歴史の勉強

六郷氏は藤原南家二階堂氏より出ていて、出羽国仙北郡六郷に住したことで六郷を姓としたとする。
二階堂氏の後裔というのは間違いのないところとされるが、鎌倉幕府の御家人であった二階堂氏がいつごろ出羽に入ったのか、いつごろから六郷と名乗ったかなどは明確ではなく、また六郷氏の系図についても諸説あって一致しない。
戦国期には群小豪族の一つであった六郷氏は、周辺のより強豪な勢力である秋田氏や戸沢氏、小野寺氏などに時には従い、時には対立しながら巧みに領地を維持し、豊臣秀吉の奥州仕置によって4千5百18石の知行を安堵される。
関ヶ原役では最上義光のもとで東軍に属し、最上氏と確執を生じて西軍に転じた小野寺氏を攻撃し、戦後その功によって当主六郷政乗は常陸国府中で1万石を与えられ大名に列す。
元和9年(1623年)に1万石加増のうえ出羽由利郡に転封となり、本荘藩主となる。出来星大名の多い江戸期において、小藩主ながら藤原氏流の名家の孫として明治を迎えた。

六郷政乗 ろくごうまさのり
1567~1634(永禄10~寛永11)、幼名長五郎、従五位下、兵庫頭
出羽本荘2万石

六郷氏の祖二階堂氏がいつごろから六郷を名乗ったかは定かではないが、一説に政乗の父道行といわれている。
政乗22歳の時、天正16年に六郷氏は仙北七人衆の一人として、横手城主小野寺義道に属して土崎湊の安東実季と戦ったとされるから、このころには六郷氏は仙北の強豪小野寺氏に属していたものと思われる。
その後、秀吉に服して領地を安堵されたが、太閤検地の結果その所領は4千5百18石というから正式には大名ではなかった。しかし秀吉直参であり、文禄の役では肥前名護屋に出陣している。
秀吉の死後、関ヶ原の際には仙北の諸将は山形の最上義光に属したが、政乗もその一員であった。ところが最初義光に属した横手の小野寺義道が西軍に寝返ったために政乗は秋田氏らとともに義道を攻め、戦後はその功によって加増され、常陸府中1万石となった。
これは常陸を領していた佐竹義宣が徳川氏に敵対的であったことで、常陸から出羽久保田に減知転封され、出羽久保田や仙北の六郷氏、秋田氏、戸沢氏らが入れ替わりに常陸に移った。
大坂の陣にも参陣し、元和9年(1623年)に1万石加増されて2万4百石となり、出羽本荘に転封となった。それまでの本荘は最上氏が領していたが、御家騒動で改易となり、以後明治維新まで六郷氏が藩主として支配した。
政乗は本荘転封10年後の寛永11年4月28日に68歳で死去した。

六郷政勝 ろくごうまさかつ
1609~1677(慶長14~延宝5)、幼名長五郎、従五位下、伊賀守
出羽本荘2万石

先代政乗の長子で、弟政徳、政直、政秀を補佐役にして藩政の基礎固めを行なう。御家騒動により出羽矢島に移された生駒氏との間で金浦、象潟地区と東由利の領地4千6百石余りを交換した。
浅草寺裏にあった本荘藩の江戸屋敷のあたりを象潟町と呼ぶのは、本荘藩領に名勝象潟の地があったからだが、象潟が領地となったのは、この生駒氏との領地交換によってである。
延宝4年(1676年)6月晦日に政信に家督を譲り隠居し、延宝5年正月12日に69歳で死去した。

六郷政信 ろくごうまさのぶ
1635~1685(寛永12~貞享2)、幼名伊織、従五位下、佐渡守
出羽本荘2万石

先代政勝の長子として生まれ、延宝4年(1676年)6月父政勝の隠居により家督を継ぐが、襲封時すでに42歳であり、藩主にあることわずか9年、貞享2年7月21日51歳で死去

六郷政晴 ろくごうまさはる
1675~1741(延宝3~寛保元)、幼名庄之助、従五位下、伊賀守、阿波守
出羽本荘2万石

先代政信の長子で、貞享2年(1685年)政信の死去により11歳で襲封。幼少の為に伯父頼母の後見を受けた。
政晴の治世は49年の長きに及ぶが、その間に旗本仁賀保氏との間に領地を巡る争いが起きている。
これは本荘領の農民が仁賀保領であった冬師山の木を伐ったことで、農民同士の争いから本荘藩と仁賀保氏との争いに発展した。仁賀保氏は公訴したが、幕府の裁定は本荘藩に有利なものであった。この仁賀保氏との争いは7年に及んだ。
政晴は享保20年(1735年)閏3月2日二男政長に家督を譲り隠居し、寛保元年3月27日に67歳で死去

六郷政長 ろくごうまさなが
1706~1754(宝永3~宝暦4)、幼名長之助、民部、従五位下、丹後守、伊賀守
出羽本荘2万石

先代政晴には長男政英(まさふさ)がおり、享保3年(1718年)12月嗣子となったが、病身により享保11年(1726年)嗣子を廃され、代って二男政長が嗣子となった。
享保20年(1735年)閏3月に先代政晴隠居により家督を継いだが、在任19年にして宝暦4年8月5日に49歳で死去した。

六郷政林 ろくごうまさしげ
1737~1797(元文2~寛政9)、幼名弁之助、長之助、従五位下、兵庫頭
出羽本荘2万石

先代政長の弟政陰の子で、宝暦4年(1754年)政長の死去により家督を継いだ。天明3年(1783年)12月に三男政速に家督を譲り隠居、寛政9年9月10日に61歳で没した。

六郷政速 ろくごうまさちか
1764~1812(明和元~文化9)、幼名尚三郎、従五位下、佐渡守
出羽本荘2万石

先代政林の三男で、長兄政展(まさのぶ)が安永5年(1776年)に他界、次兄政声(まさたか)は病弱であったために政林の嗣子となり、天明3年(1783年)12月に政林の隠居によって家督を相続。
享和2年(1802年)本荘城下で大火、文化元年(1804年)に鳥海大地震が発生。この大地震で海底が隆起し、それまで多くの島があった名勝象潟は陸地となって、「陸の松島」と呼ばれるようになった。
天明年間に万沢騒動と呼ばれる百姓一揆が起きる。名主の横暴と不正に百姓が蜂起したもので、藩は名主と組頭の全員を罷免、百姓13人を追放処分にした。
しかし罷免した村役がその後に再任されたり、追放された百姓の中に無実のものがいたために騒動が再燃し、江戸屋敷への越訴となった。
一方で政速は藩士の教育の為に、城内三の丸に藩校修身館を設けた。正速は、文化9年10月26日に49歳で死去。

六郷政純 ろくごうまさずみ
1801~1822(享和元~文政5)、幼名勝吉、従五位下、阿波守
出羽本荘2万石

先代政速の二男で享和元年に生まれた。政速長男政芳は病身であったために政純が家督となり、文化9年(1812年)に政速の死去によって襲封した。
政純の代は藩政改革の時代で、江戸家老内本一九郎により藩士削減、給人所有地の廃止、江戸家老の権限など推進したが、反対派の抵抗が激しく内本は江戸屋敷から逃げ出してしまい、改革派は大量処分の憂き目にあった。
政純は、文政5年8月22日に22歳で死去した。

六郷政恒 ろくごうまさつね
1811~1850(文化8~嘉永3)、幼名繁次郎、従五位下、兵庫頭
出羽本荘2万石

先代政純の兄政芳の子で、文政5年(1822年)政純の死により家督を相続した。天保12年(1841年)に、正徳2年(1712年)以来120年余りに渡って真木山の入会権を巡っての亀田藩との争いが決着した。
弘化4年2月(1848年)病により隠居し、嘉永3年10月16日40歳で死去した。

六郷政殷 ろくごうまさただ
1828~1861(文政11~文久元)、幼名佳之助、従五位下、伊賀守、佐渡守、筑前守
出羽本荘2万石

先代政恒の二男で、長兄の早世により政恒の嗣子となり、弘化4年(1848年)2月政恒の隠居によって襲封した。嘉永4年(1851年)に城下で大火があり、財政悪化により拍車がかかる。
財政の窮乏と幕末の動乱を目前にした、文久元年3月14日に34歳で死去した。

六郷政鑑 ろくごうまさかね
1848~1907(嘉永元~明治40)、幼名鑑丸、長五郎、従三位、兵庫頭
出羽本荘2万石→出羽本荘3万石

先代政殷の長男で、文久元年(1861年)父政殷の死去により14歳で家督を相続した。本荘藩は最初奥羽列藩同盟に加入し薩長軍に敵対したが、のちに久保田藩、亀田藩とともに新政府軍側に立ち、そのために庄内藩の攻撃を受けた。
庄内藩の攻撃に対しては衆寡敵せず、そのうえ武器も旧式であったために、城下に火を放ち撤退した。秋田領内を転戦したあと薩長軍の援軍を得て城下を回復、それらの功をもって1万石の加増を受けた。明治40年7月23日60歳で死去。

武家・大名録の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -