歴史の勉強

西尾氏は清和源氏の流れといい、源頼信の二男頼清の後裔と伝える。すなわち、頼清の孫清景が丹波に下り、その後裔籾井光秀が三河国幡豆郡西尾に移って西尾氏を称した。
光教の孫の西尾吉次が西尾氏の祖となるが、吉次は吉良持広の子で初名を義次といい、西尾氏を継いだとされている。最初は織田信長に仕えて、信長死後は家康に仕えた。
徳川家康との接点は、家康が安土で織田信長の饗応を受けたときで、その接待役の一人であり堺にも同行し、本能寺の変で家康が伊賀越えで三河に戻ったときにも同行し、やがてその家臣に加わったという。
天正14年(1586年)伊賀越えの功績で、秀吉から吉の偏諱を賜り義次から吉次に名を改める。家康の関東移封により武蔵原市に5千石を与えられて旗本となり、慶長7年(1602年)に美濃国内で7千石加増され原市藩を立藩した。
その後、上野白井、常陸土浦、駿河田中、信濃小諸、遠江横須賀と移り、明治元年(1868年)最後の藩主忠篤が安房花房に移って廃藩となった。
また、籾井光秀の子信光を祖とする西尾氏があり、こちらは美濃で斉藤道三に仕えたのちに、信長、家康と仕えて関ヶ原後に揖斐藩主となり、揖斐西尾家と呼ばれるが、二代で無嗣断絶となった。

揖斐西尾家のページ

西尾吉次 にしおよしつぐ
1529~1606(享禄2~慶長11)、幼名小三郎、従五位下、隠岐守
武蔵原市1万2千石

享禄2年に三河東条城主吉良持広の子として生まれ初名を義次という。西尾氏に養子に入り家督を継いで、織田信長に仕えるが、人質であったともいう。
徳川家康が安土城を訪問し、その後泉州堺を遊覧した際に、その接待役となった。ところが、この遊覧中に本能寺で信長が斃れ、家康とともに伊賀越えをしてその警護にあたり、そのまま家康の家臣となった。
家康の関東移封に伴い武蔵原市で5千石を賜り旗本となり、天正19年(1591年)の九戸一揆、文禄元年(1592年)の肥前名護屋への出陣にも随行した。
その後も家康の旗本として会津征伐、関ヶ原へも出陣し、慶長7年(1602年)に美濃国内で7千石の加増を受けて1万2千石となり諸侯となった。
吉次には男子がなく、酒井重忠の三男忠永を婿養子としている。慶長11年8月26日伏見において78歳で死去した。
なお、吉次の名乗りは伊賀越えの功績で、天正14年(1586年)に秀吉から吉の偏諱を賜ったものである。

西尾忠永 にしおただなが
1584~1620(天正12~元和6)、幼名主水、従五位下、丹後守
武蔵原市1万2千石→上野白井2万石→常陸土浦2万石

酒井重忠の三男として三河に生まれ、男子がなかった西尾吉次の婿養子となる。慶長11年(1606年)養父吉次死去により家督を継いだ。
大坂の陣に出陣し、戦後の元和2年(1616年)に2万石をもって上野白井に転封となる。次いで2年後の元和4年(1618年)に常陸土浦に移る。土浦入封2年後の元和6年正月14日、37歳で死去した。

西尾忠照 にしおただてる
1613~1654(慶長18~承応3)、従五位下、右京亮、丹後守
常陸土浦2万石→駿河田中2万5千石

先代忠永の長子として生まれ、元和6年(1620年)3月父忠永の死去により家督を継いだ。寛永9年(1632年)に増上寺台徳院殿普請手伝、翌10年には増上寺本堂造営手伝、またこれより前の元和8年(1622年)の将軍秀忠の日光参拝の帰途には土浦に秀忠を迎えた。
慶安2年(1649年)2月に5千石を加増され駿河田中に転封となり、この地で承応3年10月26日、42歳で没した。忠昭とも称した。

西尾忠成 にしおただなり
1653~1713(承応2~正徳3)、幼名継之助、従五位下、隠岐守
駿河田中2万5千石→信濃小諸2万5千石→遠江横須賀2万5千石

先代忠照の長子で、誕生の翌年に父忠照が死去したために家督を継いだ。幼少のために叔父の忠知が後見し、忠知に益津郡のうち5千石を分与し忠成の領地は2万石となる。
延宝3年(1675年)に叔父忠知が死去したために5千石が還付され2万5千石に戻る。延宝7年(1679年)9月に信濃小諸に転封となる。次いで3年後の天和2年(1682年)3月に遠江横須賀に移る。
横須賀の地が近世城下町の体を成したのは忠成の時代とされ、性格温和で士卒や領民に対しても慈愛を持って接したとされる。また絵画に秀でたともいう。正徳3年10月13日に61歳で江戸藩邸において死去した。

西尾忠尚 にしおただなお
1689~1760(元禄2~宝暦10)、幼名千次郎、従五位下、播磨守、隠岐守、従四位下、侍従
遠江横須賀2万5千石→3万5千石(加増)

先代忠成の四男で、初名を忠直のちに忠尚に改名した。正徳3年(1713年)に父忠成死去により家督を継承した。
享保17年(1732年)3月に奏者番兼寺社奉行、享保19年(1734年)9月若年寄となり将軍吉宗の養女利根姫の婚儀を受持った。
延享2年(1745年)9月に遠江国豊田、敷知、周智、佐野の各郡内で合わせて5千石の加増を受け3万石となり西丸老中に就任した。
翌延享3年(1746年)5月に老中となり、寛延2年(1749年)に遠江国内で5千石を加増され3万5千石となる。老中在任中の宝暦3年に薩摩藩に対して、木曽川の堤防工事を命じた。
遠江出女今切気賀等関所通証文御用を命じられて、忠受の代まで西尾家が世襲した。藩政では歴代の中でも名君と言われて、産業の振興に努力し、文化面でも功績を残し、宝暦10年3月10日に72歳で没した。

西尾忠需 にしおただみつ
1716~1789(享保元~寛政元)、幼名安三郎、従五位下、主水正、従四位下
遠江横須賀3万5千石

讃岐丸亀藩主京極高或の二男として生まれ、先代忠尚の養子となる。宝暦10年(1760年)の忠尚が死去したために家督を継ぎ、明和2年(1765年)奏者番となった。
天明2年(1782年)9月29日に忠移に家督を譲り隠居し、寛永元年6月30日江戸において卒した。

西尾忠移 にしおただゆき
1746~1801(延享3~享和元)、幼名金三郎、従五位下、山城守、隠岐守
遠江横須賀3万5千石

先代忠需の二男として生まれ、初名を尚親という。長兄忠雅(ただまさ)が明和2年(1765年)に忠需に先立って他界したために、忠移が忠需の嫡子となり、天明2年(1782年)9月に忠需の隠居によって家督を相続。
天明4年(1784年)5月奏者番兼寺社奉行となるが、同年12月江戸藩邸より出火し、その責で一時謹慎する。天明6年(1786年)失脚した老中田沼意次の遠江相良城の受取を行う。
殖産振興に意を注ぎ、甘蔗の栽培と製糖を広めたほか、蘭学の導入にも熱心であった。
享和元年3月27日、横須賀において56歳で死去した。

西尾忠善 にしおただよし
1768~1830(明和5~天保元)、幼名栄次郎、従五位下、右衛門佐、右京亮、隠岐守
遠江横須賀3万5千石

常陸笠間藩主牧野貞長の四男として生まれ、天明2年(1782年)に先代忠移の婿養子となる。享和元年(1801年)忠移の死去により襲封。
文化3年(1806年)奏者番となる。文化8年(1811年)に藩校修道館を開き、国学者八木美穂を用いた。美穂は教授する傍ら、横須賀藩地誌郷里雑記を編纂している。
忠善は蘭学を奨励したほか、安房から漁師を招いて藩内の漁法を一新し、刀鍛冶を抱えるなど産業の近代化に力を入れた。
文政12年(1829年)3月16日病により隠居し、天保元年12月17日63歳で江戸屋敷にて死去。

西尾忠固 にしおただかた
1811~1857(文化8~安政4)、幼名剛之丞、従五位下、豊後守、隠岐守
遠江横須賀3万5千石

先代忠善の四男で、文政12年(1829年)忠善の隠居によって襲封した。先代忠善時代に引き続き学問に力を入れた。
天保14年(1843年)8月7日病により隠居し、安政4年閏5月27日47歳で横須賀にて死去した。

西尾忠受 にしおたださか
1821~1861(文政4~文久元)、従五位下、式部少輔、隠岐守
遠江横須賀3万5千石

播磨姫路藩主酒井忠学の弟で、先代忠固の養子となった。天保14年(1843年)襲封、弘化3年(1846年)6月奏者番。
茶の栽培に力を入れ、領内では茶園が拡張されていった。
文久元年7月26日に江戸藩邸で死去、41歳であった。

西尾忠篤 にしおただあつ
1850~1910(嘉永3~明治43)、幼名藤十郎、従五位下、隠岐守
遠江横須賀3万5千石→安房花房3万5千石

先代忠受の子で、文久元年(1861年)父忠受の死去により家督を相続した。明治元年(1868年)5月に版籍奉還によって徳川家達を藩主として駿府藩70万石が成立し、横須賀藩領もこれに組み込まれた。
そのため、同年8月に安房花房に転封となり、同地で廃藩置県を迎える。明治43年11月5日61歳で死去。

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