歴史の勉強

家康期の改易大名 (外様)

軍事的理由

豊臣秀頼  摂津大坂65万7400石
元和元年(1615年)5月8日の大坂夏の陣の敗北により、生母淀殿らと大坂城で自害。遺児国松も同月23日に京都六条河原で斬首。
古田重然  城地不明1万石
茶人としても知られるが、大坂の陣の際に大坂方に内通したとされ、元和元年(1615年)6月11日に切腹を命じられる。

族姓的理由

日根野吉明  信濃高島2万8千石
天正15年(1587年)に信濃高島城主日根野高吉の長男として生まれ、慶長5年(1600年)に高吉が急逝し遺領を継いだ。その際に14歳と若年であることを理由に下野壬生に1万900石に減転封された。
小早川秀秋  備前岡山51万石
天正10年(1582年)に木下家定の五男として生まれ、文禄元年(1592年)に小早川隆景の養子となり、同4年家督。
関ヶ原役では、決戦の最中に西軍から東軍に寝返り、備前・美作両国を与えられたが、慶長7年(1602年)10月18日に21歳で没し、嗣子がなかったために絶家となった。
大島光義  美濃関1万8千石
慶長9年(1604年)8月23日に死去後、遺領は長男光成に7500石、二男光政に4710石、三男光俊に3250石、四男光朝に2550石と分封され、大名ではなくなった。
堀鶴千代  越後蔵王3万石
越後春日山城主堀秀治の二男で、叔父親良の養子となり家督を継いだ。この家督相続は親良と秀治の不仲によるものとされ、親良はその後に幕府に出仕して1万2千石を得た。一方鶴千代は、慶長11年(1606年)に早世し無嗣断絶となった。
中村忠一  伯耆米子17万5千石
関ヶ原役で東軍に与し、戦後駿河府中14万5千石から伯耆米子に加転封されたが、慶長14年(1609年)5月11日に20歳で急逝し、無嗣断絶となった。
金森長光  美濃上有知2万石
飛騨高山藩主金森長近の三男で、慶長12年(1607年)にわずか2歳で長近の遺領のうち2万石を分知されたが、慶長16年(1611年)10月6日に6歳で没し、無嗣断絶となった。なお家臣の島三安、肥田忠親、池田政長にそれぞれ千石づつが与えられ、旗本とされた。

法律的理由

稲葉通孝  豊後国内1万4100石
寛政重修諸家譜によると、慶長年間に故あって伏見に退去したために除封され、また一説では長男通照がいたが届出を怠り、慶長12年(1607年)7月26日に無嗣絶家とされたともいう。
領地は宗家の豊後臼杵藩主稲葉典通に還付されたという。通照は寛永元年(1624年)に500俵を与えられ旗本となった。
津田信成  山城御牧1万3千石
慶長12年(1607年)12月に、美濃清水藩主稲葉通重と京祇園で婦女に狼藉を働いたとして除封された。
稲葉通重  美濃清水1万2千石
慶長12年(1607年)12月に、山城御牧藩主津田信成と京祇園で婦女に狼藉を働いたとして除封された。
筒井定次  伊賀上野20万石
家臣中坊秀祐が定次の不義を上訴し、不行跡とされて慶長13年(1608年)6月8日に除封され、鳥居忠政に預けられた。元和元年(1615年)3月5日大坂の陣で、大坂方に内通したとされ子の順定とともに切腹を命じられた。
前田茂勝  丹波八上5万石
慶長13年(1608年)6月に発狂して重臣を殺害したほか、多くの家臣に切腹を命じたために除封され出雲松江の堀尾家に預けられた。
木下勝俊  備中足守2万5千石
慶長13年(1608年)8月に父家定が没して家督を継いだ際に、弟利房に5千石を分知するよう幕命を受けたが守らずに、勝俊一人が相続したため除封された。
桑山清晴  和泉谷川1万石
慶長14年(1609年)に秀忠の勘気を受けて蟄居、封地は父重晴に与えられた。一説によると病気の為に出仕できなくなったためという。
堀忠俊  越後福島45万石
慶長元年(1596年)に堀秀治の長男として生まれ、同11年に父の死去により襲封したが、重臣の堀直次と堀直寄兄弟が対立して抗争に及んだ。
忠俊は直次に与したため、直寄が家康に訴えた。裁決の結果直寄の勝訴となり、忠俊は家中不取締、枢要の地での大封任せられずとの理由で除封され、陸奥磐城平藩主鳥居忠政に預けられた。実際は外様大名取潰政策の一環で、堀家の方からその材料を提供する形になった。
堀直次  越後三条5万石
堀家の名家老といわれる、先代直政の長男として生まれ、慶長13年(1608年)に直政死去により、その遺領を継いだ。異母弟直寄と不仲であり、家督相続後に宗家の忠俊の後見役を巡って直寄と争い、直寄が家康のもとに訴え出ると、直次も秀忠に訴えた。家康の親裁で結局直次が敗訴となり直次は改易、出羽山形藩最上家に預けられた。
堀直寄  越後坂戸5万石
先代直政のニ男として生まれたが、異母兄直次と不仲であり、宗家の忠俊の後見役を巡って直寄は直次と争いになった。直寄は駿府の家康に、直次は江戸の秀忠にそれぞれ訴え出て、家康の親裁で直寄の勝訴となったが、兄弟の不仲と訴訟を咎められ1万石減封のうえ信濃飯山に転封となった。
有馬晴信  肥前日野江4万石
本多正純の与力であった岡本大八事件に絡んで、長崎奉行長谷川藤広の暗殺を計画したとして、慶長17年(1612年)3月18日に除封された。甲斐に流されたが、のちに自害した。
子の直純は事件に無関係であったとして、肥前日野江4万石の相続を許された。
里見義高  上野板鼻1万石
安房里見氏の一族で、義英、忠頼、忠英ともいう。慶長18年(1613年)10月1日に勤務怠慢を理由に除封され、上野高崎藩酒井家に預けられた。酒井家の家臣となり400石を得た。
石川康長  信濃松本6万石
金山奉行であった大久保長安の死後、その不正や陰謀が発覚した。長安の嫡子藤十郎の正室が康長の女であったことと、長安と結託して領内に隠田を設けたことで、慶長18年(1613年)10月19日に長安に連座する形で改易になり、豊後佐伯藩主毛利高政に預けられた。
富田信高  伊予宇和島12万石
妻の弟である石見津和野藩主坂崎直盛の家臣宇喜多左門が、殺人を犯して逐電したがそれを匿い、坂崎直盛と争論となる。家康、秀忠による裁決の結果、慶長18年(1613年)10月8日に改易除封となり、陸奥磐城平藩主鳥居忠政に預けられた。
高橋元種  日向延岡5万石
元種の妻と富田信高の妻が姉妹であったために、富田信高に連座して改易となり、陸奥棚倉藩主立花宗茂に預けられた。
石川康勝  信濃国内1万5千石
大久保長安事件に連座して改易された石川康長も弟で、兄康長に連座して慶長18年(1613年)10月に除封された。
佐野信吉  下野佐野3万9千石
坂崎直盛との争論に敗れて改易された富田信高の弟にあたり、信高に連座して改易された。また大久保長安とも縁戚関係にあったことも一因という。のちに赦されて子孫は3500石の旗本として存続した。
里見忠義  安房館山12万石
慶長19年(1614年)1月に失脚して改易された大久保忠隣に連座して改易され、安房館山12万石は収公され、伯耆倉吉3万石に減転封された。
忠義の正室が忠隣の長男忠常の長女であったことによるが、関東からの外様大名の排除が目的であった。表向きは減封であるが、実質的には除封であり、伯耆の領地も4千石しかなかったという。
福島正頼  大和松山3万石
高晴ともいい福島正則の弟にあたる。兄正則とともに関ヶ原役では東軍に与し、戦後大和松山3万石を領したが、駿府城大手門で駿府町奉行の許可を得ずに家臣を捕らえ、騒動を起したとして元和元年(1615年)閏6月25日に改易された。
なお、正頼が捕らえた家臣は、正頼の不正を家康に訴えた者であったという。
織田信重  伊勢林1万石
信重は織田信長の弟信包の長男であったが、父とは不和であった。慶長19年(1614年)7月に丹波柏原藩主であった父信包が没すると、遺領は遺言によって信包二男の信則が継いだ。信重はこれを不服として元和元年(1615年)閏6月に上訴したが、敗訴となり除封された。

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