歴史の勉強

本姓は藤原氏で、その祖である武智麻呂の三男乙麻呂の後裔為憲の流れという。為憲は木工助が官職であったので工藤氏を称し、その一族である入江氏の維清の孫清綱が駿河権守となった。
さらにその子の泰綱が鎌倉時代に駿河国志太郡岡部郷の地頭となって岡部氏を称したとする。
その後、鎌倉時代から室町時代中期までは動静不明であるが、その間に駿河守護の今川氏に仕えるようになり、戦国大名化した今川氏の家臣として活躍する。戦国期の岡部正綱も今川義元に仕えた。
しかし今川氏は、桶狭間での義元の死を契機に急速に衰退していった。そのようななかでも正綱は最後まで今川家臣として忠誠を尽くした。
武田信玄による駿河攻撃の際も、今川氏真は掛川城に敗走したが、正綱は駿府城に籠城して防戦したという。正綱は駿府落城後は信玄に仕え、武田氏滅亡後は徳川氏に仕えた。
正綱の跡を襲ったのが長盛で、家康のもとで数々の軍功を挙げ、家康の関東入府の際に上総・下総国内で1万2千石を与えられ、さらに関ヶ原役後は丹波亀山3万2千石を与えられた。
その後丹波福知山、美濃大垣と移封され、その子の宣勝は播磨龍野を経て和泉岸和田6万石となった。これ以後岡部氏は明治維新まで岸和田藩主として代を重ねた。

岡部長盛 おかべながもり
1568~1632(永禄11~寛永9)、幼名半弥、弥次郎、従五位下、内膳正
下総山崎1万2千石→丹波亀山3万4千石→丹波福知山5万石→美濃大垣5万石

岡部正綱の嫡男として生まれ、天正12年(1584年)2月に家督となり徳川家康に仕える。同年小牧・長久手戦い、翌天正13年に上田城攻めで戦功を挙げ、天正16年(1588年)従五位下内膳正に叙任された。
家康の関東入封後に下総山崎1万2千石を与えられる。関ヶ原役では会津上杉軍の抑えの一員として下野黒羽城を守備した。慶長14年(1609年)8月に2万石を加増され、丹波亀山に転封となった。
亀山に入封後にさらに2千石を加増され、大坂冬の陣、同夏の陣で活躍し戦功を挙げた。元和7年(1621年)に加増の上、丹波福知山に転封された。
福知山では行儀三十一カ条を制定するなど文治を心掛けたが、3年後の寛永元年(1624年)に美濃大垣に移され、同地で寛永9年11月2日に65歳で没した。

岡部宣勝 おかべのぶかつ
1597~1668(慶長2~寛文8)、幼名左京、従五位下、美濃守
美濃大垣5万石→播磨龍野5万石→摂津高槻5万石→和泉岸和田6万石

先代長盛の子として生まれ、に父とともに大坂冬の陣、同夏の陣に出陣して活躍した。寛永9年(1632年)に父の死去により家督を継いだが、3ヶ月後の寛永10年3月にに播磨龍野に転封となった。
龍野在封はわずか3年で、寛永13年(1636年)6月に摂津高槻に移された。これは前年から天領となっていた高槻城の守衛を命じられていたためで、4年後の寛永17年(1640年)に1万石加増の上、和泉岸和田に転封となった。
岸和田では前藩主松平(松井)氏が二割の高直しを願い、封地はそのままで5万石から6万石となり、その分軍役も増えた。そのために過酷な年貢が徴収され農民は不満を抱いており、宣勝入封直後に領内108村の農民が城下に押し寄せて強訴に及んだ。
宣勝は農民を慰撫し、3千石を減じて一揆を防いだ。また年貢の引き下げも行った。一方城の整備を図り、石垣を築いて守りを強固にし、さらに寺社の建立や復興も行った。
寛文元年(1661年)10月27日に致仕して土生村に隠棲し、寛文8年10月19日に72歳で没した。

岡部行隆 おかべゆきたか
1617~1687(元和3~貞享4)、幼名竜千代、従四位下、内膳正
和泉岸和田5万3千石

先代宣勝の長男として江戸で生まれ、寛文元年(1661年)10月27日に宣勝が致仕したことにより襲封した。このとき宣勝の意志により弟の高成へ5千石、豊明に2千石をそれぞれ分知した。
襲封の翌年の寛文2年(1662年)に地震と台風により領内は大きな被害を受け、初めて藩札を発行したが、その治世は概ね良好であり良君と称せられたという。
貞享3年(1686年)8月25日に致仕して長男長泰に家督を譲り、翌貞享4年12月25日に71歳で岸和田にて没した。

岡部長泰 おかべながやす
1650~1724(慶安3~享保9)、幼名竜千代、従四位下、備後守、美濃守
和泉岸和田5万3千石

先代行隆の長男として慶安3年4月8日に江戸で生まれた。初名を宣就という。父行隆の致仕により貞享3年(1686年)8月25日に封を継いだ。襲封の年に奢侈遊興を禁じる条々を家中に示し、翌貞享4年(1687年)には奢侈を戒める領民心得定書を発布した。
宝永4年(1707年)には大地震により大きな被害があったが、幕府の禁令により藩札の通用を停止した。また宝永7年(1710年)には煙草の栽培を禁じた。
長泰は奢侈に流れず謹厳であったために、比較的財政に余裕もできた。また元禄16年(1703年)に京都の伏見稲荷を城内に勧請し、稲荷祭を行ったが、これが岸和田だんじり祭の起源とされる。
享保6年(1721年)9月22日に致仕して長敬に家督を譲り、享保9年7月18日に75歳で岸和田にて死去した。

岡部長敬 おかべながたか
1680~1724(延宝8~享保9)、幼名大助、従五位下、内膳正
和泉岸和田5万3千石

先代長泰の二男として延宝8年10月3日に岸和田で生まれ、兄の早世により嗣子となった。享保6年(1721年)9月22日に父長泰が致仕したために封を継いだ。翌享保7年に享保備定と呼ばれる軍制を定めた。
享保8年9月18日に奏者番に補せられ、また絵画をよくしたが、享保9年7月25日に父の後を追うように45歳で死去した。

岡部長著 おかべながあきら
1711~1756(正徳元~宝暦6)、幼名豊次郎、従五位下、美濃守
和泉岸和田5万3千石

先代長敬の庶子で二男であったが、兄の早世により嗣子となった。長著の代には財政に陰りが見え始め、文武奨励、倹約励行などを中心とした、長著公享保之条目とよばれる、17ヶ条の条目を家中に示した。
享保16年(1731年)にはは飢饉により佐野村の田端荘右衛門が藩政について幕府に密訴し、打ち首となった。また、寛保2年(1742年)には馬場村の森田小平次が郷蔵を破って米を困窮する農民に分け与えるという事件があり、小平次は処刑された。
長著も藩政に専心し文武に励んだが、藩財政の窮乏と相次ぐ凶作に農民は困窮していった。宝暦6年(1756年)5月10日に長著は致仕し、同年6月4日に46歳で江戸において没した。

岡部長住 おかべながすみ
1740~1809(元文5~文化6)、幼名満弥、従五位下、内膳正
和泉岸和田5万3千石

先代長著の嫡男として生まれ、宝暦6年(1756年)5月10日に長著の致仕により封を継いだ。病弱であったといわれるが、父長著の享保之条目の周知徹底のために、数度の細目の発布を行うなど藩政には熱心であった。
病弱を理由に明和9年(1772年)4月23日に弟で養嗣子の長修に家督を譲って隠居し、文化6年8月8日に江戸において70歳で死去した。

岡部長修 おかべながなお
1746~1795(延享3~寛政7)、幼名鍋吉、従五位下、美濃守、駿河守
和泉岸和田5万3千石

先々代長著の四男として岸和田で生まれ、明和8年(1771年)先代で兄である長住の養子となった。翌明和9年4月23日に長住の隠居により、襲封した。
同年6月には三ヶ条からなる教訓を布れ、孝行と家族の親和、農業への精出、倹約と家名の維持を説いた。これは大慈公三ヶ条の御触書とよばれる。
しかし長修もまた病弱であったために、安永5年(1776年)8月18日に30歳の若さで隠居し、寛政7年11月25日に岸和田において50歳で死去した。

岡部長備 おかべながとも
1763~1803(宝暦13~享和3)、幼名富三郎、従五位下、美濃守
和泉岸和田5万3千石

先代長修の長男として宝暦13年に岸和田で生まれた。長修は病弱であったために、安永5年(1776年)に隠居し、長備が封を継いだ。このころ領地一帯は天災が相次いで凶作が続き、付近の一橋領では一揆も発生した。長備は幕府の要請により、一橋領の一揆鎮圧のために藩兵を派遣している。
寛政元年(1789年)には蜜柑の栽培を奨励し、翌2年には織機制限令や多領奉公禁止令を発布している。寛政3年にはロシア船が紀州に漂着したことを受け、海防を固めた。享和3年11月5日に41歳で没し、跡は二男の長慎が継いだ。

岡部長慎 おかべながちか
1787~1858(天明7~安政5)、幼名第次郎、千弥、従五位下、美濃守
和泉岸和田5万3千石

先代長備の二男として生まれ、兄で世子であった長周が死去したために世子となり、長備の死去に享和3年(1803年)12月に封を継いだ。藩は極度の財政難に陥っており、長慎は襲封すると食事や衣服などの質素倹約を自ら実行した。
家中の禄高をすべて面扶持とし、また村々へも献金を要請し、文武を奨励、家臣へも信賞必罰をもって臨んだ。天保4年(1833年)11月24日に隠居し、南山と号して岡部家家訓を撰し、本草綱目図譜などを著した。安政5年12月25日に72歳で没した。

岡部長和 おかべながより
1807~1850(文化4~嘉永3)、幼名直吉、弥次郎、従五位下、内膳正
和泉岸和田5万3千石

先代長慎の長男として文化4年に岸和田で生まれ、天保4年(1833年)11月24日に長慎が隠居し、封を継いだ。天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱に出兵し、大阪城を守備した。
天保12年(1841年)には倹約18ヶ条の触書を出し、天保の改革の徹底を図った。天保14年(1843年)に奏者番となる。嘉永3年9月24日に44歳で死去した。

岡部長発 おかべながゆき
1834~1855(天保5~安政2)、幼名武吉、武之丞、弥次郎、従五位下、美濃守
和泉岸和田5万3千石

先々代長慎の六男として江戸で生まれた。先代長和の二子がいずれも早世したために養嗣子となり、長和の死去により嘉永3年(1850年)11月24日に襲封した。
翌嘉永4年に幕府の命により日光東照宮の修繕にあたった。安政元年(1854年)にはロシア軍艦が岸和田沖に来航し、防衛のために出兵した。翌安政2年2月4日に22歳の若さで没した。

岡部長寛 おかべながひろ
1809~1887(文化6~明治20)、幼名第二郎、従五位下、筑前守、正五位
和泉岸和田5万3千石

先々々代長慎の二男として生まれた。先々代長和は兄、先代の長発は末弟にあたる。分家を継いでいたが、先代の長発が若年で死去たために、急遽封を継ぎ岸和田藩主となった。
幕末の動乱期にあたり、慶応元年(1865年)には軍制を改め、翌慶応2年には藩校講習館に修武館と名付けた道場を増築した。戊申戦争では勤王方となり、鳥羽伏見の戦いでは討幕の旗幟を鮮明にした。
先代の長発には長男長職がいたが、生まれたのは長発の死後であり、すでに長寛が藩主の座にあった。そのために長寛の世継ぎを巡って騒動が起きた。すなわち長職派と長寛の長子三郎を推す一派である。
新政府が調査に乗り出した結果、長寛は家中不取締りとされた。そのため長寛は、明治元年(1868年)12月28日に長職に封を譲り隠居した。
実はこの世継争いは勤王派と佐幕派の争いでもあって、九方、結城らは勤王派、一方の長職派は佐幕であった。長職の襲封により佐幕派が息を吹き返したが、明治2年には佐幕派は処罰されることとなる。
なお、長寛は明治20年2月3日に79歳で死去した。

岡部長職 おかべながもと
1854~1925(安政元~大正14)、幼名弥次郎、従五位下、美濃守、正二位
和泉岸和田5万3千石

先々代長発の長男として、長発の死後に江戸で生まれた。そのために岸和田藩主は叔父の長寛が継ぎ、これがのちに世継ぎ騒動に発展した。騒動は弾正台にまで持ち込まれ、その結果長職が長寛の養嗣子となり、明治元年(1868年)に長寛が隠居して長職が藩主となった。
その直後の明治2年2月26日に版籍奉還、岸和田藩知事となる。その後廃藩置県により免職となった。長職は明治8年~15年にかけて米英に留学し、その後は英国公使館を経て外務次官、貴族院議員、東京府知事、司法大臣などを歴任し、大正14年12月27日に72歳で没した。

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