歴史の勉強

徳川幕藩体制における大名の相続

(一)御恩と奉公
徳川幕藩体制における将軍と大名の関係は、個人的な主従関係であった。将軍は大名に対して所領の支配を認め、大名はそれに対して様々な義務を負った。つまり将軍による「御恩」に対して「奉公」で報いるのである。
「奉公」の基本は軍役であり、大名は石高に応じて相応の軍備を求められた。戦いがないからといって鉄砲や槍、馬などをむやみに減らせなかったのである。とはいえ平時では著しい消耗はないから、軍役と軍備はほぼ等しくなってしまい、戦いがない分軍役負担は大幅に軽減された。そこで将軍家直轄の城や寺社あるいは禁裏などの造営や修築、河川や街道の整備改修などのお手伝い普請、江戸城諸門の警備や江戸市中の火の番、大坂城などの勤番、勅使や朝鮮通信使の接待等々、いろいろな公儀の役目を果たすことを求められた。そしてこれらが将軍に対する「奉公」となっていった。
これらにも格があって小大名は諸門番や火の番など、中程度の大名は勅使や朝鮮通信使の接待など、大大名になると河川改修など土木工事が中心であった。江戸中期頃までは河川改修などを実際に行ったが、後期には相応の金銭負担となった。
また、これらの役務は軍役同様あくまで表高に対して課された。表高とは幕府公認の石高であり、実際は新田の開発などで表高よりも多くの米がとれることが多かった。この実高のことを内高といい、表高と内高の差分には役務はかからなかった。

さてこの「御恩」と「奉公」は個人的な主従関係が前提となっていたから、代替わりごとに更新する必要があった。将軍が替った場合は代替わり後に暫くして新将軍の名で各大名に対し、所領支配を保証する宛行状(あてがいじょう)が発給された。
一方大名の代替わりの場合は、将軍に認められる必要があった。大名側から相続を願い、それに対して将軍から新しい当主に承認の旨が仰せ付けられて、はじめて公的な相続がなされることである。従って、この将軍の承認がない場合は正式には相続が済んでいない状態であった。ただしこれは多分に形式的なところがあって、法的に問題がなければ認められないことはなかった。
つまり時代が経ると将軍と大名の個人的な関係は、実際には将軍と大名家の関係に変化していった。

(二)大名家の相続
大名家の相続には二通りの場合があった。
ひとつめは当主が隠居をして家督を譲る場合である。この場合、大名の側は隠居する理由と後継者名を記した願書を提出し、当主と後継者を江戸城に呼んで隠居の許可と家督相続の仰せ付けを行い、交替を認めた。これは同日に行われるために代替わりは即日行われ、後継者はその日から当主となった。
隠居の理由は基本的には高齢や病気などであるが、家臣による強制的な隠居や当主本人が政治に倦んだ場合、また時には失政等の責任を取る場合があった。幕府がペナルティとして強制的に隠居させることもある。病気などで本人が登城できない時は親戚の大名が替って登城した。いずれにせよ隠居の場合は即日相続がなされるから大きな問題はなかった。

次に当主が死亡した場合の相続である。当主が死亡すると、まずその旨の届が提出される。同時に後継者は服忌の届を提出するが、これは父親死亡の場合は「忌日50日、服喪13ヶ月」と決められていて、忌日期間中は登城を控えた。忌日が明けて登城し、そこで仰せ付けがなされてはじめて相続が認められた。まれに忌明け前に仰せ付けがなされることもあるが、あくまで内示であり、御礼の登城は忌明け後になるので相続は忌明け後になった。したがって当主死亡の場合は死去から後継者の新当主の就封までは2~3ヶ月程度の間があり、その間は公式には当主不在であった。
まれに、この時間差の間に後継者が死亡してしまうことがある。この場合は後継者はまだ当主ではないので、相続者がいなくなり相続は認められず御家断絶となる。元禄6年(1693年)の備中松山藩5万石水谷勝美死亡のケースがこの例である。また元禄10年(1697年)の美作津山藩16万7千石の森家の場合には、後継者が発狂乱心してしまい改易となった。

(三)大名の後継者
大名の後継者を嗣子といい、嫡男への相続が基本であった。正室の産んだ男子が優先され、側室の産んだ男子は庶子として順位が下がった。庶子が先に生まれて、その後に正室の子が生まれてもこの原則が適用され、数年の差であれば正室の子が嫡男となった。
水戸徳川家二代藩主光圀は正室の子であり、兄の頼重は庶子であったために水戸家は光圀が継ぎ、頼重は別家(讃岐高松藩)した。伊達政宗の長男秀宗が伊予宇和島に別家したのも庶子であったためで、仙台伊達家は正室の子の忠宗が継いだ。
庶子と正室の子の原理原則は必ずしも守られたわけではないが、大概は正室の子が優先されたのも事実であった。
年齢が離れていると一旦庶子の子が継いで、その養子に正室の子を迎え(つまり異母弟を養子にする)て、適当な時期に庶子の子が隠居して相続させるということもよく行われていた。

とはいえこれらは男子がいた場合の話であって、いなければこうもいかなかった。最初から産まれないケースや産まれても早世してしまうケースなどである。その場合、孫がいれば嫡孫であったが、孫がいなければ養子を求めることになった。
養子にも原則があって、同姓の男子が優先であった。まず弟、次に甥、従弟、その子供など血縁の濃さが重視された。同姓中に適格者がいない場合は女子に対して婿を取ることや外孫を養子とすることも認められた。さらにこれらをあたっても適格者がなければ、まったく縁がなくても養子にすることは可能であった。
ただし優先順位を無視することは認められなかった。有能な従弟より無能な弟の方が優先したし、血縁者の能力が劣るからといって入り婿をして家督を譲ることは許されなかった。
また年齢的には養父と養子の差がほとんどなくとも問題はなかったが、年上の養子は認められなかった。したがって兄を養子に迎えることはできなかった。

(四)養子の制限
養子は血縁や年齢差のほかにもいくつか制限があったが、江戸時代初期には後継者となる実子を設けないのは将軍の御恩を忘れているとされ、養子自体に対して厳しい見方がされた。また大名の側にも自らの働きや知恵才覚で築き上げた家を実子以外に渡すことに抵抗があった。
そのために嗣子を定めずに死亡して領地が収公されるケース、いわゆる無嗣断絶が非常に多かった。これは徳川一門でも例外ではなかった。
大名が無嗣で断絶すると家臣はいきなり路頭に迷う。前述のように将軍と大名が個人的な主従関係で結ばれていたように、大名とその家臣も個人的主従関係で結ばれていた。その一方が突然なくなってしまうのだから、強制解雇と同じである。
武士の社会は将軍を頂点とする完全なピラミッド型だから、大名の家臣は誰かに仕えないとピラミッドから外れてしまう。これが浪人である。大名の改易が増えるにつれ浪人も増加し、社会不安にもなった。これが由井正雪の乱など幕府に対する陰謀事件まで引き起こすにいたって、幕府の大名政策も大きく転換した。その最大のものが末期養子(急養子)の禁の緩和であった。

末期養子とは当主が臨終間際に養子を申請して相続を願うことである。もともと末期養子というのは御恩を忘れている上に、養子縁組が本人の意思かどうかもわからないということから認められていなかった。
この禁が慶安4年(1651年)から大きく緩和されたのである。ただし全面的に許されたわけではなく、あくまでも緩和であり認められない場合もあった。認められない代表は年齢制限であった。
まず当主が50歳以上の場合は認められなかった。これは50歳にもなっていれば当然後継者を決めておくのが嗜みであるという発想であった。ただ後継者が当主に先立って死亡するケースもあり、この制約はその後に緩和され、概ね認められるようになった。
もうひとつが17歳未満の場合である。原則として大名になるには年齢的な制限はなかった。生まれたばかりであっても正当性さえあれば大名にはなれた。むしろ正当性の方が重視されたから、2歳や3歳で大名になったケースも珍しくはなかった。しかし17歳未満で死亡した場合には養子も末期養子も認められず、当然実子がいることもほとんどないから無嗣断絶となる危険があった。この17歳の年齢の制約には幕府は最後までこだわった。江戸中期以降の無嗣断絶のケースはほとんどがこのケースであった。
ただし幕府は17歳以下の養子を絶対に認めないわけではなかった。しかしそれは将軍個人の思し召しによった。個人的な主従関係が前提であるから、絶対権力者の将軍が主従関係を結びたければ相続は認められた。また末期養子というのは最後の最後に取られる例外的な方法であり、相続が認められても転封や減封されることも多かった。各々の事情にもよるが、所領が半分になっても取り潰されるよりは良としたのであった。

(五)大名家の相続対策
さて相続に対しては大名の側でもさまざまな対策を打った。側室を多く持ち、子供を沢山生むなどは誰でも考えそうなことであるが、側室や子供も多くなればなったで金もかかるし、成人して以後はどう片付けるかで頭を悩ますことになる。
十一代将軍家斉は子沢山で有名であったが、家斉時代の老中の最大の仕事は、将軍の男子の養子先選びと女子の嫁入り先選びであったという。仮にも将軍の男子が養子となるのだから小大名というわけにはいかず、また立派な後継者がいるのに押し込むわけにもいかず、女子の場合には金がかかる将軍の娘を受け入れてくれる大名も多くなく、持参金をつけたり加増をしたり、ずいぶんと苦労したようである。
将軍家ですらこうなのだから、大名も子供を多く作ればいいというものでもない。要は丈夫な男子と、その控えとなる男子がいて、さらに親類に養子適格者がいれば安心というのが最上であるが、保健衛生や災害などが現代と比べものにならない頃のことだから、だからといって対策がいらないということにはならなった。

そのひとつが年齢操作である。子供が生まれると庶子であろうが正室の子であろうが出生を届け、それによって公認されるのであるが、届出は義務ではなかった。
届け出なければ公認されないだけであり、跡継ぎにする予定もなく養子に出すことも考えないというのなら届け出なくてもよかった。まして幼児死亡率が高い時代のことであり、一度届け出てしまうと死亡した場合も届け出なければならず、また届けた後に病弱とわかって後継者として問題ありとなっても簡単に取り下げることもできない。
そこで丈夫届と称する手続きが取られていた。出生時には虚弱であり届けなかったが、丈夫に成長したので改めて届けるという趣旨のもので、実際に病弱かどうかは関係なかった。つまり後継として問題ないかを見定めてから届出を行ったのである。そしてこのときに年齢の操作をした。
いくら丈夫届とはいえ適齢を過ぎた20歳や30歳の子を届けるわけにはいかない。かといってあまり若い段階で届けて死亡したり、相続して当主となったものの17歳未満で死亡したりしては困る。したがって実年齢よりも2~3歳サバを読んで、例えば10歳を13歳と偽って届けを出した。もし丈夫届が出て暫くして当主が死亡したとすると、10歳の後継なら7年間家中一同ハラハラしなければならないが、13歳なら4年間で済むということである。
この年齢操作は普通に行われていて珍しくはなかったが、この届の年齢が正式な年齢となる。つまり養子縁組や婚姻の際の年齢もこの公式の年齢を基準にして行われる。よく大名の生年や没年で記録に差があるのは、この公式年齢と実年齢によるところも多い。家記などは内々の記録なので幕府を意識する必要はなく、実年齢で記されることが普通であったからだ。

出生に関わる年齢操作のほかに死亡の操作も行われた。これは末期養子と関係がある。嗣子の定めがなく当主が危篤になると、末期養子を決めなければならない。その場合は親類縁者が集まって決めるのが原則であったが、願出はあくまで当主本人がすることになる。つまり当主が生きていなければならないのだが、現実は必ずしもそうではなかった。
当主が死亡してから集まって決めるなどは、よく行われていて、その間当主の死は伏され生きていることにされた。ときには半年近くも病気ということにして死を伏せていたケースもある。養子の届出をして認められた後に、おもむろに喪を発するのである。これは幕府も知っているが、手続きが正当に行われていれば黙認した。
また末期養子には幕府の役人の立会いが前提とされたが、立会う役人も手続きの公正さを見届けるのが役目であり、実際に当主が死亡していても生きているが如くに対処した。

(六)仮養子と公辺内分
末期養子が緩和されたとはいえ、幕府役人の立会いや親戚会議の関係から、その手続きができるのは在府中に限られた。参勤交代で帰国中の間の対応はできなかった。
そのため帰国中に当主が急病になった場合の手続きとして取られたのが仮養子であった。文字通り仮の養子であり、参勤交代による帰国中だけに有効な仮養子を届け出ておく制度である。もちろん嗣子がいない場合のときだけであり、嗣子がいなくても義務ではないが、無嗣断絶の危機回避として17世紀末ごろには定着していたようだ。
ただし仮とはいえ養子であり、万一の場合には仮養子以外を後継者にはできなかったから、養子の原理原則に則った選択でなければならなかった。実子がいるにもかかわらず、廃嫡せずに仮養子を立てようとして咎められたケースもある。

公辺内分というのは公には内緒で、つまり無届で処理するという意味である。前述のように大名家の相続には、さまざまな制約があった。したがって内々で処理をしてしまおうというのが公辺内分である。
もともと内々で処理をしたのであるから表に出るものではないが、実際には人物の入れ替わりやすり替えが行われていたようだ。兄弟とされているが、あきらかに同一人物であるというケースもあったようだ。
公辺内分は表に出ないように極力秘密にされていたが、年齢の操作などのように公然の秘密的なものから、養子を取った後に実子ができたたり、親子間が不和であったりしたために強引になされたものもあったようだ。
いずれにせよ大名は相続を無事に行って家を残すことに執念をかけたことは間違いないようである。

本稿は特に御家相続・大名家の苦闘(大森映子・角川選書)を参考にしました。

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