歴史の勉強

中村氏の出自は、近江源氏佐々木氏流、桓武平氏良文流、藤原氏流、橘氏流など諸説あって不明。また秀吉に仕え、中老も務めた一氏の生年も不明である。
逆にこれは一氏があまり重要ではない家の出であることを示しているともいえる。一説に近江国甲賀郡出身で、甲賀二十一家の一の多喜氏の出ともいう。
どちらにしろ、中村氏が世に出たのは一氏の代からであったが、一氏の子一忠が若くして死亡、無嗣であったために、大名としてはわずか二代で断絶してしまった。

大名騒動録・横田騒動のページ

中村一氏 なかむらかずうじ
?〜1600(?〜慶長5)、従五位下、式部少輔
駿河府中14万5千石

通称は孫平次。生年、出自とも不詳だが、天正元年(1573年)ごろに秀吉に仕えて、天正4年(1576年)には本願寺攻めに参加している。天正9年(1581年)の山崎合戦では鉄砲隊を指揮し、天正10年(1582年)の賤ヶ岳の戦にも参陣する。
同年、和泉岸和田で3万石の城主となる。翌天正11年(1583年)に、紀伊雑賀・根来衆2万3千がが岸和田に来襲。一氏は陣頭に立って奮戦し、大阪から黒田孝高(如水)の軍勢も駆けつけ、撃退した。
天正13年(1585年)近江水口で6万石、同時に従五位下式部少輔に叙任。天正18年(1590年)の小田原攻めでは山中城を攻略する武功を立てる。
天正18年7月家康の関東転封後の駿河府中に14万5千石で入る。この時に弟の一栄を沼津城に入れている。
文禄3年(1594年)に伏見城普請加役、翌文禄4年には秀吉の駿河直轄領の代官となった。また領国内では大井川河川敷の開拓、富士川渡船の整備、岡部宿の開設などを行い、慶長4年(1599年)には、村詮法度を発して領国支配の原則を示し、兵農分離を明確化している。
秀吉は家康を関東に移し、空いた東海道には秀吉恩顧の大名をずらりと並べた。そのもっとも東に位置したのが一氏で、仮想敵家康への最前線の防衛線として期待されていた。
その後堀尾吉晴、生駒親正とともに中老職を努める。中老は五大老・五奉行間の意見調整、諸大名の紛争の調停と探索をもっぱらの役目とした。
秀吉没後の家康の数々の策動で、三中老は大老や奉行、諸大名間を駆け回ったが、もともと役割が抽象的な上に権限もほとんどなく、期待通りに機能しなかった面がある。しかし秀吉の信任が厚かったことは事実であろう。
家康への防衛最前線を任された一氏であったが、関ヶ原では東軍についた。理由はわからないが、会津征伐時に一氏は重病となり駿府で病床にあったこと、家康の領国に近かったこと、駿府が会津征伐軍の通り道にあたったことなどが考えられるし、何よりも中老職を通して家康の実力を知っていたのだろう。
会津征伐には重病で参戦できず、中村隊は弟一栄が率いた。小山評定が行われ東軍の反転が決まり、東軍の将兵が続々と城下を通過していたであろう慶長5年7月17日に病没した。

中村一忠 なかむらかずただ
1590〜1609(天正18〜慶長14)、幼名一学、従五位下、侍従、伯耆守
駿河府中14万5千石→伯耆米子17万5千石

豊臣政権で三中老の一人であった中村一氏は、家康の会津討伐時には重病で居城駿府で重病の床にあった。
秀吉没後、家康への加担を決めていた一氏は名代として弟一栄を会津討伐に参加させた。これは嫡子一忠が10歳と幼かったためであった。しかし、一氏は慶長5年(1600年)7月、関ヶ原合戦の直前に病死し、関ヶ原本戦には一栄とともに一忠も参陣した。
戦後の論功行賞で一忠は3万石の加増を得、伯耆米子に転封となった。米子の城は手狭であったために、城の改修と天主の造営を行い普請が終るとともに新城に移った。
慶長8年(1603年)老臣の横田村詮を斬ったことから、横田の遺臣が飯山城決起して抗戦、松江の堀尾氏の助勢を得てようやく鎮圧した。これは、横田が専横だったとも、一忠が横田を煙たがったともいうが、先代からの老臣と二代目の争いの典型例であろう。
慶長11年(1611年)に元服し、秀忠より忠の字を諱として授けられ、名を忠一(ただかず)と改めるが、横田亡き後の中村家では忠一に意見するものもなかったらしく、忠一は遊興におぼれたという。
慶長14年5月11日 20歳の若さで急逝。嗣子がなく無嗣断絶となった。


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