歴史の勉強

家伝では「武蔵七党のうち、畠山重忠が党にして、武蔵国児玉郡大関村に住せしにより家号とす」というから丹治姓、丹党の出とする。
しかしこれは戦国期に大田原氏から高増が養子として入ったことで、大田原氏の出自を系図に加えた結果であり、信用できるものではない。
「那須郡誌」では大関氏の出自を桓武平氏大掾流小栗氏の末としていて、小栗頼重の一族七郎が常陸国小栗御厨庄大関郷に住して以後大関を称したとするし、「下野国誌」も常陸大関郷の出身であるとする。
いずれにせよその出自は明確でないが、室町期初、足利尊氏が弟直義と争った観応の擾乱のとき、大関家清は那須氏に属して尊氏に味方し軍功を挙げ、以後那須七騎の一として活躍する。
下って増次の代に大田原氏と不和となり、天文11年(1542年)に増次は大田原資清に攻められて自刃し大関氏の血脈は絶えた。資清は長子高増を養子として大関氏を継がせ、高増は黒羽に本拠を移し、秀吉に臣従して近世大名への転換に成功した。
高増は関ヶ原役でも東軍に与して6800石を加増されて都合2万石となり、明治維新まで黒羽藩主として代を重ねた。

大関高増 おおぜきたかます
1529~1598(享禄2~慶長3)、美作守

戦国武将大田原資清の長男として生まれた。父の資清は那須七騎のひとりで那須氏に仕え、知勇に優れて那須氏の信任が厚かったが、永正15年(1518年)に同じく那須七騎のひとりであった大関宗増の讒言を受けて失脚し出家した。
天文11年(1542年)に復帰し、宗増の嫡男増次を政略により謀殺し、長男高増を大関氏の養子とした。
永禄3年(1560年)の結城、蘆名氏と那須氏による小田倉の戦いでは、よく那須資胤を援けたが、戦後に苦戦を非難されて那須氏と対立し、佐竹氏に内通した。
永禄11年(1568年)に資胤と和睦し、その後は那須七騎の筆頭的立場となって活躍した。天正4年(1576年)には黒羽城を築き、居城をそれまでの白旗城から移した。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では、那須氏が遅参して改易されたのに対し、高増は逸早く参陣して所領を安堵され独立した大名となった。没年については慶長5年(1600年)説もある。

大関晴増 おおぜきはるます
1560~1596(永禄3~慶長元)、土佐守

先代高増の長男として永禄3年に生まれた。白河義親の養子となったが、天正7年(1579年)に白河氏は佐竹氏に攻められて降伏し、これにより白河氏の家督は佐竹義広に代り、晴増は廃嫡となった。
大関氏では二男清増が嫡子となっていたために晴増は行き場がなくなり、敗れはしたものの戦いぶりを認められて差佐竹義重の客将となった。
天正15年(1587年)に大関氏の嫡子であった清増が急死し、晴増が呼び戻されて嫡子となった。このとき高増から家督を譲られたらしい。
晴増は伊達政宗との戦いなどで活躍し、主家那須氏の名代として上洛して秀吉に謁見するなどし、秀吉の小田原征伐の際には逸早く参陣して所領を安堵された。
文禄の役の際には名護屋に出陣したが病を得て、父高増に先立って病死した。晴増の嫡男政増は幼少であったために弟の資増が家督となった。

大関資増 おおぜきすけます
1576~1607(天正4~慶長12)、幼名弥六郎
下野黒羽2万石

大関高増の三男として生まれた。兄晴増が慶長元年(1596年)に死去した際に、晴増の嫡子政増は5歳と幼少であったために、兄晴増の遺言により資増が相続した。
襲封時は1万3千石であったが、関ヶ原役の際に東軍に与し、上杉軍に対する押えの役割を果たしたことで戦後加増され2万石を領した。これにより黒羽藩を正式に立藩し、その藩祖となる。
慶長10年(1605年)甥の政増に家督を譲り隠居し、慶長12年4月1日に32歳で病没した。

大関政増 おおぜきまさます
1591~1616(天正19~元和2)、幼名平治郎、弥平次
下野黒羽2万石

先々代晴増の嫡男として生まれ、慶長5年(1600年)の関ヶ原役の際には人質として江戸にあった。慶長10年(1605年)に叔父の資増より家督を譲られ、黒羽藩二代藩主になった。
慶長19年(1614年)に安房館山里見氏改易の際には館山城を守備し、同年の大坂冬の陣では本多正信に属して平野口を守った。翌年の大坂夏の陣では落人の首級97級を取ったが、翌元和2年5月30日に26歳の若さで死去した。

大関高増 おおぜきたかます
1611~1646(慶長16~正保3)、幼名右衛門、従五位下、土佐守
下野黒羽2万石

先代政増の嫡男で、元和2年(1616年)に父政増の死去により、わずか6歳で封を継いだ。元和8年(1622年)に出羽山形最上義俊改易の際には山形城を守備し、寛永5年(1628年)日光山普請役、寛永20年(1643年)大坂加番、正保3年8月21日に32歳で江戸において逝去。

大関増親 おおぜきますちか
1635~1662(寛永12~寛文2)、幼名亀松、従五位下、土佐守
下野黒羽1万8千石

先代高増の長男として生まれ、正保3年(1646年)に父高増の死去により襲封した。このとき弟増栄、同増公に千石づつ分与し、藩領は1万8千石となった。
慶安元年(1648年)に芝増上寺普請手伝、慶安3年(1650年)日光山普請、明暦元年(1655年)及び万治元年(1658年)大坂加番、寛文2年4月1日に江戸において28歳で死去。

大関増栄 おおぜきますなが
1639~1688(寛永16~元禄元)、幼名与六郎、従五位下、信濃守
下野黒羽1万8千石

先々代高増の二男として生まれ、正保3年(1646年)の父高増の死去の際に兄増親から下野芳賀郡内に千石の分与を受け旗本となった。
寛文2年(1662年)に兄増親の養子となり、兄の死去により黒羽藩主となった。寛文11年(1671年)大坂加番、その後江戸城各門番や公家下向の馳走役などを勤めた。元禄元年12月13日に江戸において50歳で没した。

大関増恒 おおぜきますつね
1686~1759(貞享3~宝暦9)、幼名大助、従五位下、信濃守、能登守
下野黒羽1万8千石

先代増栄の嫡男増茂の庶長子として生まれ、父増茂が増栄に先立って死去したために増栄の嫡孫となった。元禄元年(1688年)に増栄が死去したためにわずか2歳で家督となった。
江戸城各門番などを勤めた後、元文3年(1738年)3月25日に致仕して家督を二男増興に譲り、宝暦7年(1757年)には得翁と称した。宝暦9年正月17日に江戸において74歳で死去した。

大関増興 おおぜきますおき
1709~1770(宝永6~明和7)、幼名丑之助、従五位下、伊予守、能登守
下野黒羽1万8千石

先代増恒の二男で、故あって幼児期には水野氏を称した。享保6年(1721年)に増恒の嫡子となり、元文3年(1738年)に増恒が致仕したために家督となった。
江戸城各門番などを勤めた後、宝暦13年(1763年)10月10日に致仕して家督を嫡男増備に譲り、明和7年6月26日に江戸において62歳で死去した。

大関増備 おおぜきますとも
1732~1764(享保17~明和元)、幼名直之助、従五位下、因幡守
下野黒羽1万8千石

先代増興の嫡男で、宝暦13年(1763年)に父増興が致仕したために家督となった。
襲封前年の宝暦12年に「政事改正考」を著し、領内の仕法改革を献策した。その根本は財政再建と小農民維持・育成にあった。しかしながら増備は、初入部した明和元年8月27日に33歳の若さで死去してしまった。

大関増輔 おおぜきますすけ
1760~1807(宝暦10~文化4)、幼名弁吉、従五位下、伊予守
下野黒羽1万8千石

先代増備の嫡男として生まれたが、生年には宝暦12年節もある。明和元年(1764年)に父増備が死去したために、わずか5歳(または3歳)で襲封した。幼少のために祖父増興が後見した。
江戸城各門、公家下向の接待役などを勤め、天明7年(1787年)には大坂加番となった。明和5年(1768年)に郷方改役を新設して鈴木武助を登用し、郷村支配における仕法改革に勤めた。
武助は巡村して民意の把握に務め、人口の減少を防ぐために3人目の出生から養育米を支給し、荒地の際開墾や不安定な商品作物から安定的な米・雑穀の生産への誘導を行った。
これは先代藩主増備の改革を受け継ぎ、かつ荒廃した農村の維持・再編成によって安定した年貢の収納を目指したものであるが、反面では農民の土地緊縛強化でもあった。
増輔は享和2年(1802年)8月6日に病により致仕し、家督を嫡男増陽に譲り、文化4年4月22日に45歳(または48歳)で江戸において逝去。

大関増陽 おおぜきますはる
1784~1814(天明4~文化11)、幼名吉太郎、従五位下、美作守
下野黒羽1万8千石

先代増輔の嫡男として生まれ、享和2年(1802年)8月に増輔が病により致仕したために家督となった。
江戸城各門番などを勤めたほか、文化3年(1806年)には大坂加番となった。このころの黒羽藩は財政難のために参勤交代の費用にも事欠き、為に増陽も財政再建に乗り出した。
しかし再建は失敗し、結果的に何の手も打てぬまま文化8年(1811年)11月24日に病により致仕した。改革の失敗により家臣により強制的に隠居させられたとする説もある。
後嗣は伊予大洲藩主加藤泰衛八男増業を養子にしたが、これも持参金目当てによるものといわれる。増陽は文化11年5月2日に31歳の若さで失意のうちに死去した。

大関増業 おおぜきますなり
1781~1845(天明元~弘化2)、幼名舎人、従五位下、土佐守
下野黒羽1万8千石

伊予大洲藩主加藤泰衛の八男として生まれ初名を泰周という。文化8年(1811年)に先代増陽の養子となった。なお増備より増業の方が3歳年長である。
先代増陽は改革に失敗して強制的に隠居させられ、持参金目当てに増業を養子にしたともいわれている。
増業は襲封直後に仰渡書を出して藩政の前面的な刷新を宣言した。その基本は財政再建、なかでも厳しい倹約によると経費削減と積極的な産業政策、並びに商人からの借上であった。
植林事業を始め漆、煙草、木綿、胡麻、麻、牛蒡、蕎麦等々の栽培を奨励し、また積金制度を創設した。積金制度は藩と商人から拠出金を合わせて融資金として士分や商人に貸し出して利殖をすることを目的とした。
さらに城下黒羽河岸を中心に那珂川水運の振興を図ったが家臣の反対にあい、さらに領内の生産性の低さもあって、次第に借上に頼るようになり、結果的に負債を増加させた。
これらにより家臣の反発が強まり、文政7年(1824年)7月8日に隠居を余儀なくされた。事実上の失脚であった。
隠居後は学問に熱中し、藩主時代に著した「創垂可継」をはじめ、隠居後も医学書である「乗化亭奇方」や科学史・技術史書である「止戈枢要」などの著作がある。
弘化2年3月19日に江戸において65歳で死去した。

大関増儀 おおぜきますのり
1811~1865(文化8~慶応元)、幼名寛次郎、従五位下、伊予守
下野黒羽1万8千石

先々代増陽の二男として生まれ、文政5(1822年)に先代増業の養子となった。文政7年(1824年)7月に増業が隠居し家督となった。
増業の隠居は藩政改革を巡る家臣との対立によるものであり、そのために増儀が襲封すると藩政の実権は重役に移った。
この結果、財政再建への道筋が立たれ、政治は保守的となり財政難はますます深刻となり金銭上の腐敗も見られるようになった。
増儀は積極的な手を打たず、天保3年(1832年)駿府加番、天保5年(1834年)大坂加番、天保10年(1839年)再度の大坂加番などを勤め、嘉永元年(1848年)2月21日に致仕して家督を二男増昭に譲った。
隠居後は釣月のちに鶴山と号したが、慶応元年12月13日に江戸において55歳で没した。

大関増昭 おおぜきますあきら
1834~1856(天保5~安政3)、幼名吉之助、従五位下、信濃守
下野黒羽1万8千石

先代増儀の二男として生まれ、兄の早世の為に嫡男となった。嘉永元年(1848年)2月に増儀が病により致仕したために家督となった。
嘉永3年(1850年)に大坂加番を勤めたが、安政3年2月25日に江戸において23歳の若さで没した。

大関増徳 おおぜきますよし
1839~1915(天保10~大正4)、幼名鉚之助、従五位下、能登守、正五位、従四位、正四位、従三位
下野黒羽1万8千石

丹波篠山藩主青山忠良の五男として生まれ、安政3年(1856年)に先代増昭の急養子となり、家督を継いだ。
襲封前後から領内では百姓の不穏な動きが目立ち、安政3年11月にはついに講や無人、高利貸の禁止や借金返済期限の延長、質物返還、国産政策廃止、臨時御用金の取り止め、米の値下げなどを要求して一揆が起きた。
さらに一揆の最大の要求は当時藩政を主導していた大吟味役津田武前の罷免であった。藩兵の出動により一揆は鎮められたものの不穏な動きは治まらず、藩では藩士全員の意見を聞いたうえで百姓の要求をある程度入れた。
一揆の首謀者は処分されたが、藩側でも津田武前をはじめ実力者が罷免され、藩の権威は失墜した。
その後、増徳は妻であった先々代藩主増儀の娘お鉱と不和となり、ついに離縁した。重臣層はこれを御家乗っ取りと批難して増徳と対立し、ついに増徳を座敷牢に監禁、文久元年(1861年)10月9日に強制的に隠居させられた。
座敷牢監禁は明治維新まで続き、維新後の明治20年(1887年)には正五位に叙せられた。大正4年正月27日に77歳で死去した。

大関増裕 おおぜきますひろ
1837~1867(天保8~慶応3)、幼名藤十郎、従五位下、肥後守
下野黒羽1万8千石

遠江横須賀藩主西尾忠善の嗣子忠宝の三男として生まれ、文久元年(1861年)に先代増徳の養子となり、家督を継いだ。
増裕は洋式兵学に詳しく、見識も高かったうえ、譜代大名出身でもあったために襲封直後から講武所奉行に任じられ、さらに海陸軍兵制所主宰、翌文久2年12月には陸軍奉行となった。
一方で保守的な藩政や重臣層の抵抗による過去の改革の失敗から、藩政の改革には慎重で、全権委任、信賞必罰などいくつかの条件を重臣たちに承諾させたうえで、文久3年(1863年)ごろから改革に取り掛かった。
同年3月15日には藩政に専念するために、病と称して公儀の職を辞している。藩政の改革は西洋式兵術を取り入れた兵制改革、新田開発と勧農政策を柱とする増収策、人事の刷新など積極的なものであった。また、藩校作新館を設立した。
慶応元年(1865年)海軍奉行に任じられて公儀に戻り、翌慶応2年8月には若年寄格、慶応3年(1867年)には若年寄となった。
同年12月に帰藩し、9日に遊猟に出た際に猟銃の弾が当たり急死した。この死には自殺、他殺、事故死の諸説あるが真相は不明である。

大関増勤 おおぜきますとし
1849~1905(嘉永2~明治38)、幼名泰次郎、従五位下、美作守、正五位、従四位、正四位、従三位、正三位
下野黒羽1万8千石

丹波山家藩主谷衛滋の子として生まれ、慶応3年(1867年)12月に死去した先代増裕の養子となり、慶応4年(1868年)3月5日に家督を相続した。
幕府の要職を歴任した先代増裕の死去により、黒羽藩の藩論は新政府への恭順に決まり、慶応4年2月には周辺諸藩に先駆けて新政府への恭順と奥羽征伐への出兵を願う使者を派遣した。
黒羽藩兵は会津戦争で先陣を勤めたほか、二本松城攻略にも参加し、下野国内での騒動鎮圧にも活躍した。戦後は奥州棚倉領や南部領の取締りを命じられた。
これらの功績から明治2年(1869年)には賞典録1万5千石を賜った。同年6月に版籍奉還により黒羽藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県により職を免じられた。
米国留学ののち大講義に任じられ、東京永田町日枝神社神官などを勤め、明治38年8月9日に57歳で死去した。

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