歴史の勉強

「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」
これは三代将軍家光の時代に、諸大名から家系や系図を提出させたときに、脇坂氏が系図に添えて出した歌である。
諸大名が系図を買ったり、先祖を強引に取り繕ったりするなかで、脇坂家は安明から系図を起したうえで「脇坂の家は藤原の流れと言う人もいますが、はっきりしているのは安明、安治、安元のわずか三代で、それ以前のことはわかりません」という意味の歌を添えて提出したのである。その正直なことに、将軍家光も感心したという。
脇坂の家号は近江国浅井郡脇坂に住したことにちなみ、安明は浅井長政に仕え、長政が信長と協力して江南の六角氏を攻めた際に戦死している。
安明を継いだ安治は秀吉に仕え、多くの合戦に従軍、とくに賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えら、大名に取り立てられた。
江戸期に入り安政のときに外様から譜代並(願譜代)となり、寺社奉行として辣腕をふるった安董のときに譜代となった。

大名騒動録・龍野騒動のページ

脇坂安治 わきさかやすはる
1554~1626(天文23~寛永3)、幼名甚内、従五位下、中務少輔
淡路洲本3万石→伊予大洲5万3千石

安治の出生には、近江国浅井郡脇坂に住した脇坂安明の実子という説と、田村孫左衛門の実子であったが後に母が脇坂安明に再嫁し安治も安明の養嗣子となったという説の二説がある。
安明は浅井長政に仕えたが、長政が信長と協力して六角氏の箕作城を攻めた際に戦死している。
家督を継いだ安治は織田信長に仕え、その初陣は明智光秀に従っての天正3年(1575年)の丹波国黒井城攻めという。
このとき安治は単身黒井城に乗り込み降伏を勧告、城主赤井直正から勇気を讃えられて、のちに脇坂家の槍の鞘として有名になる貂の皮を得たという。
その後、羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城をはじめとする城攻めに参陣し功を重ね、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられる。
賤ヶ岳の戦いの功で3千石を与えられ、それまで得ていた3百石と合わせ3千3百石となる。小牧・長久手の戦いでは伊賀上野城を攻略し、天正13年(1585年)5月に摂津国能勢郡にて1万石を与えられた。
同年8月大和国高取2万石、さらに10月には淡路国洲本で3万石となる。九州征伐では耳川の戦いなどで活躍、天正15年(1587年)の薩摩平佐城攻めでは九鬼義隆、加藤嘉明とともに水軍を率いて城を攻めた。
これ以後、水軍の将としての活躍が多く、小田原征伐では下田城、小田原城を海上から攻めている。
文禄の役では海上輸送を担当したのち、陸戦で功をあげた。李舜臣による朝鮮水軍の活動が活発になると九鬼義隆、加藤嘉明らと水軍に転じたが、閑山島沖開戦で功を焦って李舜臣軍に大敗した。
以降は釜山浦、熊川など数度の海戦で李舜臣軍を阻み、また慶長の役では漆川梁開戦で元均率いる朝鮮水軍を壊滅させた。これら一連の功績によって3千石を加増され、所領は3万3千石となった。
秀吉死去後の会津征伐では当初嫡子安元を会津征伐に参陣させるはずであったが、石田三成の妨害にあって果たせなかった。
安治は山岡景友を通じて事情を家康に伝え、家康の了解を得た。関ヶ原役では大坂にあったために、兵1千を率いて西軍に参陣せざるを得なかったが、もともと家康と通じていたこともあって、藤堂高虎の指示で戦中に裏切って東軍に寝返った。
関ヶ原後には石田三成の居城佐和山城を攻めて二心なきを示しているが、安治はもともと家康に通款しており、寝返りにはあたらないというのが通説である。
関ヶ原役後は本領安堵、慶長14年(1609年)9月伊予大洲5万3千石に転封、大坂の陣には参加しなかった。これは豊臣家へ恩義ある安治を家康が警戒したために、敢えて中立を保ったともいう。
このこともあって元和元年(1615年)に嫡子安元に家督を譲り隠居し、剃髪して京都西洞院に住み、寛永3年(1626年)8月6日に同地で73歳の生涯を閉じた。

脇坂安元 わきさかやすもと
1584~1653(天正12~承応2)、幼名亨、甚太郎、従五位下、淡路守
伊予大洲5万3千石→信濃飯田5万5千石

先代安治の二男として生まれる。秀吉死去後の会津征伐では父安治に代わり、兵を率いて家康の軍に加わるべく東下したが、近江で石田三成の妨害にあって果たせなかった。
このため安元父子は山岡景友を通じて事情を家康に伝え、家康の了解を得た。関ヶ原役では当初西軍であったが、家康に通じており、東軍に内応して本領安堵となった。
大坂冬の陣では藤堂高虎軍に属し活躍、夏の陣では土井利勝とともに天王寺方面で戦い功を挙げた。
天正元年(1615年)に父安治は隠居したために家督を継いだ。元和3年(1617年)信濃飯田に転封される。
飯田では城や城下町の整備し、街道の流通と伝馬の確立など城下の基盤整備に勤め、飯田十八町を完成させた。
文人としても知られ、その蔵書は八雲軒本として今に伝わる。承応2年12月3日、飯田において70歳で死去した。
安元は実子に恵まれず、弟安経を養子としたが殺害され、次いで将軍家光の信任篤い堀田正盛弟の安利を迎えたが19歳で早世し、正盛の二男安政を養子とした。

脇坂安政 わきさかやすまさ
1633~1694(寛永10~元禄7)、幼名三四郎、従五位下、中務少輔
信濃飯田5万3千石→播磨龍野5万3千石

三代将軍家光の信任篤い老中堀田正盛の二男で、寛永17年(1640年)に先代安元の養子となった。
安元の死去により、承応3年(1654年)3月に家督を相続し、その際2千石を叔父安方に分与した。万治元年(1658年)江戸城本丸修築手伝いのほか大坂加番を3回に渡って勤めた。
寛文12年(1672年)5月14日に播磨龍野に転封となった。龍野は万治元年に京極高和が丸亀に転封された際に城は破却され、以来14年間に渡り天領となっていた。
そのため入封した安政は幕府よりの借銀をもって築城を始め、また城下町の整備を進めた。
延宝6年(1678年)に嫡子安村を多病を理由に廃嫡したが、これに反発した安村は寛永寺の天真法親王に直訴した。これが幕府に聞こえて安村は若狭小浜藩主酒井忠隆に預けられた。
安村に代わって五男安照を嗣子とし、貞享元年(1684年)11月25日、安照に家督を譲り隠居し如水と号した。元禄7年4月20日に龍野において62歳で死去した。
なお、脇坂氏は外様大名であったが、安政が譜代の名門である堀田氏の出であったことから、天和3年(1683年)に願い出て譜代に列せられ、帝鑑間詰となった。いわゆる願譜代である。
脇坂氏先代安元が外様に不安を感じて、当時老中であった堀田正盛の二男安政を養子として、譜代へ列せられることを目論んだものと言われる。

脇坂安照 わきさかやすてる
1658~1722(万治元~享保7)、幼名甚之助、従五位下、淡路守
播磨龍野5万3千石

先代安政の五男で、病弱であった兄(安政長男)安村に代って嫡子となり、貞享元年(1684年)11月に安政の隠居により家督となった。
元禄10年(1697年)3月勅使馳走役、元禄14年(1701年)3月改易となった浅野長矩の居城赤穂城受取役となり、1年間赤穂城在番となった。
宝永6年(1709年)11月13日に嫡子安清に家督を譲り隠居、幽水と号した。享保7年9月19日、龍野において65歳で没した。

脇坂安清 わきさかやすずみ
1685~1722(貞享2~享保7)、幼名主殿、従五位下、伊勢守、淡路守
播磨龍野5万1千石

先代安照の嫡子で、宝永6年(1709年)11月に安照の隠居により襲封。このとき弟安利に2千石を分与したために、所領は5万1千石となった。
正徳元年(1711年)朝鮮通信使接待役、正徳4年(1714年9勅使馳走役など。享保7年2月9日に38歳で死去した。

脇坂安興 わきさかやすおき
1717~1747(享保2~延享4)、幼名豊之助、従五位下、中務少輔、淡路守
播磨龍野5万1千石

先代安清の二男(三男とも)で、享保7年(1722年)2月父安清の死去により封を継いだ。享保17年(1732年)勅使馳走役。元文5年(1740年)に龍野史書である龍野志が編纂された。延享4年8月10日に31歳で江戸において死去した。

脇坂安弘 わきさかやすひろ
1738~1757(元文3~宝暦7)、幼名主殿、従五位下、中務少輔
播磨龍野5万1千石

先代安興の嫡男で、延享4年(1747年)8月安興の死去によって家督を継ぐ。治世は10年と短く、宝暦7年7月17日に20歳で江戸において病没。

脇坂安実 わきさかやすざね
1745~1759(延享2~宝暦9)、幼名富次郎、従五位下、伊勢守
播磨龍野5万1千石

先々代安興の二男で、子がなかった兄安弘の養子となり、宝暦7年(1757年)7月兄安弘の病死により家督となるが、翌々年の宝暦9年7月21日にわずか15歳で病死した。

脇坂安親 わきさかやすちか
1738~1810(元文3~文化7)、幼名熊五郎、従五位下、淡路守、図書頭
播磨龍野5万1千石

近江宮川藩主堀田正陳の四男として生まれ、寛延2年(1749年)12月に脇坂安種の養子となった。
安種は龍野藩脇坂家三代藩主安清の弟安利の子で、安利は安清から2千石の分与を受けて別家をしていた。
脇坂宗家先代安実が宝暦9年(1759年)7月に死去した際に、安実にも子がなかった為に急遽安親が安実の急養子となって龍野藩を継いだ。
宝暦14年(1764年)朝鮮通信使饗応役、明和3年(1766年)甲州河川改修手伝など公役を勤めたのち、天明4年(1784年)4月13日に二男安董に家督を譲り隠居し、文化7年5月14日江戸において73歳で死去した。

脇坂安董 わきさかやすただ
1768~1841(明和5~天保12)、幼名亀吉、従五位下、従四位下、淡路守、中務大輔、侍従
播磨龍野5万1千石

先代安親の二男で、兄安教の早世により安親の嗣子となり、天明4年(1784年)4月安親の隠居によって、17歳で襲封した。
天明6年(1786年)関東諸河川普請手伝、翌7年には播磨国林田藩で起きた一揆の鎮圧に藩兵を出動させた。
寛政2年(1790年)に奏者番となったが、安薫は幕閣への志たかく、ために将軍家斉好みの服装や髪をして登城し、家斉の目にとまったという。
翌寛政3年には寺社奉行を兼帯し、享和3年(1803年)に谷中延命院事件を裁く。同事件は日蓮宗延命院住持日道が多数の大奥女中と密通したスキャンダルで、日道は処刑された。
文化3年(1806年)7月には西本願寺の教義を巡る争論、いわゆる三業惑乱事件を裁断し、西本願寺の能化、智洞を遠島とした。
また文化8年(1811年)2月には西本願寺・興正寺本末論争を裁断するなど、寺社奉行として辣腕をふるったが、文化10年(1813年)12月に奏者番、寺社奉行を辞任。病気とも讒言ともいう。
文政12年(1829年)10月将軍の命で再び寺社奉行に登用される。但馬国出石藩仙石家に起きた仙石騒動の裁定を任された。
この寺社奉行再任には「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」という落首がされた。貂の皮は脇坂家の槍の鞘に使われ、有名であった。風紀が乱れていた寺社関係者は安薫の再任に震え上がったのだった。
天保6年(1835年)12月に仙石騒動を裁断し、翌天保7年2月西の丸老中格、同年9月に願譜代から譜代となり、天保8年(1837年)7月本丸老中、天保12年2月24日に74歳で死去した。
安薫は藩政でも、価定方役所を設けて物価の安定を図り、文化2年(1805年)には江戸藩邸に藩校敬楽館を設け、天保5年(1834年)龍野に文武稽古所を建て人材育成に努めている。

脇坂安宅 わきさかやすおり
1809~1874(文化6~明治7)、幼名友吉、織部、従五位下、従四位下、淡路守、中務大輔、侍従
播磨龍野5万1千石

先代安董の長男であったが、庶子であったために正室の子である弟安坦(やすひら)が安董の嗣子となった。
しかし安坦が天保9年(1839年)に死去してしまったために、安宅が嗣子になり、天保12年(1841年)安董死去により家督となった。
天保14年(1843年)10月奏者番、弘化2年(1845年)5月に寺社奉行兼帯となる。さらに嘉永4年(1851年)12月京都所司代となった。
所司代時代の安政元年(1854年)4月に御所が炎上し、そのときの孝明天皇守護及び火災後の復旧に尽力し、その功によって孝明天皇より太刀及び茶室を賜った。
安政4年(1857年)9月に老中となり外国掛となたったが、万延元年(1860年)11月に病気により辞任した。これは同年3月の桜田門外の変による引責ともいう。
文久2年(1862年)4月22日に隠居して家督を安斐に譲ったが、翌5月に再び老中に登用され、外国掛、日光御霊屋惣奉行、将軍上洛御用掛などを担任した。同年9月に病気により老中辞任、明治7年正月10日に66歳で死去。
藩政では、財政窮乏により弘化元年(1844年)から上級藩士の禄高2割削減、諸事倹約を実施したが、年貢増微により嘉永2年(1849年)に農民一揆が起きた。
教育面では安政3年(1856年)に藩校敬楽館に学生寮を設置して、教育の拡充に資した。

脇坂安斐 わきさかやすあや
1839~1908(天保10~明治41)、幼名鎮三郎、正三位、淡路守
播磨龍野5万1千石

伊勢津藩主藤堂高猷の四男として生まれ、先代安宅の長子寿之助幼少の為に、安政5年(1858年)安宅の養子となった。文久2年(1862年)4月安宅の隠居により封を継いだ。
幕末期にあたり佐幕派として摂津国海浜の警備を担当し、第一次長州征伐では岩国城を攻撃した。第二次長州征伐にも出動したが、病気を理由に進撃を止め、その後帰国した。
戊辰戦争では新政府軍に恭順し、幕府方についた姫路藩への攻撃に備えたほか、会津方面にも出兵した。
明治2年(1869年)版籍奉還により龍野藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県により免官、明治41年2月27日に70歳で死去した。

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