歴史の勉強

桓武平氏長田流、平良兼の末裔という。長田親政を祖として代々長田氏を称していたが、重元が三河で松平広忠ついで家康に仕えた。
それまでのことについては、よくわかっていないが、いつしか三河に土着していたようである。重元の子が直勝で、直勝も家康に仕えたが、家康の祖先源義朝を討ったのが長田忠致であったことから、家康は姓を永井に大江氏流とするよう命じた。
直勝は家康の嫡子信康に近侍したが、信康自刃後は家康の旗本として活躍、とくに小牧・長久手の戦いで池田恒興を討ち取って名をなした。
家康の関東入部後は上野小幡1万7千石を領し、元和3年(1617年)常陸笠間3万2千石、元和8年(1622年)下総古河7万2千石、直勝の子の尚政は老中となり山城淀10万石となった。
延宝8年(1680年)尚長は、増上寺での法要の席で内藤忠勝に斬殺されて除封となったが、弟直円が大和新庄1万石を新封された。
尚政の弟直清を祖とする摂津高槻藩3万6千石、尚政の三男尚庸を祖とする美濃加納藩3万2千石の分家がある。

直清系永井氏のページ
尚庸系永井氏のページ

永井直勝 ながいなおかつ
1563〜1625(永禄6〜寛永2)、幼名伝八郎、従五位下、右近大夫
上野小幡1万7千石→常陸笠間5万2千石→下総古河7万石

永禄6年に三河国碧海郡大浜で生まれ、長田を姓として名乗る。はじめ家康の嫡子信康に仕え、信康自刃後の天正8年(1580年)から家康に仕えた。このとき家康の命により姓を長いに改めた。
天正10年(1582年)本能寺の変の際には、家康の供として堺におり、家康とともに伊賀越えをして帰国、天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いで池田恒興を討ち取って名をなした。
天正18年(1590年)の小田原征伐でも家康に従って参陣し、戦後の家康関東移封に伴って、相模・上総両国内で5千石を得た。
文禄の役では肥前名護屋に陣し、文禄4年(1595年)に従五位下、右近大夫に任じられ、豊臣姓を賜った。
関ヶ原役参陣後は近江で2千石加増、大坂の役にも功を挙げて、元和2年(1616年)に上野小幡1万石を加増され都合1万7千石となって諸侯に列した。
翌元和3年には1万5千石を加増され常陸笠間3万2千石に移封された。家康の死後は秀忠上洛に供奉し、福島正則改易の際には安藤重信とともに上使を勤め2万石加増、元和7年(1621年)日光山造営奉行となった。
翌元和8年8月に最上義俊改易の上使を勤め、同年12月下総古河7万石に転封となった。このとき秀忠より、常に在府して評定の席に列するよう沙汰された。
古河では御成門の構築など、将軍家日光社参の際の宿所となる古河城内外の整備に勤めたとされる。
また、細川幽斎より室町時代の古式、礼儀故実について講義を聞き「室町家式」三巻にまとめたとされ、学識も備えた武将であった。
寛永2年12月29日に江戸において63歳で死去した。

永井尚政 ながいなおまさ
1587〜1668(慶長9〜寛文8)、幼名伝八郎、従五位下、従四位下、信濃守
上総潤井戸2万4千石→下総古河8万9千石→山城淀10万石

先代直勝の長男として生まれ、父直勝とともに関ヶ原役に参陣し、慶長7年(1602年)に秀忠に近侍した。
慶長9年(1604年)常陸国内で千石を与えられ、翌慶長10年に従五位下、信濃守に叙任、元和元年(1615年)大坂夏の陣での使番としての働きにより御小姓組番頭に取り立てられた。
翌元和2年に武蔵・近江国内で4千石を加増され、元和5年(1619年)に上総潤井戸1万石を加増されて諸侯に列す。
元和8年(1622年)に老中となり、翌元和9年5千石を加増、新田を加えた高直しにより2万4千石となった。
寛永2年(1625年)に父直勝の死去により、翌寛永3年正月に遺領を継いだが、弟直清に3千5百石、同直貞に3千3百石、同直重に3千2百石を分与し、自身は旧領と合せ下総古河8万9千石を領す。
寛永9年(1632年)に秀忠が没すると土井利勝や北条氏重とともに、増上寺の秀忠廟所建立の奉行となり、翌寛永10年には老中職を解かれ山城淀10万石に移された。
淀移封後は京都所司代、大坂城代と協力して京畿の警備、治安維持にあたる。正保元年(1644年)に領内検地を実施したほか、慶安元年(1648年)には宇治の興聖寺を再興した。
万治元年(1658年)2月18日に致仕して長男尚征に家督を譲り、のちに剃髪して信斎と号す。寛文8年9月11日に82歳で死去した。

永井尚征 ながいなおゆき
1614〜1673(慶長19〜延宝元)、幼名大膳、従五位下、右近大夫
山城淀7万3千石→丹後宮津7万3千石

先代尚政の長男として生まれ、万治元年(1658年)2月に尚政の致仕によって襲封した。襲封に際して弟尚庸に2万石、同直右に7千石、同尚春に3千2百石、同尚申3千石を分与した。
寛文9年(1669年)に京極高国改易後の丹後宮津に移封され、延宝元年11月11日に60歳で死去した。

永井尚長 ながいなおなが
1654〜1680(承応3〜延宝8)、幼名伝三郎、従五位下、信濃守
丹後宮津7万3千石→除封

先代尚征の三男で、兄尚房が早世したために嫡子とされ、延宝元年(1673年)尚征の死去によって家督を継いだ。
延宝7年(1679年)11月に奏者番となった。翌延宝8年に四代将軍家綱が没したため、同年6月25日の芝増上寺での法会で奉行を勤めたが、翌6月26日に同じく奉行を勤めていた志摩鳥羽藩主内藤忠勝に切り付けられて即死した。27歳であった。
尚長には子がなかったために宮津藩領は収公され、永井氏は除封されるが、弟直円に大和新庄1万石が与えられ再興した。
尚長刺殺の原因は忠勝の発狂とされるが、尚長と忠勝の不和ともいわれる。また尚長は文人大名でもあり、領内各地に碑を建てたり、滝上山に庭園を営んだりしている。

永井直円 ながいなおみつ
1671〜1736(寛文11〜元文元)、幼名万之丞、従五位下、能登守
大和新庄1万石

先々代尚征の六男で、先代尚長の弟にあたる。先代尚長は延宝8年(1680年)6月26日に四代将軍家綱の法会の席上、志摩鳥羽藩主内藤忠勝に切り付けられて即死し除封となった。同年8月7日に弟直円に大和国葛上、葛下、忍海3郡内1万石が与えられ、これにより新庄藩を立てた。
しかし大和新庄には桑山一尹が藩主として在封しており、桑山氏の改易は天和2年(1682年)5月のことであり、それまでは新庄藩主ではなく大和国内に封地を持ち在府の状態であったとされる。
なお桑山氏改易後も永井氏は定府大名として歴代藩主は新庄に入部せず、新庄に永井氏の陣屋が営まれた記録はない。
宝永7年(1710年)11月3日に病気を理由に致仕し、二男直亮に家督を譲り、元文元年5月8日に66歳で死去した。

永井直亮 ながいなおすけ
1693〜1737(元禄6〜元文2)、幼名直之助、従五位下、播磨守
大和新庄1万石

先代直円の二男で、宝永7年(1710年)11月に家督を譲られた。享保8年(1723年)3月に大番頭となるが、享保13年(1728年)6月に病により辞任した。
享保17年(1732年)閏5月に大坂定番となり、その在任中の元文2年6月27日に45歳で死去した。

永井直国 ながいなおくに
1723〜1765(享保8〜明和2)、幼名金弥、従五位下、信濃守
大和新庄1万石

先代直亮の二男として生まれ、元文2年(1737年)に父の死により15歳で襲封した。明和2年2月4日に43歳で死去した。

永井直温 ながいなおあつ
1747〜1795(延享4〜寛政7)、幼名伝八郎、従五位下、信濃守
大和新庄1万石

先代直国の二男として生まれ、兄直孝が死去したために嫡子とされ、明和2年(1765年)に父直国の死去により家督を継いだ。
明和4年(1767年)、安永8年(1779年)に日光祭祀奉行、明和5年(1768年)二条在番、安永6年(1777年)大坂加番、天明元年(1781年)大番頭、天明8年(1788年)大坂城番などのほか各門番などを歴任した。
藩政面では、財政難により増税を行うなどしている。大坂在番中の寛政7年3月20日に49歳で没した。

永井直方 ながいなおかた
1778〜1825(安永7〜文政8)、幼名徹次郎、伝八郎、従五位下、信濃守
大和新庄1万石

先代直温の長男として生まれ、寛政7年(1795年)に直温の死去により家督を継いだ。文政4年(1821年)9月大番頭となるが、2年後の文政6年(1823年)9月に病により辞任。
文政8年(1825年)4月10日に致仕して長男直養に家督を譲り、同月25日に48歳で死去した。なお生年については家譜では天明2年(1782年)正月とされている。

永井直養 ながいなおのぶ
1803〜1854(享和3〜安政元)、幼名伝八郎、従五位下、信濃守、播磨守
大和新庄1万石

先代直方の長男として生まれ、文政8年(1825年)4月に父直方の致仕により家督を継ぐ。
文政10年(1827年)、嘉永元年(1848年)に日光祭祀奉行、嘉永3年(1850年)10月13日に致仕して養子直幹に家督を譲り、安政元年閏7月14日に52歳で死去した。
直養の時代は財政難に苦しみ、また天保の大飢饉も襲う苦難の時代であったが、倹約とともに他領への奉公を禁じて労働力の流出を防ぐ対処をした。

永井直幹 ながいなおもと
1829〜1882(文政12〜明治15)、幼名伝八郎、従五位下、播磨守、若狭守
大和新庄1万石→大和櫛羅1万石

一族の美濃加納藩主永井尚佐の七男で先代直養の養子となり、嘉永3年(1850年)10月直養の致仕により家督を継いだ。
嘉永4年(1851年)日光祭祀奉行、嘉永6年(1853年)大坂加番、安政5年(1858年)大番頭となった。文久3年(1863年)に文久の改革によって参勤交代制度が緩和され、そのために在国期間が長くなることから、幕領に囲まれた新庄から領内最高の収穫地の櫛羅に陣屋を移した。
同年12月8日に致仕して養子直壮に家督を譲り隠居、明治15年9月6日に54歳で死去した。

永井直壮 ながいなおさか
1846〜1865(弘化3〜慶応元)、幼名伝八郎、従五位下、信濃守
大和櫛羅1万石

一族の旗本永井直次の二男で先代直幹の養子となり、文久3年(1863年)12月直幹の致仕により家督を継いだが、2年後の慶応元年8月19日に20歳で卒した。

永井直哉 ながいなおや
1850〜1912(嘉永3〜明治45)、幼名伝八郎、従五位下、信濃守
大和櫛羅1万石

下総高岡藩主井上正瀧の五男で、先代直壮の養子となり、慶応元年(1865年)に襲封した。「なおちか」ともいう。
定府大名であった永井氏は幕末時にも積極的な行動はせず、明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事、明治4年(1871年)の廃藩置県により免官となり、明治45年正月11日に63歳で死去した。

武家・大名録の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -