歴史の勉強

田沼氏の出自は、藤原北家といわれており、佐野庄司成俊の孫重綱が下野国安蘇郡田沼村に住して姓とした。
有名な田沼意次の父意行は紀州藩士であった。当時の紀州藩主は徳川吉宗で、吉宗が享保元年(1716年)に将軍になると、意行もそれに従い江戸に随従した。
この時に紀州から吉宗に従えたのは200名余りというから、それなりに信任されていたらしく、江戸では将軍吉宗の小姓となった。
精勤して小納戸役頭取となり600石取りの旗本、官位は従五位下主殿頭という出世を遂げた。このおかげで子の意次は世子家重の小姓となった。
意行の死去によって家督を継いだ意次はその後破格の出世を遂げ、遠江相良5万7千石の大名となり、老中になって幕政を主導し世に田沼時代と呼ばれる時代を作り上げた。
九代将軍家重から次代の家治の代にかけて田沼時代は続くが、家治の死去によって意次は失脚し、隠居させられる。その嗣は孫の意明が継ぎ陸奥下村1万石に左遷され、その後遠江相良1万石に復帰し明治に至る。

田沼意次 たぬまおきつぐ
1719~1788(享保4~天明8)、幼名竜助、従四位下、主殿頭、侍従
→遠江相良5万7千石

田沼意次は、享保4年に父意行の嫡子として生まれ、享保19年(1734年)に将軍吉宗の世子で、のちに九代将軍になる家重の小姓となった。翌永享20年に父意行の死去により家督を継いだ。
元文2年(1737年)家重が将軍になると小姓として本丸に移り、延享4年(1747年)小姓組番頭、寛延元年(1748年)番頭、宝暦元年(1751年)に御側御用取次となる。
寛延元年(1748年)に1千4百石、宝暦5年(1755年)5千石、宝暦8年(1758年)5千石と度々加増されて万石に達し、遠江相良藩主となった。
宝暦10年(1760年)に家重が隠居し、家治が十代将軍になるとさらに信任厚く、明和4年(1767年)御側用人、従四位下叙任、明和5年(1768年)には天守閣を備えた相良城を完成させた。
さらに明和6年(1769年)老中格、安永元年(1772年)には老中となり、家重時代からの老中松平武元が明和8年(1771年)に死去して以後は権勢並ぶものはいなくなった。加増も度重なって天明5年にはその采地は、5万7千石に達した。
わずか6百石であった意次が異例の出世を遂げた裏には、家重・家治の信任を得たこと、権門と縁故を結んだこと、大奥を味方につけたことが挙げられる。
権門との結びつきは、弟意誠を御三卿の一橋家の家老とし、それにより一橋治済の子の家斉を家治の世子とし、意次の長男意知には松平康福の女を娶り若年寄とした。またほかの男子も各大名の養子にいれ、娘も有力譜代大名に嫁がせている。
意次が老中を務めた時代を俗に田沼時代と称するが、賄賂政治の代名詞に使われるほどで、田沼家の門前は贈賄者が市をなすほどであった。
意次の政策はそれまでの重農主義を否定し、重商主義を導入した。すでに新田開発はほとんどされつくし、大幅な年貢増は期待できず、そのために商業に目を向けて商品の流通を統制し、その過程で運上(税)を徴収するという積極的な商業資本の利用で財政の安定を図った。
銅・鉄・真鍮から朝鮮人参まで多くの座を組織し幕府の専売とし、農村にも株仲間を公認して営業独占の特権を与え、運上金・冥加金を課した。
新田開発にも商業資本を導入して印旛沼・手賀沼の干拓を進めたし、蝦夷地の開発にも着手した。
藩政も商業資本を積極的に導入した政策で臨み、養蚕・ハゼ栽培、瓦業の拡充、相良港の整備拡張などを行なった。
だが、これらの積極策は商人は富ませたが武士の困窮を招き、印旛沼干拓の失敗やさらには浅間山の噴火による天明の飢饉への対処の失敗などの失政も重なって武士階級の不満を誘った。
さらに嫡子意知が天明4年(1784年)に佐野善左衛門から多額の賄賂を受けながら約束を履行せず、その恨みから佐野善左衛門に刃傷に及ばれて殺されのを機に権勢は急速に衰えた。
天明6年(1786年)に老中を罷免され、同年に家治が没すると隠居謹慎を命ぜられ、松平定信が老中首座となると所領は次々と没収されて翌天明7年には相良城も没収棄却され、失意の中天明8年7月24日70歳で死去した。

田沼意明 たぬまおきあき
1773~1796(安永2~寛政8)、幼名竜助、従五位下、淡路守
遠江相良5万7千石→陸奥下村1万石

世に田沼時代といわれ、権勢並ぶものなき権力者であった老中田沼意次は、重商主義を取り入れた政策を行なったが武士階級の不満を誘い、天明に大飢饉への対処に失敗、さらに嫡子意知が江戸城中で刃傷に及ばれ死亡する事件がおき、将軍家治の重病によって老中を解任されて失脚、隠居謹慎となった。
領地も次々に没収され、遠江相良の城地も収公されて徹底的に破壊された。
田沼の家督は意知の子の意明に継がれ、同時に陸奥下村1万石に減知転封となった。しかし遠慮中の身であり、暫くは叙位叙官もなく将軍にも拝謁できず江戸屋敷で謹慎していた。
さらに幕命により川欠普請御用金6万両の上納を命じられたが、これは老中首座松平定信の策略によるものといわれる。
松平定信の失脚によって謹慎は解けたが、寛政8年9月22日に24歳の若さで死去した。

田沼意壱 たぬまおきかず
1780~1800(安永9~寛政12)、幼名万吉・万之助、従五位下、左衛門佐
陸奥下村1万石

田沼意次の長子意知の二男で先代意明の弟にあたる。兄意明が寛政8年(1796年)に死去したために家督を継いだが、病弱で在任わずか4年の寛政12年9月17日に21歳で死去。

田沼意信 たぬまおきのぶ
1782~1803(天明2~享和3)、幼名鎌之丞、従五位下、主計頭
陸奥下村1万石

田沼意次の長子意知の四男で先々代意明、先代意壱の弟にあたる。兄意壱は在任わずか4年で死去したために家督を継いだが、意信も病弱であり在任3年の享和3年9月12日に22歳で没した。

田沼意定 たぬまおきさだ
1784~1804(天明4~文化元)、幼名幾之助、従五位下、主計頭
陸奥下村1万石

田沼意次の弟意誠の子意致の二男として生まれ、宗家の系統が病弱で次々と死去するため田沼の家督を継いだが、意定も病弱で、在任9ヶ月の文化元年7月26日に21歳で病死してしまう。

田沼意正 たぬまおきまさ
1759~1836(宝暦9~天保7)、従四位下、玄蕃頭
陸奥下村1万石→遠江相良1万石

田沼意次の二男で沼津藩主の水野忠友の養子となったが、意次の失脚によって離縁されて田沼家に戻った。田沼家はその後当主が次々と若死にしたために、意正と改名して嗣を継いだ。
文化3年に大番頭、文政2年西の丸老中、文政5年若年寄となり、老中水野忠成の腹心となって田沼家は幕閣へ返り咲き、文政6年には父意次の旧領遠江相良への転封を願い出て許された。
これは意次に業務上の失態があったわけではなく、意正もなかなか人物であったとの幕府重臣の判断であったといわれる。
文政8年には側用人になり、天保7年8月24日78歳で死去した。

田沼意留 たぬまおきとめ
?~1861(?~文久元)、幼名金弥、従五位下、備前守
遠江相良1万石

先代意正の嫡男で天保7年(1836年)意正の死去により家督相続。しかし在任4年の天保11年(1840年)に隠居して嫡子意尊に家督を譲り、文久元年に没。

田沼意尊 たぬまおきたか
1819~1869(文政2~明治2)、幼名金弥、従五位下、玄蕃頭
遠江相良1万石→上総小久保1万石

先代意留の嫡男で天保11年(1840年)に父意留の隠居によって家督を継いだ。元治元年水戸天狗党の乱では幕府追討使として幕府軍を指揮して鎮圧にあたる。
明治元年(1868年)に徳川家達が駿府70万石に入封すると、相良の地は駿府藩領に組み込まれた。そのために上総小久保に転封となる。翌明治2年に版籍奉還となって小久保藩知事、その後藩校盈進館を創設した。
その直後の明治2年12月25日に52歳で死去した。

田沼意斎 たぬまおきなり
1855~?(安政2~?)、従五位下
上総小久保1万石

武蔵岩槻藩主大岡忠恕の子で先代意尊の養子となり、明治2年(1869年)意尊の死去により家督を継いだ。
先代意尊の遺志を継ぎ藩校盈進館の発展拡充に努め、明治4年(1871年)の廃藩置県を迎えた。

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