歴史の勉強

田中氏の出自についてははっきりしたことはわかっていないが、寛政重修諸家譜によれば、橘氏の末という。左衛門尉重信が近江国高島郡田中に住し田中氏を名乗り、代々その地を領していたらしいが、この辺も諸説あって浅井郡に移ったとも、田中に住したのは重信とも言われ一定しない。また、豊臣秀吉に取り立てられ大名となった吉政の父も実氏とも宗弘ともいう。
いずれにしても近江出身であることはほぼ間違いないようだ。吉政の頃、田中家は百姓と変わらぬ生活をしていたようだ。吉政はその頃久兵衛といっていたが、一念発起して武士になる決心をし宮部継潤に仕えた。
その後吉政は秀吉に仕え、秀次付きの家老となった。秀次失脚の際に吉政はなんら咎めもなく、かえって加増されたほどだ。関ヶ原では東軍について奮戦、石田三成を捕虜にする大手柄を立て一躍筑後柳河で32万石を領する大大名になったが、二代忠政が無嗣で死去断絶した。

田中吉政 たなかよしまさ
1548〜1609(天文17〜慶長14)、久兵衛、従四位下、兵部大輔、侍従、筑後守
三河岡崎10万石→筑後柳河32万5千石

出生地には諸説あって近江高島郡とも浅井郡ともいわれるが、いずれにしても農民層出身である。
その後、浅井郡宮部村の国人領主宮部継潤に仕えるようになり、さらに天正7年(1579年)ころ羽柴秀吉に登用され、秀吉の甥の三好秀次の家老につけられた。
このころの羽柴家は、長浜時代で信長により中国征伐を命じられた時期にあたる。
秀次付きの家老になったものに、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊などがいるが、吉政は筆頭格であり、秀次の居城であった近江八幡城で家政全般を仕切った。
天正18年(1590年)には秀吉の小田原攻めに従軍、山中城攻めで奮戦して功績をあげ、秀次の家老の身分のまま三河岡崎7万石の領主となった。この時に城下岡崎の整備を積極的に行っている。
秀次は天正19年(1591年)に秀吉の養子になり関白となったが、文禄2年(1593年)に秀吉に実子秀頼が生まれ、秀吉は秀頼を後継者とするべく秀次のあら捜しをして、結局自害に追い込み、関係者を処分した。
筆頭家老であった吉政も立場からいえば処分の対象者であったが、咎めを受けず逆に3万石の加増されている。
秀吉没後は家康に接近し、会津討伐軍にも従軍、ほかの従軍諸将同様そのまま東軍となった。
小山評議の席での山内一豊の発言がきっかけで、東海道筋に城地のあった諸将は家康に城と兵糧を明渡すことになり、吉政も岡崎城を開け、岡崎には家康家臣の北条氏勝が入り守備した。
関ヶ原本戦では最前線で奮戦、そののち三成の居城佐和山城を攻め、これを開城させた。さらに伊吹山中に潜伏していた三成を捕縛する大手柄をたて、それらの功で筑後柳河32万石の大封を得た。
柳河に入ると柳河城の規模を拡張、五層の天守閣を建てた、城下の整備に力を注いだ。河川の改修や有明海の干拓、有明海沿岸の護岸工事など領内整備も行ったほか、キリスト教に深い理解を示した。自身も帰依して洗礼を受け、バルトロメオの洗礼名をもつ。
慶長14年2月18日に参勤の途中に伏見で死去、享年61。

田中忠政 たなかただまさ
1585〜1620(天正13〜元和6)、従四位下、隼人正、侍従、筑後守
筑後柳河32万5千石

田中吉政の四男として近江に生まれる。幼少時江戸で証人生活を送り、慶長14年(1609年)父吉政の死去により家督を継いだ。
秀忠より忠の字を諱として許され忠政と名乗る。慶長19年(1614年)大坂冬の陣に出陣。翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、家中の不穏分子の平定と財政難で出陣が遅れ、大坂到着時には戦闘は終了、家康の謝罪したうえで江戸で謹慎した。
その後、領内の開墾などに注力したが、元和6年8月7日江戸にて36歳で死去。無嗣であったため断絶し、領地は収公された。


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