歴史の勉強
(奥平松平家)

奥平氏は、村上天皇の第七皇子具平親王の後裔である赤松氏の流れをくむといい、その子孫が上野国甘楽郡奥平郷に住したことから、奥平氏を称したとするが、伝承の域を出ない。
室町時代の前期、奥平貞俊が上野国から三河国設楽郡作手に移住し、三河山間部の小豪族として嗣を継いだ。戦国期には今川氏に属し、のちに松平氏に与した。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍に包囲された長篠城を守り抜いた奥平信昌は、翌天正4年に家康の長女亀姫を正室に迎えた。嫡子の家昌は奥平家を継ぎ、二男家治と四男忠明は家康の養子となり松平姓を名乗り、三男忠政も松平姓を下賜された。
三男忠政の系統は信昌の跡を継いで加納藩主となったが三代で無嗣除封となった。また二男家治も早世し、その遺領を継いだ四男忠明の系統だけが明治まで続いた。

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松平忠政 まつだいらただまさ
1580〜1614(天正8〜慶長19)、幼名忠七郎、従五位下、飛騨守、従四位下、侍従、摂津守
美濃加納10万石

奥平信昌の三男として三河国で生まれる。生母は家康の長女亀姫で、文禄4年(1595年)に16歳で元服。慶長2年(1597年)に上野国吉井藩主菅沼定利の養嗣子となり、関ヶ原役には定利とともに出陣した。
慶長7年(1602年)10月に定利が死去したが、その際に将軍秀忠の命により養子縁組を解消し、実父信昌が致仕した奥平家に戻り信昌の跡を襲う。同時に松平姓を賜った。信昌は隠居領として4万石を得たために、襲封時の石高は6万石であった。
美濃国の大名の旗頭を命じられ、慶長8年(1603年)の家康上洛に供奉した。慶長13年(1608年)従四位に昇叙され4万石を加増、所領は10万石となる。キリシタンに入信し洗礼を受け、洗礼名をフランシスコという。
生来病弱であり、藩政の実権は隠居した父信昌にあったという。慶長19年10月2日、大坂の陣出陣準備中に35歳で死去した。

松平忠隆 まつだいらただたか
1608〜1632(慶長13〜寛永9)、幼名千松、従五位下、飛騨守
美濃加納10万石

先代忠政の嫡男で、慶長19年(1614年)10月父忠政が死去したために家督を継いだが、寛永9年1月5日に25歳の若さで死去した。
忠隆の没後に実子左京亮が生まれたが家督相続は認められず、左京亮も慶長12年(1635年)7月に4歳で早世し、奥平松平家宗家は絶家となった。

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