歴史の勉強

江戸町奉行大岡越前守忠相といえば、知らぬ人はいないほどだが、その大岡氏の出自は寛政重修諸家譜によれば、藤原北家教実流で、教実の後裔忠教が三河国八名郡宇利郷に住み、のちに同郡大岡に移り住んで名字としたことに始まるという。
大岡忠勝のときに松平清康、同広忠に仕え、その子忠政は広忠、家康に仕えた。忠政には忠俊、忠行、忠世、忠吉と4人の男子があったが、忠俊は関ヶ原で忠行は大坂の陣でそれぞれ戦死し、忠世の長男忠種が忠行の家督を継ぎ、忠種、忠世、忠吉の3系統が旗本となった。
江戸中期に至り忠世の系統から忠相が出て江戸町奉行となり、やがて1万石を与えられ三河国西大平藩主となり、幕末まで七代に渡り相伝した。
また、忠吉の系統からは忠光が出て、九代将軍家重の側用人となり武蔵岩槻藩2万3千石の大名となり、幕末まで八代続いた。
なお、忠相も忠世直系ではなく、忠吉の曾孫で忠世の子である忠真の養子になったものである。

忠光系大岡氏のページ

大岡忠相 おおおかただすけ
1677〜1751(延宝5〜宝暦元)、幼名忠右衛門、従五位下、能登守、越前守
三河西大平1万石

大岡忠吉の孫にあたる旗本大岡忠高の四男として生まれた。貞享3年(1686年)に同族の大岡忠真の養子となり、元禄13年(1700年)7月に家督を継いで1920石の旗本となる。
元禄15年(1702年)御書院番、宝永元年(1704年)徒士頭、宝永4年(1707年)御使番、翌宝永5年目付、正徳2年(1712年)山田奉行となり従五位下能登守に叙任。
さらに将軍吉宗によって享保元年(1716年)普請奉行、翌享保2年江戸町奉行となり越前守に改める。忠相は江戸町奉行を19年に渡り勤め、すぐれた能力を発揮して後年にも名奉行として知られている。また地方御用掛を兼務した。
元文元年(1736年)に寺社奉行となり、寛延元年(1748年)には奏者番を兼ねた。武蔵野新田開発や酒匂川治水工事、相対済し令、目安箱の設置、小石川養生所設置、町火消しや瓦屋根・火除地など江戸防火対策など多くの功績で知られる。
この間、享保10年(1725年)武蔵、上総両国内で2千石、元文元年(1736年)上野、下野両国内で2千石をそれぞれ加増され官棒と合わせ1万石格となり、寛延元年(1748年)に官棒に代えて三河国内で4千80石を加増されて都合1万石となり西大平藩が成立して諸侯となった。
しかし西大平の地には入ることなく、3年後の宝暦元年12月19日に75歳で死去した。

大岡忠宜 おおおかただよし
1709〜1766(宝永6〜明和3)、幼名求次郎、従五位下、紀伊守、能登守、越前守
三河西大平1万石

先代忠相の二男で長男市十郎の早世により世子となり、享保11年(1726年)西の丸小姓、享保19年(1734年)従五位下紀伊守叙任のうえ本丸小姓、宝暦2年(1752年)2月12日に家督を許され西大平藩二代藩主となった。
同年10月大番頭、宝暦13年(1763年)に領地替えにより関東の封地を三河に移される。明和3年8月26日に江戸において58歳で死去した。

大岡忠恒 おおおかただつね
1751〜1786(宝暦元〜天明6)、幼名竜助、従五位下、越前守、美濃守、能登守
三河西大平1万石

先代忠宜の二男として生まれ、明和3年(1766年)父忠宜の死去により家督を継いだ。明和6年(1769年)4月日光祭礼奉行を勤め、天明4年(1784年)5月29日に病により養子忠與に家督を譲り隠居、天明6年3月17日江戸において36歳で死去した。

大岡忠與 おおおかただとも
1755〜1786(宝暦5〜天明6)、幼名匡之丞、従五位下、越前守
三河西大平1万石

播磨国安志藩主小笠原長逵の三男で、先代忠恒の養女と結婚して世子となり、天明4年(1784年)5月忠恒隠居により家督となったが、2年4ヵ月後の天明6年10月17日に32歳で死去した。

大岡忠移 おおおかただより
1784〜1837(天明4〜天保8)、幼名千太郎、従五位下、越前守、左衛門尉
三河西大平1万石

先々代忠恒の三男として江戸で生まれ、先代忠與の養子となった。天明6年(1786年)10月に忠與が死去したために、わずか3歳で藩主となった。
享和元年(1801年)日光祭礼奉行、翌2年大坂加番、文化2年(1805年)日光祭礼奉行、文政7年(1824年)日光祭礼奉行などを勤め、文政11年(1828年)11月20日に病気を理由に隠居、天保8年7月11日に江戸において54歳で没した。した。
忠移の代は藩財政の最悪期で、寛政11年(1799年)に5ヵ年の倹約令を出し、借財の返済停止や御用金調達などで凌いだ。

大岡忠愛 おおおかただよし
1807〜1857(文化4〜安政4)、幼名相太郎、従五位下、紀伊守、越前守
三河西大平1万石

先代忠移の嫡子として江戸で生まれ、文政11年(1828年)11月父忠移の隠居により藩主となった。
文政12年(1829年)日光祭礼奉行、天保2年(1831年)大坂加番、天保8年(1837年)大番頭、天保14年(1843年)大坂在番などを勤めたあと、嘉永5年(1852年)閏2月奏者番に就任した。
安政4年9月27日に隠居し、翌10月5日江戸において51歳で死去、書画に優れた才があったという。

大岡忠敬 おおおかただたか
1828〜1887(文政11〜明治20)、幼名鉄吉、従五位下、越前守
三河西大平1万石

先々代忠移の五男として江戸に生まれ、兄忠愛に男子がなかったために、その養子となった。安政4年(1857年)に忠愛が隠居したために家督を継いだ。
安政6年(1859年)日光祭礼奉行、万延元年(1860年)大坂加番、文久2年(1862年)大番頭を勤めた。幕末にあたり、当初は佐幕であったが鳥羽伏見の戦い後は、小藩故に大勢に順応せざるを得ず官軍に従い、挙母藩や田原藩とともに官軍の輸送の任にあたった。
明治2年(1869年)版籍奉還、藩知事を経て明治4年(1871年)廃藩置県で免職となった。明治20年6月11日に60歳で死去した。

武家・大名録の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -