歴史の勉強

鈴木重高の後裔が紀伊新宮に大鳥居を建てて鳥居氏を称したのが始まりで、祖先は代々紀伊熊野権現の神職であり、重氏の時に鳥居法眼と呼ばれた。
重氏の子の忠氏が三河国渡里に移り、その17代の孫忠吉が松平清康・広忠父子に仕えたという。忠吉三男元忠は幼少時より徳川家康に近侍し、家康が駿府で今川家の人質となったときに随従し、その後も家康に仕え、家康の関東入国の際に下総矢作で4万石を与えられた。
元忠は関ヶ原の際に家康から伏見城を預かり、石田三成ら西軍の猛攻をよく支え戦死した。家康は戦後、嫡子忠政に6万石を加増し元忠に報いた。
出羽山形で24万石を領するまでになったが、無嗣断絶となる。しかし、元忠の勲功により絶家は免れ特別に相続が認められ、小藩の藩主ではあったが幕末まで続いた。

谷村藩鳥居氏のページ
大名騒動録・鳥居氏のページ

鳥居元忠 とりいもとただ
1539〜1600(天文8〜慶長5)、幼名彦右衛門
下総矢作4万石

徳川家康の家臣で、鳥居忠吉の三男。家康が駿府で今川家の人質となったときに随従し、以後家康の側にあり、元亀元年(1570年)の姉川の合戦、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の合戦に従軍する。
元亀3年3月に父忠吉が死去、長兄忠宗は早世し、次兄は出家していたために、元忠が家督を継いだ。
家督相続後も天正3年(1575年)の長篠の戦をはじめ、高天神城攻め、甲斐平定に出陣し、家康の秀吉臣従後は、家康とともに小田原攻めに参陣、岩槻城を攻めた。家康の関東入部後は下総矢作4万石を与えられた。
会津討伐の際、家康は伏見城の留守を元忠に預けた。会津討伐で家康が諸将を率いて東征すれば、その隙に石田三成が挙兵するのは目に見えており、その時には畿内にある唯一の徳川の拠点である伏見城に猛攻撃が加えられるのは必至であった。
だが、一人でも多くの兵を決戦兵力にとっておきたい家康は、伏見城には多くの兵を残すわけにいかなかった。
さらに援軍は望めず、最後は落城するしかない運命の中、伏見の守将は少ない兵で一日でも長く戦ってくれる勇将でなければならなかった。
家康は会津に向かう途中、伏見城に二泊し、その時に元忠と一夜酒を酌み交わし、落涙したという。
幼少の頃から家康とともにあった元忠は、よく家康の心を察し奮戦した。7月19日から始まった西軍による伏見城総攻撃は、元忠らの必死の防戦により難渋し、落城は8月1日。元忠に与えられた兵はわずか1千8百しかなく、この兵で12日間も西軍の猛攻を防いだ。
元忠は落城とともに自刃し、62歳の生涯を閉じた。戦後家康は元忠の嫡子忠政に6万石を加増し、陸奥岩城10万石とし、元忠に報いた。

鳥居忠政 とりいただまさ
1566〜1628(永禄9〜寛永5)、幼名新太郎、従四位下、左京亮
下総矢作4万石→陸奥岩城12万石→出羽山形24万石

鳥居元忠の二男で父元忠とともに家康に仕え、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで戦功を挙げた。
関ヶ原では父元忠は伏見城留守居で戦死、忠政は会津討伐軍に従い上杉景勝の押さえとして宇都宮に留まる。戦死した父忠政の功に報いるために、家康は忠政に6万石を加増し陸奥岩城に転封、慶長10年(1605年)にさらに2万石を加増される。
その際に将軍秀忠は、伊達に対する押さえとして新城を築くよう命じ、忠政は直ちに築城にかかる。これが平城で忠政はこの築城に12年をかけ、同時に城下町を起こした。
大阪に陣では冬夏両陣とも江戸城留守居、元和8年(1623年)に改易になった最上義俊に替わり10万石を加増され出羽山形22万石に転封となる。
このとき旧最上領は庄内は酒井氏、新庄は戸沢氏、上山は松平(能見)氏にそれぞれ与えられたが、いずれも鳥居氏とは縁故関係があり、鳥居一党として奥羽の押さえの役目が与えられていたらしい。
寛永3年(1626年)に寒河江2万石を加増され合わせて24万石となった。忠政は馬見ヶ崎川の流路を変えて洪水を防ぎ、山形の城下町の整備を行たったが、最上氏時代の寺社領を圧迫し、とくに山寺立石寺とは争いになった。
寛永5年9月5日山形で死去、63歳。

鳥居忠恒 とりいただつね
1604〜1636(慶長9〜寛永13)、幼名新太郎、従四位下、伊賀守、左京亮
出羽山形24万石

先代忠政の長男で寛永5年(1628年)父の死去により家督を継いだ。病弱で公役を努めえず、藩主在任8年目の寛永13年7月7日に33歳で病没した。
嗣子を定めず死去したため無嗣断絶となったが、幕府は祖父元忠の功績大なるをもって、異母弟忠春に信濃高遠3万石をもって鳥居の嗣を継がせた。
忠恒は、新庄戸沢家に養子に出した実弟定盛を末期養子に迎えようとしたが幕府はこれを認めず、異母弟忠春の母とは不仲であったために忠春の相続を願わず、そのために嗣子を定めず死去した。このため幕府はいったん領地を収公、改めて上記の処置をとった。

鳥居忠春 とりいただはる
1624〜1663(寛永元〜寛文3)、幼名鶴之助、鶴千代、従五位下、主膳正
信濃高遠3万石

先々代忠政の三男で、先代忠恒の異母弟にあたる。先代忠恒は忠春の母とは不仲であったために忠春への相続を願わず、そのため無嗣断絶となった。しかし、藩祖元忠の功績をもって特に忠春に信濃高遠で3万石を与え、鳥居の嗣を継がせた。
忠春は暴君であったらしく乱行を重ね、諫言した重臣を手打ちにし、その圧政から農民が逃散したという。
寛文3年8月1日大阪加番中に、侍医松谷寿覚に切り付けられ、その傷がもとで死去した。40歳であった。

鳥居忠則 とりいただのり
1646〜1689(正保3〜元禄2)、幼名彦右衛門、従五位下、兵部少輔、左京亮
信濃高遠3万石

先代忠春の長男として生まれ、寛文3年(1663年)父忠春死去により18歳で家督を相続。元禄2年馬場先門門番のときに番士高坂権兵衛が不祥事を起こし、そのために閉門を命じられた。
忠則はこれを恥じて、自害したという。そのため所領は没収されたが、藩祖元忠の功績に免じ長男忠英に能登下村で1万石が与えられた。
元禄2年7月23日死去。享年 44。

鳥居忠英 とりいただてる
1665〜1716(寛文5〜享保元)、幼名采女、従五位下、播磨守、伊賀守
能登下村1万石→近江水口2万石→下野壬生3万石

先代忠則の長男として生まれたが、忠則は元禄2年(1689年)に家臣の不祥事で閉門逼塞となり、それを恥じて自害したために領地は収公された。
しかし、藩祖元忠の功績により、長男忠英に能登のうちで1万石が与えられ、下村藩が立藩され、元禄8年(1695年)に1万石が加増され2万石を持って近江水口に移封された。
忠英は、宝永2年(1705年)奏者番兼寺社奉行、正徳元年(1711年)若年寄となった。翌正徳2年に1万石を加増され、封地を下野・下総・大和・播磨に移されて下野壬生に移る。
享保元年3月21日53歳で死去した。

鳥居忠瞭 とりいただあきら
1681〜1735(天和元〜享保20)、幼名熊千代、従五位下、丹波守
下野壬生3万石

先々代忠則の五男として生まれ、先代の兄忠英の男子がいずれも早世したために、忠英の養子となった。享保元年(1716年)兄忠英死去により家督を相続。
享保20年4月27日壬生において55歳で死去した。

鳥居忠意 とりいただおき
1717〜1794(享保2〜寛政6)、幼名熊千代、従五位下、従四位下、伊賀守、侍従
下野壬生3万石

先代忠瞭の長男で、はじめ忠胤、のちに忠孝と名乗る。享保20年(1735年)父の死去で家督を継ぎ、延享4年(1747年)奏者番、宝暦2年(1752年)兼寺社奉行、宝暦10年(1760年)若年寄となるが同年将軍家重逝去により辞任。
宝暦12年(1762年)に再び奏者番兼寺社奉行となり、天明元年(1781年)に若年寄、天明6年(1786年)老中に列した。
寛政6年7月18日78歳で逝去。

鳥居忠Z とりいただてる
1777〜1821(安永6〜文政4)、幼名Z三郎、従五位下、丹波守
下野壬生3万石

先代の忠意の嫡子忠見が父忠意に先立って死去したために、忠見二男の忠Zは嫡孫継承した。
文化12年(1815年)奏者番に列したが、文政4年7月27日江戸において45歳で死去した。

鳥居忠威 とりいただあきら
1809〜1826(文化6〜文政9)、幼名直之助、Z三郎、従五位下、丹波守
下野壬生3万石

先代忠Zの二男として生まれ、はじめ忠章といい後に忠威に改めた。文政4年(1821年)に父の死去で家督を継いだが、在任わずか5年目の文政9年11月11日18歳で死去した。

鳥居忠挙 とりいただひら
1815〜1857(文化12〜安政4)、幼名国之助、従五位下、丹波守
下野壬生3万石

先々代忠Zの四男として江戸で生まれ、兄忠威の養子となった。文政9年(1826年)兄忠威の死去により家督を継いだ。天保8年(1837年)奏者番、嘉永4年(1851年)若年寄となたったが、安政4年7月25日43歳で病死した。

鳥居忠宝 とりいただとみ
1845〜1885(弘化2〜明治18)、幼名丈助、従五位下、丹波守
下野壬生3万石

先代忠挙の三男として生まれ、安政4年(1857年)に父忠挙の死去により13歳で家督を継いだ。幕末が近く世上騒然とする中、周辺に無頼の徒が横行したために幕命により出兵、常陸筑波から笠間付近で賊を掃蕩し将軍家より賞される。
明治3年(1870年)9月25日、すでに版籍を奉還し壬生藩知事となっていたが、病気により養子忠文に家督を譲り知事を辞任、明治18年7月23日壬生にて死去。享年 41。

鳥居忠文 とりいただぶみ
1847〜1914(弘化4〜大正3)、幼名久菊、右近、従五位下
下野壬生3万石

先々代忠挙の五男として生まれ、明治3年(1870年)に兄忠文が病気で壬生藩知事を辞任したためにその跡を継ぐ。
明治4年に廃藩となり知事を免じられ、のちに子爵に叙され貴族院議員となる。大正3年10月に68歳で死去した。

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