歴史の勉強

家康期の改易大名 (一門・譜代)

族姓的理由

武田信吉  常陸水戸15万石
天正11年(1583年)に家康の五男として生まれ、甲斐武田氏の名跡を継いだ。慶長7年(1602年)11月8日に常陸水戸に封ぜられたが生来病弱であり、翌慶長8年9月11日に21歳で没し、嗣子がなかったために絶家となった。
松平(東条)忠吉  尾張清洲52万石
天正8年(1580年)に家康の四男として生まれ、東条松平家を継いだ。関ヶ原役後に尾張清洲に封ぜられ尾張一国を与えられたが、慶長12年(1607年)3月5日に28歳で没し、嗣子がなかったために絶家となった。
平岩親吉  尾張犬山12万3千石
慶長16年(1611年)12月晦日に70歳で没し、無嗣断絶となった。家康の八男仙千代が養子に入っていたが、親吉に先立って慶長5年(1600年)に死去しており、以後親吉は養子を迎えなかったという。
松平(竹谷)忠清  三河吉田3万石
竹谷松平家の宗家であるが、慶長17年(1612年)4月20日に28歳で没し、無嗣断絶となった。同年11月3日に弟清昌に三河国内で5千石が与えられ、子孫は交代寄合となった
大久保忠佐  駿河沼津2万石
大久保忠員の二男で、忠世の弟にあたる。慶長18年(1613年)9月27日に77歳で死去し、無嗣の為に絶家となった。

法律的理由

天野康景  駿河興国寺1万石
家康の三河時代に本多重次、高力清長とともに奉行に任じられ「仏高力。鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛」と評された人物で、公平無私な人柄であった。
慶長12年(1607年)に康景の足軽が天領の領民を殺傷してしまう。これは居城修築のために保管してあった竹を盗まれたためであったが、農民の訴えに対し家康の側近本多正純は、農民を殺傷した足軽の差出を命じた。
これに対し康景は盗人を追った足軽に罪はないとして逐電し、改易となった。なお長男康宗も父とともに逐電したが、寛永5年(1628年)に赦されて1千石を与えられて旗本となった。
小笠原吉次  常陸笠間3万石
尾張清洲藩主で無視断絶となった松平忠吉の付家老であり、忠吉没後に常陸笠間藩主となったが、忠吉の家臣の扱いに不正があったとされ、慶長14年(1609年)3月26日に改易となった。改易理由には忠吉の跡に尾張清洲に封ぜられた義直(家康九男)の付家平岩親吉と不仲であったことや長男忠重が忠吉に殉死したためなどの説もある。
松平(桜井)忠頼  遠江浜松5万石
慶長14年(1609年)9月1日、大番頭水野忠胤の屋敷に招かれた際に、茶室で大番士久米左平次と服部半八との口論に巻き込まれ、久米左平次に殺害された。
同月29日に改易除封となったが、翌慶長15年7月に長男忠重は8千石を与えられ旗本となった。
水野忠胤  三河国内1万石
大番頭であった慶長14年(1609年)9月1日に、屋敷内で配下の大番士久米左平次が遠江浜松藩主松平忠頼を殺害し、同年10月16日に事件の責任を負わされて切腹を命じられ除封された。
皆川広照  信濃飯山7万5千石
慶長8年(1603年)に家康六男の松平忠輝の付家老となったが、慶長14年(1609年)に忠輝の不行跡を家康に訴え出た。これが家康の勘気を受けて改易された。元和9年(1623年)に赦免され、常陸府中1万石を与えられた。
山口重政  常陸牛久1万5千石
慶長18年(1613年)正月6日に、許可を得ずに嫡子重信と大久保忠隣の養女を婚姻させたために改易となったが、大久保忠隣の失脚を目論んだ本多正純の陰謀の犠牲になったというのが定説。
寛永5年(1628年)に召し返されて、翌寛永6年に1万5千石を与えられて常陸牛久藩主に返り咲いた。
青山成重  下総飯岡1万石
大久保長安の三男権之助を養子としていたために、長安事件に連座して7千石を減封された。元和元年(1615年)に成重は死去して3千石は収公されたが、長男成次にあらためて2千石が与えられ旗本となった。
大久保忠隣  相模小田原6万5千石
譜代の名門大久保家の宗家で、秀忠の側近であったが、慶長19年(1614年)正月19日に、許可を得ずに養女を山口重政に嫁がせたことを咎められ改易除封となり、近江彦根藩井伊家に預けられた。
実際には家康側近の本多正信・正純父子との政争に敗れ、失脚したものである。孫の忠職は2万石を別に得ていて蟄居処分となったが、その領地は安堵され、その子の忠朝は貞享3年(1686年)に10万3千石で小田原藩主に返り咲いた。

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