歴史の勉強

富田氏はトミダ、トダとも読み宇多源氏佐々木氏庶流で、出雲と隠岐両国の守護であった佐々木義清の二男泰清の四男義泰が、出雲国富田(とだ)荘に住し、富田を名乗った。
義泰の子の師泰が富田城を築き、この城はのちに戦国大名尼子氏の居城となった。師泰の跡を継いだのは二男秀貞で、秀貞-直秀-重知-助知と続いて、次が信広である。
直秀までは富田城に拠ったというが、重知のときに尼子経久により城を奪われ没落し、その後近江に流れ、そこで生まれた信広は信長に仕えた。
信広は信長没後秀吉の属して伊勢津城主となり、信広の致仕により信高(知信)が家督を継いだ。関ヶ原役で信高は東軍に属して津城に籠城し、戦後は伊予板島(宇和島)11万石余に加転封されたが、坂崎直盛との争論により慶長18年(1613年)に改易となった。
信高の長男知幸は水戸家の家臣となり、二男知儀は五代将軍綱吉に取り立てられて旗本として続いた。

大名騒動録・富田信高のページ

富田信広 とみたのぶひろ
?~1599(?~慶長4)、従五位下、左近将監
伊勢津5万石

富田助知の嫡男とされ、長家あるいは知治ともいい、晩年は一白と号した。名乗りは知信ともされるが、知信は次の信高の初名とする説が有力である。
はじめは信長に仕えていたが、本能寺の変で信長が没すると秀吉に仕えて重用された。とくに外交交渉に手腕を発揮し、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは伊賀神戸城や伊勢木造城の守衛にあたった後、織田信雄と秀吉との和睦交渉に奔走した。
戦後の家康と秀吉の妹朝日姫の縁談の交渉にもあたったほか、天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏直への使者となり、奥羽仕置では伊達政宗との交渉を担当した。
天正18年には上山城主として2万石を領していたが、文禄慶長の役にも参陣、伏見城築城にも功績があり、文禄4年(1595年)2月に伊勢安濃郡2万石を加増された。
この2万石は嫡子信高(当時は知信)に分与され、同年7月に伊勢津(安濃津)5万石の領主となった。このうち2万石は信高分として、秀吉からの朱印状は父子への連名であったという。
慶長元年(1596年)ころから秀吉のお伽衆として側に侍したが、そのころには秀吉側近の石田三成とは反目していたとされる。
秀吉没後は家康に接近したが、慶長4年(1599年)初頭から衰弱し、隠居して嫡子信高に家督を譲り、ほどなく同年10月28日に死去した。

富田信高 とみたのぶたか
?~1633(?~寛永10)、幼名平九郎、従五位下、信濃守、従四位下
伊勢津5万石→伊予板島10万1千石

先代信広の嫡子として生まれ、初名は知信といったというが、知信は信広の名であるとする説もある。
知信のあと知治と改名し、信高と称したのは伊予板島に移封後であり、また知勝と称していた時期もあったともいうが、信高という名で呼称されるのが一般的である。
天正16年(1588年)に秀吉の近習となり、文禄3年(1594年)に従五位下信濃守に叙任され、翌文禄4年には伊勢安濃郡内2万石を得た。
この2万石は父信広に対して与えられたものを分与されたもので、のちに父信広が伊勢津5万石を与えられたときにも、朱印状は父子連名で宛てられていた。
父信広は秀吉側衆として石田三成と反目しており、そのこともあって秀吉没後は家康に接近し、慶長4年(1599年)に信広の隠居により津5万石を相続した。
関ヶ原役では当初会津征伐軍に加わったが、西軍により伊勢国攻撃に備えて分部光嘉(伊勢上野)、古田重勝(伊勢松坂)らとともに急遽帰国し、分部光嘉とともに居城津城に籠城した。
津城は西軍の攻撃で開城し、信高は光嘉とともに敗戦の責を負い高野山に入って謹慎した。信高の妻が手槍をふるっての活躍もこの籠城戦でのことである。
戦後に津城籠城戦の戦功で2万石を加増され城下の復興に取り組んだが、慶長13年(1608年)9月に伊予板島10万1千石に加増転封となり、板島丸串城に居した。
板島では前領主藤堂高虎のあとを受けて、城下の建設整備に尽力したが、慶長18年(1613年)に坂崎直盛と争論になり、改易となった。
直盛は信高の妻の弟であり、争論の直接の原因は殺人事件を起して逐電した直盛の家臣を信高が匿ったこととされるが、当時板島では運河の開削工事に農民を酷使しており、そのことも改易に繋がったともいわれている。
改易後は陸奥岩城平の鳥居忠政に預けられて、寛永10年2月29日に死去した。

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