歴史の勉強

秀吉に仕えて伊勢上野で大名となった分部光嘉は、関ヶ原役のおりに伊勢安濃津城の戦いで功を挙げて2万石となり、二代光信は大坂の陣後に近江国大溝に移され、十三代光謙の時に廃藩置県となった。
分部氏の出自は藤原南家工藤氏流であるとし、工藤祐経の子孫光直が伊勢国安濃郡分部村に居住して、分部を称したことに始まるという。
光直の孫の光高が伊勢長野氏の藤定に仕えて活躍したが、光高には子がなく伊勢の豪族細野藤光の二男光嘉を養子に迎えた。そのころ長野氏の家督は、藤定が無嗣で死去したために織田信包をして継いでおり、光嘉も最初信包に仕えて伊勢国上野城代となった。
文禄3年(1594年)に信包が近江に移ってからは、秀吉の直臣となり伊勢上野城主となるのである。出自については清和源氏とも、在原氏の流れであるという説もあるが、工藤氏の後裔という説が有力とされている。

分部光嘉 わけべみつよし
1552~1601(天文21~慶長6)、幼名四郎次郎、従五位下、左京亮
伊勢上野2万石

天文21年に細野藤光の二男として安濃津で生まれる。細野家は伊勢長野氏の五分家の一つで、同じく長野氏の分家であった分部家の光高に子がなかったために、分部家の養子となった。
永禄10年(1567年)北畠氏との羽野合戦で初陣し功を挙げたが、養父光高はこの合戦で戦死した。やがて伊勢に織田信長が侵攻してくると信長に接近し、後嗣のなかった長野家の養子に信長の弟信包を迎えて和睦を図った。
光嘉は信包家督に奔走し、上野城に信包を迎えてその家老となり、安濃津城築城の指揮を執った。さらに国内の反信包勢力であった細野藤敦や雲林院祐基を討伐し国内の安定に寄与した。
文禄3年(1594年)に信包が近江に移されると秀吉に仕えて伊勢国飯野、度会、一志郡内で3千石を得た。慶長2年(1597年)5月には5千石で上野城主となり、従五位下、左京亮に叙された。
翌慶長3年にさらに加増されて1万石となり大名となった。家康の推薦で秀吉の赤布衣衆となったという。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役では東軍に属して会津征伐軍に加わったが、石田三成の挙兵で伊勢に帰国し、富田知信とともに安濃津城に籠城した。
安濃津城は西軍の攻撃で開城し、光嘉は知信とともに敗戦の責を負い高野山に入って謹慎した。戦後に安濃津城籠城戦の戦功で1万石を加増されて2万石となたったが、籠城戦での傷が悪化し、慶長6年11月29日に50歳で死去した。

分部光信 わけべみつのぶ
1591~1643(天正19~寛永20)、幼名竜之助、従五位下、左京亮
伊勢上野2万石→近江大溝2万石

先代光嘉の嫡男光勝は光嘉に先立ち慶長4年に病死したために、光信が養子となった。光信は光嘉の女と長野次右衛門正勝(織田信包にしたがって尾張から入った恒川広勝の嗣子)の子であった。
慶長6年(1601年)に光嘉が死去すると家督を継ぎ、慶長8年(1603年)二条城普請、翌慶長9年彦根城普請、慶長12年(1607年)駿府城普請など多くの公役を負担した。
大坂の陣では本多忠政の下に属して首級60余りをあげる活躍をした。元和5年(1619年)8月に徳川頼宣が紀伊に入ると上野藩領も全て紀伊家領となるため上野藩は廃藩となり、光信は近江大溝に転封となった。
寛永10年(1633年)に諸国巡見使に起用され常陸、陸奥、出羽、松前に赴き、寛永11年(1634年)には比叡山諸堂造営の奉行を勤めた。寛永20年2月22日に53歳で大溝にて病死した。

分部嘉治 わけべよしはる
1627~1658(寛永4~明暦4)、幼名徳千代、従五位下、伊賀守
近江大溝2万石

先代光信の三男として生まれ、初名を光郷という。2人の兄が早世したために嫡子となり、寛永20年(1643年)父光信の死去により家督を継いだ。
明暦4年7月9日深夜、池田長重と対談中に口論となり刃傷、長重は即死し嘉治も翌日死去した。32歳であった。
池田長重は嘉治の正室である池田出雲守長常女の叔父で、京都で浪人中であった。

分部嘉高 わけべよしたけ
1648~1667(慶安元~寛文7)、幼名万千代、従五位下、若狭守
近江大溝2万石

先代嘉治の長子で、明暦4年(1658年)に父嘉治が不慮の死を遂げ、万治元年(1658年)閏12月に家督を許され襲封した。
寛文4年(1664年)に洪水によって凶作となり、嘉高は郷の義弘の刀を将軍家綱に献上して黄金400枚を得て救済に充てたという。
寛文7年6月12日にわずか20歳で死去したが、その治世は若年ながら民を思う善政であった。

分部信政 わけべのぶまさ
1652~1714(承応元~正徳4)、幼名甚三郎、従五位下、隼人正、若狭守
近江大溝2万石

旗本池田長信の三男として承応元年に生まれ、寛文7年(1667年)に先代嘉高の死去により、その急養子となり家督を継いだ。
延宝4年(1676年)に水害により大きな被害を受け、参勤交代を延期するほどだった。元禄8年(1695年)に本多重益改易により丸岡城を守衛した。
正徳4年6月23日に病気により嫡子光忠に家督を譲ったが、同年12月18日に大溝で病没した。63歳であった。

分部光忠 わけべみつただ
1698~1731(元禄11~享保16)、幼名熊之助、従五位下、左京亮
近江大溝2万石

先代信政の子で、兄で嫡子であった信秋が信政に先立って死去したために、光忠が嫡子となった。正徳4年(1714年)6月に信政が病気のために致仕し、光忠が襲封した。享保16年3月14日に34歳で死去した。

分部光命 わけべみつなが
1714~1783(正徳4~天明3)、幼名熊之助、従五位下、和泉守、若狭守
近江大溝2万石

先代光忠の長男で、享保16年(1731年)父光忠の死去により家督を継いだ。宝暦4年(1754年)9月7日に病により長子光庸に家督を譲り、大溝や有馬温泉で病気療養した。天明3年11月22日に70歳で死去。

分部光庸 わけべみつつね
1734~1790(享保19~寛政2)、幼名甚三郎、従五位下、隼人正、若狭守
近江大溝2万石

先代光命の長男として大溝に生まれた。宝暦4年(1754年)9月7日、光命が病により致仕し光庸が家督を継いだ。宝暦10年(1760年)女院使接待役、明和2年(1765年)勅使接待役などを勤め、天明5年(1785年)3月10日に病により家督を光実に譲る。寛政2年8月26日に57歳で死去。

分部光実 わけべみつざね
1756~1808(宝暦6~文化5)、幼名善次郎、従五位下、左京亮
近江大溝2万石

先代光庸の長子として大溝で生まれた。天明5年(1785年)3月10日に光庸が病により致仕し家督を相続した。
資性温良沈静明主と評判で、城内に藩校修身堂を開設し、天明8年(1788年)には心学者中沢道二を登用して修身の道を説かしめた。
藩財政窮乏により倹約令を布れ、自らも率先垂範したという。また俳句や茶道なども楽しむ風流人でもあった。文化5年4月14日、江戸において53歳で死去。

分部光邦 わけべみつくに
1786~1810(寛政12~文化7)、幼名武吉、従五位下、若狭守
近江大溝2万石

先代光実の二男で、兄で世子であった光弘が光実に先立って死去したために、光実の世子となった。文化5年(1808年)4月光実の死去により、同年6月15日に家督を許された。
文化6年(1809年)8月から翌文化7年8月まで大坂加番を勤めたあと、幕命によって江戸に出府したが、文化7年9月22日に25歳で急逝した。

分部光寧 わけべみつやす
1809~1858(文化6~安政5)、幼名武吉、従五位下、左京亮
近江大溝2万石

文化6年に先代光邦の長男として江戸で生まれ、翌文化7年(1810年)9月に父光邦が急逝したので、わずか2歳で家督を継いだ。
択捉島を探検し書物奉行を勤め罪を得た近藤重蔵を預けられたが、光寧は重蔵を丁重に扱い、重蔵は大溝で江州本草30巻を著している。
天保2年(1831年)3月10日に23歳の若さで養子光貞に家督を譲り隠居し、安政5年7月21日に大溝において50歳で死去した。

分部光貞 わけべみつさだ
1816~1870(文化13~明治3)、幼名虎之助、従五位下、若狭守、従五位上
近江大溝2万石

上野国安中藩主板倉勝尚の二男として文化13年に生まれ、先代光寧の養子となり、天保2年(1831年)3月10日光寧の隠居により家督を継いだ。
文久3年(1863年)8月18日の政変で京都守護を勤め、孝明天皇に賞されて金子を賜った。これ以後大溝藩は新政府軍側に立つ。
明治2年(1869年)版籍奉還により大溝藩知事となり、翌明治3年4月12日に55歳で死去する

分部光謙 わけべみつのり
1862~1944(文久2~昭和19)、幼名作之進、従五位、従四位
近江大溝2万石

先代光貞の二男として生まれ、初名を光明という。明治3年(1870年)4月光貞死去により家督を相続し、同年7月29日に大溝藩知事となった。
しかし藩財政悪化により明治4年(1871年)6月23日に廃藩届けを出し、廃藩置県を待たずに免職となった。昭和19年11月29日に83歳で死去した。
昭和まで生きたが、相続時は版籍奉還後で藩主ではなかったことや廃藩置県前に藩知事を辞任していることなどから、最後の藩主とみなされない場合が多い。

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