歴史の勉強

千姫をめぐる事件で有名な坂崎氏は、もともと宇喜多氏の一族である。梟雄として知られ、宇喜多氏の戦国大名化に成功した宇喜多直家の弟忠家の長男が直盛で、秀吉の五大老の一人宇喜多秀家は従兄弟にあたる。
慶長4年(1599年)の御家騒動の際に、戸川逵安、花房正成、岡利季らとともに主家を離れ、一時は増田長盛に預けられた。
関ヶ原の戦いで東軍に属し、西軍の猛将島勝猛を破る殊勲を挙げて、石見国津和野3万石に移る。坂崎への改姓はこの頃といわれる。
大坂の陣で千姫を救出したとされるが、その再嫁をめぐって幕府に反逆し、改易処分となった。

大名騒動録・坂崎直盛のページ

坂崎直盛 さかざきなおもり
?〜1616(?〜元和2)、従五位下、左京亮、出羽守、対馬守
石見津和野4万石

備前富田城主宇喜多忠家の長男として生まれ、忠家が大坂屋敷に移ったために富山城主となり、宗家の宇喜多秀家を補佐する。
慶長4年(1599年)の御家騒動により戸川逵安らとともに家康の勘気にあい、増田長盛に預けられる。
慶長5年(1600年)6月に家康の上杉征伐に従軍し、さらに関ヶ原役で戸川逵安とともに西軍の猛将島勝猛を破る戦功を挙げて、石見国津和野3万石に封ぜられた。入城後は城の整備強化を図り、紙の増産を企図して楮5万本を植林した。
慶長10年(1605年)に姉婿である伊勢津藩主富田信高を訴えた。殺人事件を起して逐電した直盛の家臣で甥でもある宇喜多左門を信高が匿ったことが原因であった。
このときは証拠不十分で直盛の敗訴であったが、その後に証拠を掴んで慶長18年(1613年)に再度訴えて勝訴となり、直高は改易処分となった。
元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣で、大坂城内から秀忠の娘で豊臣秀頼の正室になっていた千姫の救出に関わり、1万石を加増された。
この千姫の救出にはいくつかの説があり、燃え盛る大坂城に飛び込んで救い出したとの俗説があるが、実際は城から豊臣方の武将に送られて直盛の陣に来た千姫を家康の陣に届けたというのが真相らしい。
このとき家康は千姫と直盛の婚姻の約束をしたが、後日千姫は姫路藩主本多忠刻に嫁ぐこととなったために、怒った直盛は千姫の行列を襲い姫を奪う計画を立て、それを知った幕府は直盛の屋敷を囲み、柳生宗矩が直盛に自害をさせたという。
元和2年9月11日のことで、坂崎氏はこれによって改易となった。

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