姫路15万石を領していたが、忠刻は別に播磨国内で10万石を与えられた。
しかし忠刻は寛永3年(1626年)5月7日に31歳で没し、嗣子が無く10万石は収公され、弟忠義に4万石、甥の小笠原長次に6万石があらためて与えられ、忠義は遠江掛川へ、長次は豊前中津に移された。忠政の跡は二男政朝が継いだ。
松平(能見)重忠  出羽上山4万石
能見松平家の分家である重忠は出羽上山4万石を領していたが、寛永3年(1626年)7月1日に没し、養子重直は1万石を減封され摂津三田に転封された。「廃絶録」によると重忠の死亡後に重直が養子となったためとあるが、養子相続に原因があったと思われる。
内藤正勝  安房勝山2万石
兄清政は安房勝山で3万石を領していたが、元和9年(1623年)に没し無嗣断絶となった。寛永3年(1626年)に、うち2万石があらためて正勝に与えられたが、寛永6年(1629年)8月3日正勝は22歳の若さで死去した。
このとき長男重頼は3歳と幼く、1万5千石を返還し5千石の旗本となった。重頼は後に加増されて3万3千石の大名となり、子孫は信濃高遠藩主として明治に至った。
酒井直次  出羽左沢1万2千石
寛永7年(1630年)3月10日に35歳で嗣子なくして没し、無嗣断絶となった。なお没年については寛永8年説もある。
三浦重勝  近江国内1万3千石
寛永8年(1631年)8月4日に27歳で嗣子なくして没し、無嗣断絶となった。

法律的理由

松平(長沢)忠輝  越後高田60万石
家康の六男で長沢松平家を継ぎ、慶長15年(1610年)閏2月に越後高田60万石に封ぜられたが、元和元年(1615年)に改易配流された。
大坂の陣における怠慢と旗本と喧嘩をしたうえ殺害するという狼藉が表向きの理由であるが、実態は家康没後の体制作りのなかで勇猛かつ無思慮の忠輝が幕府の安定を脅かす存在となるのを怖れたことによるものである。統制政策の犠牲者であったといえる。
本多正純  下野宇都宮15万石
本多正信の長男として生まれ、大御所時代の家康に側近として仕えた。元和2年(1616年)の家康の死去後は秀忠に仕えたが、元和8年(1622年)8月に改易された。
宇都宮城の無断修理が表向きの理由であるが、実際は政争に敗れて失脚したものである。宇都宮釣天井による秀忠暗殺未遂は俗説として有名。
松平(越前亜)忠直  越前北庄67万石
家康二男秀康の長男で、慶長12年(1607年)に秀康が没し、遺領の越前一国67万石を継いだ。大坂の陣の行賞に不満を持ち、その後は病気と称して参勤をせず、酒色に溺れ不行跡を重ねたとして元和9年(1623年)2月10日に改易され、豊後萩原に流された。名門であることから、翌月に長男光長に家督を許され、光長は越後高田25万石に減転封された。
青山忠俊  武蔵岩槻4万5千石
青山忠俊は土井利勝、酒井忠世とともに家光の撫育にあたったが、家光が将軍となった3ヶ月後の元和9年(1623年)10月19日に勘気を受けて改易された。上総大多喜2万石に減転封されたが領地を返上し、蟄居した。
諸事厳格な忠俊は公衆の面前で家光に諫言し、家光の勘気をこうむったとされるが、その裏には家光と秀忠との確執があったとされ、家光が秀忠の側近であった忠俊を嫌ったともいわれる。子の宗俊は忠俊ととも相模今泉で蟄居したが、後に許されて信濃小諸で大名に復した。

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