歴史の勉強

ニ、秀忠期の大名政策

元和2年(1616年)4月17日に、大御所として駿府にあった家康が75歳で死去し、名実ともに秀忠の時代となった。秀忠は、元和9年(1623年)7月27日に嫡子家光に将軍職を譲って西の丸入りし、大御所と称して家光を後見し、寛永9年(1632年)正月24日に死去するが、外様大名24名、一門・譜代大名15名を改易した。

外様大名24名のうち無嗣及び嗣子幼少、死亡などの族姓的理由によるものが15名、残り9名が法律的理由によるものである。
このうち福島正則の改易は、豊臣系大名の雄として知られる福島氏に対する弾圧であることは間違いないであろう。関ヶ原役では徳川勝利の立役者のひとりであった福島正則であったが、家康が覇権を確立すると警戒の対象となった。これは何も正則だけのことではなく、豊臣恩顧といわれる加藤清正や加藤嘉明、浅野幸長などに共通するものであった。その中で、特に直情径行的な正則と清正はもっとも警戒すべき大名であったのだが、清正は慶長16年(1611年)に死去し、正則が残った。家康は大坂の陣のときも正則を出陣させなかったほどだった。
家康死去後に秀忠は正則を武家諸法度違反すなわち居城の石垣を無断で修理したとして改易にし、安芸広島498,220石から信濃川中島4万5千石に移した。名目上は減転封であるが、実質的には除封であった。寛永元年(1624年)に正則が死去すると、検死前に火葬にしたことを理由に領地を収公し、嫡子正利に3千石を与えた。したがって正則は2度改易されている。正則としては幕府に対して逆心を抱く考えなど毛頭なかったようだが、幕府とすれば正則の来歴から早期の改易を考え、正則もその筋書きには抗えないとして最後は達観していたようである。

福島正則のほか、御家騒動によって最上、村上、関の3氏が改易されている。特に最上義俊は、出羽山形で57万石を領する大大名であったが、幼少の藩主のもとで重臣が派閥争いを繰り返して幕府に訴え出るなど家政が治まらずに改易され、義俊には近江で1万石が与えられるに留まった。最上氏は中世以来の名族であり親家康であったが、中世的な領国経営から抜け出せず、近世大名に成りきれなかったことが、騒動の大きな原因であった。

このほか陸奥会津若松の蒲生忠郷60万石(弟忠知に伊予松山24万石が与えられた)、筑後柳河の田中忠政32万5千石(兄吉興に近江国内で2万石が与えられた)など豊臣系大名の無嗣断絶が目立つが、外様大名からの没収高は227万1,600石におよび、これらが秀忠期の大名の大規模な転封の大きな原資となったのである。

これに対し一門・譜代大名については、家康死去の3ヶ月後に家康の六男であり、秀忠の異母弟でもある越後高田60万石の松平忠輝を改易した。表向きは大坂の陣における怠慢、旗本と喧嘩をしたうえで殺害するという狼藉行為が理由であったが、実際は家康というカリスマが没した後に秀忠中心の体制作りをするなかで、勇猛かつ無思慮な忠輝の存在が邪魔であったからだろう。特に忠輝の正室は戦国生き残りの伊達政宗の女であり、将軍代替りの不安定期を狙って忠輝をかついで幕府を脅かす可能性は否定できなかった。先手を打つ必要もあって秀忠は忠輝を改易し、直弟であろうとも厳しい方針で臨むとする統制政策の根本を示したのである。

続いて元和9年(1623年)には越前北庄67万石の松平忠直を改易した。忠直は家康二男結城秀康の長男であった。秀康は関ヶ原後に越前一国を与えられたが、慶長12年(1607年)に死去し、忠直が封を継いだ。大坂冬の陣では軍令違反を犯して叱責されたが、夏の陣では大功を樹てて家康から誉められている。しかし加増はなく、このあとから忠直は暴君に変じていく。長幼の順からいけば将軍は家康の三男秀忠ではなく二男の秀康が継ぐべきであり、秀康が将軍であったなら三代将軍は自分であった。それが越前一国とはあまりになさけない、というのが本音であったらしい。それが大坂の陣でも加増を得られず憤慨したと、松平津山家譜に記されているという。現代でいうメンタル的なものだったかもしれないが病と称して参勤をせず、酒色に溺れ、罪なき家臣や領民を殺害するなど乱行に及び、ついに幕府により改易され豊後萩原に流された。しかし名門ということでもあり嫡子光長には越後高田25万石が与えられた。

このほか元和8年(1622年)8月に下野宇都宮15万5千石の本多正純が改易されている。城郭の無断修理を咎められたとされ、俗説では宇都宮釣天井による将軍暗殺の企みとして有名であるが、政争による失脚であった。家康時代に大久保忠隣を失脚させ、また秀忠の初世において福島正則を陥れた張本人が正純であるといわれ、それを考えると因果応報的なものがある。

また、家光が封を継いだ直後の元和9年(1623年)10月に、その傳役のひとりであった青山忠俊(武蔵岩槻4万5千石)が、家光の勘気をうけて改易されている。秀忠の時代に改易された一門・譜代大名16名のうち、忠輝・忠直・本多正純・青山忠俊を除いた12名は無嗣などの族姓的な理由によるものであり、没収高は133万3,820石であった。これを外様大名の没収高と合せると360万5,420石となる。

さて秀忠は、大坂の陣での豊臣氏の滅亡により大坂を中心とする摂津や、その西隣の播磨、あるいは北隣の丹波へ譜代大名を進出させた。
播磨は池田氏による一族支配がなされていたが、池田氏は因幡鳥取に転封され、姫路・龍野・明石など9大名により分割統治された。
西国では福島氏の改易により紀伊和歌山から浅野氏が安芸広島に移り、和歌山には家康十男の頼宣が入り御三家のひとつ紀伊家が成立した。
さらに幕府の方針によって大坂は直轄地となり、摂津・河内・和泉の外様大名が全て転封され、紀伊・和泉・摂津・播磨・河内は幕領か一門・譜代大名領とされた。

一方、松平忠輝改易後の越後も、これ以後分割統治が基本とされた。越前家の忠直改易後の光長が高田25万石を与えられたが、五代将軍綱吉の時に騒動により改易され、その後は15万石を越える藩は越後には置かれなくなる。
また奥羽では最上氏改易後その領地は分割され、鳥居忠政を山形に、酒井忠勝を庄内に置くなど譜代大名を進出させた。無嗣により改易となった会津若松の蒲生氏の跡には伊予松山から加藤嘉明を移し、奥羽地方においても大名配置が変化した。特に譜代大名の進出が顕著で、奥羽においてはほぼ大名配置が完了した。
中国地方では前述の池田氏の転封ほか、備後福山に水野氏が配置され譜代大名の進出をみた。
四国では伊予の加藤嘉明の転封と入れ替わりに蒲生忠知が松山に入ったほか、伯耆米子から加藤貞泰が伊予大洲に配置された。
九州では筑後の田中氏の無嗣断絶に伴い、筑後は久留米の有馬氏と柳河の立花氏に分割され定着したが、ほかには大きな変化はなかった。

まとめ

(一)秀忠は外様大名23名を改易したが、その中心は豊臣系大名であり、特に豊臣色の強い福島正則を半ば強制的に改易としたほか、最上・蒲生・田中など大大名が改易された。

(ニ)一門・譜代大名に対しては、一門の松平忠輝、松平忠直を法律的理由により改易し、一門に対しても厳しい方針で臨む姿勢を示した。

(三)外様大藩や松平忠輝の改易、さらに豊臣氏の滅亡などで摂津、紀伊、和泉、播磨、丹波など近畿諸国と越後、中国地方、伊予、筑後、奥羽南部の大名配置が大きく変化し、中国や奥羽南部にも譜代大名の進出をみた。

(四)特に近畿は幕領か一門・譜代大名領となり、大坂は直轄地となった。また紀伊には一門の徳川頼宣が入り紀伊徳川家が成立した。また播磨と越後は分割統治となった。

秀忠期の改易大名(外様)
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